第二部 第三章《運命の歯車》
朝。
神界のぴりぴりした空気とは違う暖かい空気と共に目が覚めた。神界では、睡眠という行動すらも必要がないから、目が覚めるという感覚すら久しぶりだった。
喉が乾いて、空腹を覚え、寝癖ではねる髪。
人間の活動の全ては、以前にも白咲琴音として、久遠悠月として、体験していたもののはずなのに、どこか新鮮だった。
悠真は先に起きて朝食を作っていた。フレンチトーストの甘い香りが、少し狭めのマンションの室内に広がっている。
「朝って、いいね」
そんな悠真をみて、莉愛はぼそりと呟いた。ここ5年ほど、うわべの言葉しか発してこなかった少女の心からの言葉。
「…そうだな」
莉愛の言葉の裏に隠された、神としての重圧や虚無感が悠真には痛いほど伝わってきた。人間としての普通の体感する度に、自分が神として失ってきたものを思い出すのだろう。
フレンチトーストを齧りながら、悠真は片手にスーパーのチラシを広げた。
「10時からセールやってるから、行ってみるか」
「セール?」
「ほら、食べ物とかがちょっと安く買えるやつ」
セール、という概念すら忘れていた莉愛は、その言葉を聞いて、ふ、と息を吐いた。そういえば、そんなものもあったね、と笑い合うそんな時間が、ただ人間らしく幸せだった。
セール中のスーパーは、予想以上の人だかりだった。レジ待ちの長い行列に、2人も並ぶ。
「体、なんともないか?」
「へーきへーき、そんな心配しなくても」
手をひらひらと振る莉愛に少し不安を覚えていると、レジの順番が来る。
2人の生活費は、初期費用はセシルとミヴァが用意したものだ。いわゆる強くてニューゲームのような状態にも思えるが、過去の捏造から、そこまでの2人の生活を考えられた金額だ。両親の遺産で生活している、という設定になっている。
悠真は財布から、速やかに料金を支払い、レジを抜ける。購入物の袋を持つのはもちろん悠真だ。
悠真は、フィリスが悠月であった時代からそうだった。病弱な妹を溺愛し、過保護なくらいに守ってくれる。それは、今も昔も変わらないものだった。
帰宅して、買ってきたもので適当な昼食を取ったあと、莉愛は部屋の中に最初からあった本棚を眺め始めた。
「そこの本は悠月のときに持ってたものらしいぞ」
ミヴァやセシルの配慮だろう。人間として莉愛が、悠月が、フィリスが、興味を持っていたものたちが並べられている。
悠真とともに読んでいた推理小説から古い文学作品まで並ぶ本棚に、ひときわ、莉愛の目を引くタイトルがあった。
「基礎から学ぶ音楽理論」
そうだ。悠月として自分は音楽をしていた。病弱なからだのせいで、本当にやりたかった、自分が歌うことは叶わなかったが、曲を作り、いわゆるボカロPとして活動していたのだ。
「ねぇ、悠真」
莉愛はなにかを思いついた、というように目を見開いて悠真に話しかけた。
「パソコンってある?」
そのひと言と、今莉愛が手に持っている音楽理論の本をみて、悠真はすぐに察した。
まだ人間界に降りて、このマンションに来てから、入ったことのなかった小さな部屋に案内される。
なんとそこは、防音室になっていた。約3畳ほどの小さな部屋に、デスクトップパソコン・マイク・キーボードなど、たくさんの機材が所狭しと置かれている。
「…」
莉愛は唖然としていた。
「なんでこんなに用意いいの」
悠真は、その驚いた姿を見て、満足したのか、にこにこと笑っていた。
「どうせやりたがると思って。それに、アイドルになる彼と関わるのに、音楽は切り離せないだろ」
そうして、悠真は上がっていた口角をそのままに、少し真面目な顔になって続けた。
「あの事務所、音楽プロデューサー募集してたから。前みたいにボカロPになって、名を上げてから、応募するのがいいんじゃないかってな」
「応募…、わたしが彼の音楽プロデューサーに?」
「あぁ、っていうかそれくらいの事じゃないと、アイツに関わるの無理だろ。ノープランだったのか?」
莉愛は本当に何も考えていなかった。とにかく彼に会いたいという強い気持ちだけでここまで動いていたのだ。そういえば、人間界は魔法のように簡単にはいかない。
莉愛は、デスクトップパソコンの前に座った。電源を入れて、DAWを起動する。その様子は、慣れているように見えるが、莉愛は身体が勝手に動くことに戸惑っていた。
DAWに新しいプロジェクトを作る。
《untitled》
プロジェクト名はなんでも良かった。しかし莉愛の物語はここから始まっていく。
莉愛は、キーボードに手を当てて、最初の一音を紡いでいく。それはどこか優しくて、どこか切なくて、フィリスとしての自分と、人間としての自分を両方の側面から見ているような、そんな音だった。
それから莉愛は、朝になれば鍵盤を叩き、昼になれば歌詞を書き、夜になればミックスをやり直す。納得できずに全て消した日もあった。何日も、莉愛は防音室に篭もり続けた。悠月として音楽を作っていた経験が蘇って、莉愛の創作のスイッチがかちりと音を立てて、入ったのだ。
それすらも予想していたというように、悠真は莉愛を支え続けた。どんなに没頭していても、毎日三食きっちり取らせる。夜はちゃんとベッドに入れる。それだけのことを徹底した。
悠真がたまに様子を見に行った時の莉愛は、どこか迷っているようだったが、それでも夢中で音楽に向き合っていた。その姿が悠月の時代と重なって、思わず悠真に微笑みが漏れる。
それから2週間が経った。
どこかスッキリした顔で、防音室から出てきた莉愛は、小さな携帯用のスピーカーをリビングのテーブルに置いた。
空気が、ぴんと張って、カーテンが窓から入る風で靡いている。
悠真は静かにソファに身を沈めて、目を閉じた。これから流れる音楽に身を任せようという姿勢だった。
莉愛はスマホの再生ボタンをタップする。その動きに迷いは見られなかった。
《思い出して、ひと息》
《深く深く繋がる空の色》
《胸いっぱいに吸い込んだ》
《いまのかけがえのない幸せ》
流れる旋律は繊細で、ピアノやギターの音が、複雑に組み込まれていて、自然と身体がリズムに乗る。
懐かしい、と悠真は思った。
悠月の時代に聞いていた旋律と重なった。
最後にピアノだけが残って曲が終わった。
悠真はパチリ、と目を開いて、莉愛の目を真っ直ぐに見た。
「いいじゃないか」
そう言われて、満更でもない顔をした莉愛に悠真は続けた。
「これ、ネットに上げてみろよ」
「え?」
「音楽プロデューサーになるにも、実績がいるだろ。実績作りだよ」
うーん、と考えた莉愛は何も言わずに、また防音室へ戻って行った。
それからまた数日が経った。
莉愛はこの数日で、イラストと動画まで完成させて、投稿できる体制を整えていた。
そのスピード感とやる気に悠真は心底驚いていた。
少し前まで、何にも興味がないというような態度を取っていた人間…否、神が、音楽というきっかけがあるだけでこんなにも変われるのかと。
たまにテレパシで連絡を取り合っているミヴァとセシルも驚きを隠せない様子だった。
音楽はそもそも人間の作り出した文化だから、莉愛、否、フィリス自身、人間の作り出した文化が好きなのだろうと思う。
曲は「RiA.」というハンドルネームのついたアカウントに投稿された。
《思い出して、ひと息》
これが、運命の歯車を回しはじめる最初の一音だった。




