第二部 第二章《始まりの歌》
眩しい。
その一言が、意識に浮かんだ最初の感情だった。閉じていた瞼の向こうから、白い光が差し込んでくる。神界の粒子が放つ柔らかな輝きではない。もっと温度のある、どこか懐かしい光。
ゆっくりと瞼を開く。白い天井。規則正しく回るシーリングファン。開け放たれた窓から、夏の風が白いカーテンを揺らしていた。
「……」
久遠莉愛は、しばらく瞬きすら忘れて天井を見つめていた。耳に届くのは、遠くを走る車の音。誰かの笑い声。鳥のさえずり。
神界では決して聞くことのない、人間の世界の音だった。
そっと身体を起こす。その瞬間だった。
「っ……」
胸の奥が、きり、と締め付けられる。思わず胸元を押さえ、小さく息を吸う。痛みは数秒で消えたが、それだけで額には薄く汗が滲んでいた。
「これが……」
人間の身体。
いや、この身体だけなのだろう。
神としての力を抑え込み、幾度となく世界を渡ってきた代償。
この器は、もう長くはもたない。分かっていたことだ。それでも実際に身体へ宿ってみると、その脆さは想像以上だった。
コンコン、と控えめなノックが響く。
「莉愛、起きたか?」
聞き慣れた声。
「……入って。」
扉が開き、久遠悠真が紙袋を片手に部屋へ入ってくる。
「朝飯。人間はちゃんと食わないと倒れるからな。」
机へ袋を置くと、ふわりと焼きたてのパンの香りが広がった。その香りに、莉愛は僅かに目を細める。
「……懐かしい。」
「覚えてるか?」
「少しだけ。」
記憶ではない。もっと曖昧で、身体の奥に染み付いた感覚。焼きたてのパンの匂い。コーヒーの苦味。朝日が差し込む部屋。
どれも、人として生きていた頃の残滓だった。
悠真はそんな莉愛を見つめながら、小さく笑う。
「今日は無理に動かなくていい。まずはこの身体に慣れろ。」
悠真は自分自身も5年ぶりの人間の肉体であるのに、それでも莉愛に気遣うように言った。
「……でも。」
莉愛の脳裏に、水色の髪をした少年が浮かぶ。透明な歌声。真っ直ぐな瞳。神界で一度しか見ていないはずなのに、その姿だけが妙にはっきりと残っていた。
「会ってみたい。」
思わず零れたその一言に、悠真は少し驚いたような顔をしたあと、静かに笑った。
「焦るな。逃げるようなもんじゃない。」
窓の外では、夏空の下を学生たちが笑いながら歩いている。
人間界は今日も、何事もなかったように時間を刻み続けていた。その世界へ、神だった少女は再び足を踏み入れたのだ。
パンを噛み、飲み込み、胃へ落ちていく。
神の身体なら、この感覚は存在しない。神々は空間に満ちる魔素を循環させるだけで生きられる。飢えも、満腹も知らない。
だからこそ、セシルは何度も食事を勧めていたのだろう。「食べる」という当たり前を、忘れてほしくなかったから。
「……美味しい」
思わず漏れた言葉に、莉愛自身が驚いた。悠真もまた、驚いていた。
悠真が最期にみた莉愛の悠月としての終末期には、こんな当たり前のことを感じられる余裕はなかったから。
二人は並んで、パンに口をつけた。まるで、この空間だけ、時がゆっくり過ぎていくような感覚。実際には、人間界の1日は神界では3日ほど。そう、ゆっくりしている場合ではないのだ。こんなところで油を売っているうちに、確実に、囚われた篠宮の体は消耗していく。
莉愛は最後の一口を飲み込むと、立ち上がった。久々の重力に、少しよろめいた莉愛を悠真が何気なく支える。
「どこ行くんだ」
「あの子のとこ」
「そんなに急ぐ必要もないだろ」
自分が急いだってどうしようもないことは分かっている。でも、なにかせずにはいられなかった。
「見に行くだけ、だから」
「分かった、ついて行く」
悠真は準備を整えるから、少し待っていろ、と告げて、寝室から出ていった。
残された莉愛は手持ち無沙汰になり、ふと、テーブルの上に置かれていた端末のことを思い出す。
人間界にいた時は、毎日のように触っていたそれが、どこか遠い存在のように感じた。
しかし、身体の記憶というのは面白いもので、電源の付け方も操作の仕方も、身体が覚えていた。
開いた検索アプリの窓に「WhiteFabriC」と入力する。出てきたのは、小さな芸能事務所のホームページ。どこか完成度の低いそのページには、「アイドルデビュー準備中」の文字がでかでかと掲げられていた。
アクセス、というページに飛ぶと、地図アプリを通して、現在地からの距離が表示される。徒歩20分。それってどれくらいだっけ、なんて思っていると、悠真が白いワンピースを持って戻ってきた。
そういえば改めて、自分の姿を確認すると、着ているのはよくあるルームウェア。このままでは外に出られないことすら、今の莉愛の思考では至らなかった。
「ほら、こういうの好きだったろ」
「……」
言い当てられたのが、不満とでもいうように莉愛は目を細めた。しかし、素直にそのワンピースを受け取って、寝室の全身鏡で自分に合わせてみる。
人間界に降りてから、自分の姿も確認していなかったことを思い出す。鏡の中の少女は、自分でありながら少しだけ他人のようだった。頬にはわずかな血色があり、呼吸に合わせて胸が上下する。その温もりは、神として在るときには感じられないものだった。そこに白いワンピースが映えている。
「……うん」
「じゃ、着替えて待ってろ」
そう言って悠真は寝室の扉を閉めて、出て行った。莉愛はワンピースに袖を通した。着替えて、寝室を出ると、悠真がキッチンに立ってコップにお茶を注いでいるところだった。莉愛の姿を見た悠真は、少しだけ口角を上げて、「似合ってる」とだけ呟いた。
玄関に向かう途中、部屋の隅に飾られた小さな写真立てが目に留まった。莉愛が人間として生きていた頃の姿が写っている。まだ幼かった自分。笑っていた自分。神界では永遠に忘れてしまいそうな、光景。
「行こうか」
悠真の声に、莉愛は小さく頷き、玄関の扉を開けた。夏の風がふわりと吹き抜け、白いワンピースの裾を揺らした。
夏の風が通りを渡るなか、ふたりはWhiteFabriCのオフィスへと歩いていた。莉愛はどこか落ち着かない様子で周囲を見回す。悠真はそんな莉愛の様子に気づきながらも、あえて口を挟まずに隣を歩いていた。
街の景色は平穏そのものだった。
コンビニの前では高校生らしいカップルがジュースを飲んでいる。
信号待ちをするOL。
犬を連れて散歩中の老夫婦。
何気ない日常が広がっている。
ふと、莉愛の足が止まった。
「どうした?」
悠真の問いかけに、莉愛は小さく首を振る。
「なんか……変な感じ」
「懐かしいか?」
「……分からない」
神として過ごしてきた時間はあまりにも長く、人間としての感覚はすでに遠い。でも、この胸のざわつきは、紛れもなく人間のものだった。
「そういえば、戸籍とか、どうなってるの?」
途中、急に気になったのか、莉愛が尋ねる。ここに降り立つまでの勢いが凄すぎて、細かいところの確認が疎かになっていた。
「セシルとミヴァが全部手配してくれたよ。俺たちの過去も捏造されてる」
「捏造?」
あまり響きのいい言葉ではないが、しかし必要不可欠なものだ。
「俺たちは普通の家庭に生まれて、ただ、18歳の時、今から考えると去年に、両親を事故で亡くして、二人暮し中ってことになってる」
ふぅん……、と自分から聞いておきながら、興味なさげに莉愛は頷いた。
「学校とか、仕事は?」
「大学に行ってた設定だが、ふたりとも今は休学中、だな」
「そう、」
交差点を渡り、住宅街を抜けると、少しずつ街の景色が変わり始めた。低層のマンションや一軒家が並んでいた通りは、いつの間にかガラス張りのオフィスビルや雑居ビルが目立つようになり、人通りも先程までとは比べものにならないほど増えている。
駅へ向かう人、会社へ急ぐ人、大きなキャリーケースを転がす旅行客らしき姿まで見え、人間界はそれぞれの時間を抱えながら忙しなく流れていた。
莉愛はそんな人々を目で追いながら、小さく呟く。
「みんな、忙しそう」
「朝だからな」
「神界も忙しいけど……なんか違う。」
神界では、時間に追われるという感覚は薄い。一日は三日にも感じられるほどゆっくりと流れ、神々は数十年先を見据えて物事を動かす。
けれど、人間は違う。
一日が終われば、その一日は二度と戻らない。
だからこそ、一秒を惜しむように走り、約束の時間に間に合うよう時計を見て、限られた人生を少しでも充実させようと生きている。そんな当たり前のことを、今さら思い出していた。
「莉愛」
悠真は前を向いたまま声を掛ける。
「ん?」
「人間として降りた以上、あまり神の感覚で考えるな」
「……」
「一日は一日だ。神界で三日経つことばかり考えてたら、お前は人間として生きられなくなる。」
その言葉に、莉愛は黙った。言われなくても分かっている。今回の目的は視察だけではない。もう一度、人間として世界を見ること。それができなければ、この身体を用意した意味がない。
その言葉を最後に、二人の間へ静かな沈黙が落ちた。
信号が青へ変わる電子音が響き、人の流れが一斉に動き始める。その波に乗るように横断歩道を渡りながら、莉愛は無意識のうちに行き交う人々の表情を目で追っていた。
笑いながら会話を交わす学生。イヤホンを耳につけたまま足早に駅へ向かう会社員。ベビーカーを押しながら、子どもへ優しく語りかける母親。
誰もが自分だけの一日を生きている。
それは神界から見下ろしていた頃にも理解していたつもりだった。しかし、こうして同じ地面を踏み、同じ空気を吸いながら眺める景色は、遥か上空から見ていた世界とはまるで違っていた。
「人間って、」
「ん?」
ぽつりと零れた言葉を悠真が拾う。
「短い人生、急いでるみたい」
「短いからこそ、大切なんだろ」
神々は永い時を生きる。だから焦る必要はない。今日できなければ百年後でも構わないし、千年先へ先送りにしたところで、大した問題にはならない。
けれど、人間は違う。
一日は二十四時間しかなく、一年はあっという間に終わり、気づけば歳を重ね、やがて人生そのものが終わる。
だから急ぐ。
だから今を生きる。
そんな単純なことすら、自分は忘れていたのかもしれない。
ぽつりぽつりと言葉を重ねているうち、大きな建物が連なるビル街に入ってきた。都心のビル街は、薄汚れていて、どこか不安定さを感じさせる。
ふと、耳を心地よいメロディが掠めた。
ビルの一階には見覚えのある白いロゴが掲げられていた。
《WhiteFabriC》
その入口のすぐ前で、一人の少年が歌っていた。すぐ目の前で、少年が、神界から眺めているだけだった少年が、歌っている。
いわゆる路上ライブというものだろう。まだデビュー前の少年・奏は、たどたどしいMCで、それでもそれなりの人数を集めていた。それこそが彼の凄さを表しているのだろう。
人だかりの後ろから見えた彼は、少し長めの水色の髪を靡かせて、ステップを踏んでいる。切れた息の隙間で、拙いメロディを紡いでいる。
莉愛が釘付けになっているのを、悠真は腕を組んで見守っていた。
ひと通り、歌いきった彼は「ありがとうございました!」と満面の笑みで深くお辞儀した。
人だかりが、ばらばらと解けて、そのうち数人は投げ銭をしているようだった。その度に彼は深くお辞儀をする。
莉愛もその波に混じろうと1歩踏み出した時、すれ違った人と肩がぶつかり、ぐらりと体躯が傾いた。
「っおい、」
悠真が咄嗟に体を支える。しかし、莉愛はそのままずるずるとその場に座り込んだ。
「大丈夫だ、少し座ってよう」
ぶつかった衝撃からか、はたまた別の不安があるのか、冷や汗を垂らした莉愛はぎゅっと目をつぶった。
通りから目隠しをするように、莉愛の体を覆って座った悠真は、水筒に入った水を差し出す。
「少し飲んでみろ」
こくこく、と水を飲んでいた時、ふ、と上から声が聞こえた。
「あの、大丈夫ですか……?」
悠真が見上げた先には、先程までみんなの注目の的であったその少年・奏だった。
悠真は一瞬たじろいだが、この5年で培ってきた神の精神で、なんとか心を落ち着かせた。
「心配には及びません。少し持病があるもので」
「そうですか……!」
その会話を聞いていた莉愛は、薄く目を開けて、この50年ほど見たことのないほど優しい顔で笑った。
「すごく、良かったよ」
その一言に、奏の顔はぱぁっと明るくなった。
「ありがとうございます!!」
また深くお辞儀をした彼は、ひょこひょことビルの壁際に走って、1枚のチラシを持ってきた。
《アイドルデビュー準備中!週に3回路上ライブしてます!》と掲げられた文字の下に3人の男の子が並んでいる。
「今日は俺なんですけど、他にも2人居て。2人ともすごくかっこいいんです!」
にこにこと笑うその顔は純真そのものだった。
「ありがとう、また見に来るね」
チラシを受け取った莉愛は、悠真に支えられながら、立ち上がった。
「はい!またよろしくお願いします!」
そう言って、路上ライブの片付けを始めた奏を背に、二人はもときた道を戻る。
これが、世界にとって大きな意味を持つ神と冥童の、なんでもない出会いだった。




