第二部 第一章《静寂の5年》
第2部 1章
5年。
それは神々にとって、決して長い時間ではない。
人間にすれば、生まれた子供が流暢に言葉を話す年齢になるが、万年を生きる神々からすれば、ほんの一瞬に過ぎなかった。彼らは、100年前のことを昨日の事のように、1000年前のことすら、ついこの間のように話す。時間という概念そのものが、人間とは根本的に違っていた。
だからこそ、ミヴァには分からなかった。
5年という短い間に、なぜこんなに変わってしまったのか。
冥界の空は、今日も静かだった。
灰銀色の運界がどこまでも続き、その上を淡い魂の粒子がゆっくりと流れている。死後の魂によって様相を変える空は、人間界の空とはまるで違う。しかし不思議と圧迫感は覚えない、むしろ安心する空だった。
何度目か分からないため息を吐いているうちに、いつの間にか冥神殿の正門までたどり着いていた。
普段なら、訪れることのない場所。
神々同士のやりとりは基本的に眷属を介して行われる。そのため、眷属自身が主以外の神へ直接面会を求めることは滅多にない。それに、普通の会話ならば粒子通信でも顔合せは出来る。もっとも、忙しい神々がそれに応じるかは分からないが。
それでも、今日、ミヴァ・セントリアがここを訪れたのには、大きな意味があった。
見知った顔ぶれの冥界の眷属たちに目線だけで挨拶をして、重い正門を押し開ける。
目的の人物は、黒い魔法陣を見つめて、玉座の肘掛に片肘を付いていた。訪問者に気づいて、僅かに目を見開く。
「ミヴァか」
「お久しぶりです」
その神、久遠悠真は玉座から立ち上がり、面会用の白い無機質なソファのようなものに腰掛け、ミヴァに向かいに座るように促す。
「どうした、急に」
「折り入って、ご相談がありまして」
その硬い表情に、悠真も思わず姿勢を正した。
「ゆづ……、いや、フィリスのことか」
「左様です」
万年を生きる神々にとって1日など取るに足らないものだ。100年を共にした従者でさえ、主の変化に気づくことは少ない。
それでも、ミヴァから見た主「フィリス・シャーマノイド」は日毎に感情を失い、よく言えば神らしくなり、悪く言えば人間らしさを失っていた。確実に変わっていくフィリスを見て、不安を覚えていた。
神として、神らしくあることは大事だが、同時にフィリスらしさも失って欲しくはなかった。フィリスは何度も人間界に降り立ち、人間と同じように生活した年月もそれなりにある。普通の神とは違い、人間らしい感情があるのが、フィリスの良いところだった。
それが最近に至っては、人間界での伴侶だった篠宮の捜索にも手をつけず、ただ神としての仕事を淡々とこなすだけ。嬉しい報告にも悲しい報告にも、怒りを覚える報告にすら「分かった」の一言のみ。ミヴァが話を持ちかけても、翻されることが多くなっていた。
「……そうか」
「悠真さまからも、フィルに働きかけていただけませんか。このままでは篠宮さまの奪還計画すら無くなりかねません」
「そうは言ってもな……」
とある人間界で、双子の兄として40年ほどを共にした悠真は、そんな妹の姿を見るのは初めてで、困惑していた。定期的に本人に粒子通信はするものの、心ここに在らずといった様子で、取り合ってももらえていないのだ。
しかし、ふと、先程見ていた資料のことを思い出した。ミヴァの視線を他所に立ち上がり、黒い魔法陣を操作して、ある画面を呼び出す。
「ミヴァ」
こっち、というように手招きをする。ミヴァは何も言わずに従った。そこに表示されていたのは、冥童候補とタイトル付された人間界のリアルタイム映像。映っているのは少年だ。明るい水色の髪が無造作に跳ねている。少年は「StellariuM」と書かれたビルに入っていく。
「ここは?」
「事務所だ。アイドル事務所」
「アイドル……」
それから2人でしばらく、その少年の様子を見ていた。少年はその事務所の練習室で歌とダンスのレッスンを受け、帰宅する。その一連の流れを見て、ミヴァは疑問符を浮かべた。
「彼がどうかしましたか?」
「……彼の視察に行ってもらうのはどうだ」
「フィルにですか?」
頷いた悠真に、ミヴァは少し間を置いて答えた。
「フィリスとして視察程度ならいいかもしれませんが、人間として降りるとなると……」
「何か問題があるのか」
「……はい。フィルの人間としての肉体は既に消耗が激しく、持っても10年が限界かと。それに、コンディションもかなり悪いです」
「肉体の消耗?」
「フィルはこれまでにいくつもの世界で人間として振舞ってこられました。中には戦争に参加したことまであります。その影響か、今の肉体では心臓に負担が大きいようで」
ミヴァの言葉に、今度は悠真が黙り込む。
しばらくして、ひとつ息をついたあと、悠真は言った。
「それでも、もう一度人間の温かさに触れれば、あいつも変わるかもしれない。試してみる価値はあると思う」
「……分かりました。ただ、当の本人が承諾するかどうか……」
「今から言ってもいいか。俺から話をする」
「承知致しました。転送魔法陣を展開いたします」
ふたりは立ち上がり、少し開けた空間で並んで立つ。ミヴァが展開した転送魔法陣に包まれ、ふたりはミュルフィア領へ動き出した。
かつて悠真も時間を過ごしたミュルフィア領が見えてくる。その中心に位置する魔法界神殿は、どこかピリッと張り詰めた空気に感じた。
足元の転送魔法陣は、淡い粒子となって空気へ溶け、やがて何事も無かったように消滅した。視線の先には見慣れた白い回廊。磨きあげられた床は、窓の外の緑色の空を綺麗に反射している。
ここに悠真が足を踏み入れるのは、5年ぶりか。
神になるための修行をしていた日からもう5年も経つなんて、信じられないが、これから万年を生きることを考えれば些細なことなのだろう。
「悠真さま」
回廊の先から見慣れた白髪が顔を出す。整った神官服を纏った彼は隙のない所作で、感情を表に出さない落ち着いた振る舞いだった。
セシル・ヴァルハイト。
約50年前からフィリスの直属の従者として、ここに身を置いている人間界出身の妖精だ。
「久しぶりだな」
「はい、ご無沙汰しております」
セシルは軽く頭を下げる。その顔が以前見た時よりもやつれているように見えたのは気のせいか。
「フィリスさまへ御用でしょうか」
「まぁな」
「フィリスさまは執務中でございます」
「そこをなんとか」
セシルはしばらく黙り込んた。何かを考えるように手を顎に当て、口を開きかけては閉じる。やがてひとつ息を吐いた。
「分かりました、少々お待ちください」
セシルは結界の張られた境界をすり抜ける。
視線の先にはいつも通り、感情のごっそり抜けた表情で執務をこなすフィリス。こちらに気づいた様子もなく、ただ書類に目を通している。
「フィリスさま」
一度の声掛けではこちらには反応をくれない。これも最近ではよくあることだった。セシルは少し強引に、フィリスの持っている書類を取り上げる。
「フィリスさま」
「……なに」
「悠真さまがお見えです」
セシルのその言葉にフィリスは僅かに表情を変えたものの、またいつもの顔に戻り、セシルから書類を取り返して言った。
「帰ってもらって」
「そういう訳にも行きません。なにか大事なお話があるようで」
「大事な話?仕事のこと?」
その言葉には、仕事のことならば対応する価値がある、という含みがあった。それを好機ととったセシルは大きく頷く。
「そうかもしれませんね」
「……分かった。通して」
「承知致しました」
長い回廊で待っていた悠真とミヴァのもとに、セシルが戻ってくる。
「許可を得ました。どうぞ」
セシルは境界の先に2人を誘導する。こんなやりとりも以前は必要なかったはずだと思うと、悠真の胸はちくりと少し傷んだ。
悠真とミヴァが境界を越えると、既にフィリスは玉座にはいなかった。きょろり、と少し視線を回すと、隣の面会用の席でつまらなさそうに肘をついている。
「悠月」
悠真はあえてその名を呼んだ。こうすることで少しでもフィリスがこちらに心を向けてくれればという僅かな望みからの言葉。
「……なに」
それは僅かでも効果があったのか、硬い表情をしていたフィリスは少し眉を上げた。
「それで、なんの仕事?」
「……あぁ、仕事、とも少し違うんだが」
その歯切れの悪い言葉に、フィリスは目を細めた。
「単刀直入に言うと、人間界へ行かないかって事なんだけど」
「は?」
突拍子もない提案に、怪訝そうに首を傾げたフィリスに悠真は続けた。
「最近見つけた冥童候補が気になってる」
悠真は先程冥界でミヴァと見ていた映像を再び呼び出し、フィリスのほうへ向ける。
フィリスも拒否するつもりはないのか、そちらへ目線を向ける。
時の流れが神界とは違う人間界では、既に次の日になっていた。また少年がレッスンをする様子が映し出されている。課題曲だろうか、アカペラで歌い出す少年に、フィリスは少し顔をモニターに近づけた。その様子に気づいた悠真は、モニターの音量を少し上げる。
素直な声で紡がれるまっすぐな旋律。講師を前にしているからか、少し震えているが、それでも心にまっすぐ届く透明な声をしていた。
「…………この子、」
ぼそりと呟くフィリスは、もうモニターに釘付けだった。1フレーズを歌い終えた少年は、ふぅと息を吐いて、閉じていた目を開けた。講師は大きく3度拍手をしたあと、歌に関する細かなアドバイスをしている。
「どうだ?」
悠真は未だ身を乗り出しているフィリスの肩に手を置く。はっとしたように、背もたれに体を預け直したフィリスは、ひとつ咳払いをして答える。
「……いいんじゃない」
最近のフィリスにしては柔らかい表情と言葉だった。
「この子は今、アイドル養成所に通っている。1年後にはアイドルとしてデビュー予定だそうだ」
「それで?わたしに何をして欲しいの?」
「この子の視察として、人間界に降りて接触して欲しい」
その言葉にフィリスは苦虫を噛み潰したような顔をして、とん、と机を指で叩いた。遠くで見ていたセシルがこちらへ歩み寄る。
「わたしは同意できません」
意外にも反対の意を示したのは、フィリスではなかった。
「……なんで?」
「フィリスさまの人間界用の肉体は消耗が激しく、健康体で降りられる保証ができません。悠真さまもご存知のような病弱な体での生活を余儀なくされます」
悠真はかつて人間界で共にすごした悠月を思い出した。悠月が病弱だったことにそんな理由があったとは想像もしていなかったようだ。
「悠真さまも共に降りるならどうだ」
ここまで口を出さなかったミヴァが口を開いた。ミヴァはフィリスが人間界に降りることに賛成のようだった。
「冥神が護衛としてつくなら、それ以上のことはないだろう」
続けてミヴァが言った。
「しかし……」
まだ言い淀むセシルに畳み掛けるようにミヴァは言う。
「それに、この子が死後、篠宮さまの奪還に強力してくれるとしたら?」
その言葉に、セシルを含むその場にいた全員が瞠目した。
「……フィル、お前もなにか感じているんだろう?」
黙ってやり取りを聞いていたフィリスに話を振る。
「……たしかに、この歌声があれば、あるいは……」
「……決まりだ。お前もいいな、セシル」
「……仕方ないようですね、しかし」
セシルは悠真に向き直る。
「フィリスさまのお傍を離れないと約束していただけますか」
「あぁ、もちろんだ」
話がまとまり、悠真が冥神殿に帰ったあと、セシルやほかの眷属たちも集まり、会議が行われた。
白咲琴音や久遠悠月の時代のように、赤ちゃんから転生するのでは間に合わないので、20歳地点から人間界に降ろすこと。
その場合の戸籍の取得や過去の偽造、ふたりの住居の用意までを迅速に進めた。
人間界へ降り立つときの名前はフィリスが決めた。
「久遠莉愛」
久遠としての余韻を残しながら、べつの人格として生きる決意が固まっていた。
全ての用意が整い、あとは魂を降ろすだけ。
悠真とフィリスは、転生魔法陣の中に立ちながら、少年の映ったモニターを見ていた。
「ほんと、不思議な子」
「なにかだ」
「なにか、魂に直接語りかけてくるような、そんな雰囲気を感じるの」
その言葉を最後に、転生魔法陣が2人を包み込む。
光で埋もれていく視界。
フィリスが人間として降り立つのはこれで何度目になるのだろう。それでも今回だけは少し違った。胸の奥に残るのは、失った記憶ではなく、水色の髪をした1人の少年だった。




