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Episode 0

 細い指が、わたしの首にかかった銀のネックレスに、そっと触れた。

 鎖は冷たいはずなのに、その指先が触れた瞬間だけ、淡いぬくもりを宿したように感じた。胸元で揺れる翠色の石が、まるで小さな心臓のように瞬いている。


 その光を見ていると、なぜか泣きそうになった。


「このネックレスは……絶対に外してはなりませんよ」


 優しい声だった。

 けれど、その声音に宿るのは、ただの優しさではなかった。何かを守り抜くと決めた人だけが持つ、静かで、折れない強さ。


 わたしはその人を見上げていた。

 長い髪。翠色の瞳。白い手。わたしを見つめる眼差しは、どこまでも穏やかなのに、奥の方に深い悲しみを隠している。


 あれは――お母さん?


 そう思った瞬間、視界の端がぼんやりと滲んだ。

 名前が出てこない。声も、匂いも、確かに懐かしいのに、その人を何と呼んでいたのかがわからない。


 それでも、翠の瞳がやわらかく笑ったとき、わたしも自然と笑っていた。

 小さな手でネックレスを握りしめる。石の表面は、氷のように滑らかで、けれど奥に火を抱いているように温かかった。


「いいですか。これは、あなたを縛るためのものではありません」


 お母さんは膝を折り、わたしと目線を合わせた。


「あなたを、守るためのものです」


「まもる……?」


「ええ。あなたの力は、とても大きい。まだ、あなた自身も知らないくらいに」


 その言葉の意味は、幼いわたしにはよくわからなかった。

 ただ、お母さんの声が少し震えていることだけはわかった。だから、わたしはネックレスを握ったまま、精一杯うなずいた。


「うん。はずさない」


 お母さんはほっとしたように笑い、わたしの額にそっと唇を寄せた。

 その瞬間、胸の奥に何かが刻まれた気がした。

 約束。

 あるいは、呪いにも似た、やさしい祈り。


 次の瞬間、視界が白く弾けた。


       *


「待ってください! この子を……!」


 母の叫びが聞こえる。

 さっきまでの静かな部屋ではない。空気が焼けるように熱く、どこか遠くで鐘のような警報音が鳴っていた。


 制服のような、軍服のような服を着た人たちがわたしを囲んでいる。

 肩には銀色の徽章。腰には細長い杖のようなもの。誰もが厳しい顔をしていた。わたしの方を見ているのに、わたし自身ではなく、わたしの中にある“何か”を見ているような目だった。


「この子はまだ幼いのです! 戦場に出せるような年では――」


「シーラ様。お気持ちはわかります。ですが、魔法界の防衛線はすでに崩れかけています」


 低い声がそう告げる。

 シーラ。

 その名前が、胸の奥で鈴のように鳴った。


 お母さんの名前。

 そうだ。お母さんは、シーラ。


「フィリスは適性を示しています。炎も、風も、癒しも、どの属性にも反応した。これ以上、候補を眠らせておく余裕はありません」


「この子は“候補”ではありません。わたしの娘です」


 母の声が鋭くなる。

 けれど、わたしはその声に背を向けていた。


 怖くなかったわけではない。

 ほんとうは怖かった。胸の奥が冷えて、足先が少し震えていた。

 でも、みんなが困っているのなら、わたしにできることがあるのなら、行かなければいけない気がした。


 わたしは振り返り、母に向かって笑った。


「大丈夫だよ、お母さん」


 その言葉は、本当にわたしのものだったのだろうか。

 幼い声なのに、どこか大人びていた。まるで、ずっと昔から自分の役目を知っていたみたいに。


 お母さんの顔が歪む。

 泣きそうな顔だった。


 けれど、その顔が遠ざかる。

 わたしは制服の人たちに囲まれながら、白い廊下を歩いていく。

 ネックレスの翠色の石が、胸元で小さく揺れた。


 視界にノイズが走る。


       *


 今度は、広く澄んだ空の下だった。


 白い石の柱が立ち並ぶ、神殿のような訓練場。

 床には幾何学模様の魔法陣が刻まれ、空気には雨上がりのような清らかな匂いが満ちている。遠くには、浮遊する島々と、光をまとった塔が見えた。


「そこじゃない、フィル!」


 オレンジ色の髪を持つ少女が、少し怒ったように声を上げる。

 髪は陽の光を受けて、火の粉のようにきらめいていた。丸い瞳は明るく、表情はころころとよく変わる。


「火は“押し出す”んじゃなくて、“撫でる”みたいにね! 強くぶつけたら、火の方もびっくりしちゃうんだから」


「火が、びっくりするの?」


「するよ。魔法は命みたいなものなんだから」


 少女は胸を張って言った。

 その仕草があまりに得意げで、わたしは思わず笑ってしまう。


「ミヴァは、火の気持ちがわかるんだね」


「もちろん。私は火と仲良しだから」


 ミヴァ。

 その名前も、自然に思い出せた。

 彼女はわたしの友達で、先生で、時々姉のようでもあった。わたしがうまく魔力を扱えずに落ち込むと、いつも隣に座って、同じ目線で話してくれた。


 わたしは両手を前に出す。

 深く息を吸う。けれど、肺に入ってくるのは空気だけではなかった。地面から、空から、周囲の柱から、淡い魔素が流れ込んでくる。


 押し出すのではなく、撫でるように。

 命に触れるように。

 壊さないように、驚かせないように。


 手のひらの上に、小さな炎の粒が現れた。

 はじめは灯火のように頼りなく揺れていたそれが、わたしの指の動きに合わせて、ふわりと浮かぶ。


 ミヴァが目を輝かせた。


「そう、それ! そのまま!」


 わたしは炎をそっと撫でる。

 すると、火はぱっと花びらのように広がった。赤、橙、金。小さな花がいくつも空中に咲き、光の粒を散らす。


「すごい、綺麗……」


 自分の魔法なのに、思わず声が漏れた。


「ふふん、フィルもだんだん上達してきたじゃん!」


 ミヴァが笑う。

 わたしも笑った。訓練場に、二人の笑い声が響いた。


 けれど、その空気の中に、わたしの胸はなぜか少しだけ切なさを感じていた。

 こんなに明るい空の下で、こんなに綺麗な魔法を見ているのに、心の奥がきゅっと痛む。


 この時間は、長く続かない。

 そんな予感だけが、なぜか確かにあった。


 そして――その小さな炎が、瞬く間に視界を覆っていく。


       *


「戦争が始まります。もう時間がないの」


 お母さんの手が、わたしの肩を握る。

 その手は少し震えていた。


 部屋の外では、誰かが走る音がしている。遠くで爆ぜるような音も聞こえた。窓の外の空は赤く染まり、見慣れた塔のいくつかが煙を上げている。


「あなたを……人間界に送ります」


 お母さんは、言葉を選ぶようにゆっくりと告げた。


「記憶は、きっと失われてしまう。でも、あなたは帰ってくる。必ず、自分を取り戻す日が来るわ」


「……うん」


 わたしはそう言って、また微笑んでいた。

 でも、本当は泣きたかった。行きたくなかった。お母さんの傍にいたかった。


「お母さんは?」


 ようやく出てきた声は、小さくかすれていた。


「わたしは、ここに残ります。この世界を、守らなければならないから」


「一緒に行けないの?」


 お母さんは答えなかった。

 答えないまま、わたしを強く抱きしめた。あたたかい腕。髪に触れる指。耳元で震える呼吸。


「フィリス」


「……なに?」


「あなたは、あなたのままでいて。誰かのために力を使うことは尊いことです。でも、あなた自身を失ってはいけません」


 その言葉の意味を、わたしはまた理解できなかった。

 けれど、忘れてはいけない言葉だと思った。


 足元に転移魔法陣が広がる。

 光がわたしを包み込む。お母さんの姿が、どんどん遠くなる。


「お母さん!」


 最後の瞬間、叫んだ。

 胸がきゅっと締め付けられるように痛かった。


 お母さんは泣いていた。

 それでも、最後まで笑っていた。


「いってらっしゃい、フィリス」


 光がすべてを飲み込んだ。


       *


 ――ぱちり。


 目が覚めた。


 天井の木目が、ぼんやりと目に入る。

 まどろみの余韻が、まだ身体に絡みついていた。布団の重さ。枕の匂い。窓の隙間から差し込む朝の光。


 ここは、わたしの部屋だ。

 白咲琴音としての、いつもの部屋。


 けれど、胸の奥だけが、まるで別の世界に置き去りにされたみたいにざわついていた。


「……夢、じゃない」


 わたしはそう、はっきり思った。


 あれは夢じゃない。記憶だった。

 自分が誰だったのか――その一片が、今、確かに胸に残っている。フィルと呼ばれたその人の記憶が、自分の記憶に混同して、目が回りそうになる。


 白咲琴音。

 小学校に通う、どこにでもいる女の子。


 フィリス。

 魔法界で生まれ、戦争の中で人間界へ送られた少女。


 どちらが本当のわたしなのか。

 そう考えた瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。


 ふと、手を見つめる。

 夢の中でしたように、そっと指を広げる。


 火は押し出すんじゃなくて、撫でるみたいに。


 ミヴァの声が、耳の奥で蘇る。

 わたしは息を止め、手のひらの上に意識を集めた。何かが、ほんの少しだけ震えた気がした。


 ……そのとき。


「ことちゃーん、起きてるの? ごはんできてるわよー!」


 階下から母の声が聞こえてきた。


 今の母。

 この世界で、わたしを育ててくれた人。


 胸が痛む。

 夢の中のお母さんと、階下の母。その二人の声が重なって、心の中がぐちゃぐちゃになる。


 記憶を試す時間はない。

 時計はすでに七時三十分を指していた。昨日用意したはずのランドセルは、なぜか遠い昔のもののように見えた。


「……はーい」


 返事をして、素早く制服に着替える。

 鏡の前で髪を整えながら、自分の顔を見た。


 黒い髪。まだ幼さの残る頬。眠そうな目。

 いつもの白咲琴音。


 でも、鏡の奥のわたしが、一瞬だけ翠の光を宿したように見えた。


「……気のせい」


 そう呟いて、わたしは部屋を出た。

 けれど胸の中の違和感は、ずっと消えてはいなかった。


       *


「白咲琴音さん」


 担任の落ち着いた声が、教室に響いた。


「……はい」


 わたしは少し遅れて返事をする。

 窓際の席。朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込む中、まだぼんやりした意識のまま、出席簿にチェックされるのを感じていた。


 教室の空気は変わらない。

 黒板、机、朝のざわめき。

 みんなが交わす挨拶やあくび、話し声。全部が、いつもの“世界”のはずだった。


 けれど、なにもかもがどこか薄く感じる。

 見えているのに、触れられないみたいだった。


 夢のことが、まだ頭から離れない。


 炎。

 オレンジの髪の少女。

 白い石の柱。

 お母さん。

 ネックレス。


 それはただの夢ではなかった。

 あれは記憶だったと、わたしの中の何かが確信している。


「ことちゃん、今日の給食、隣で食べていい?」


 友人が、小声で聞いてくる。

 わたしはいつも通りに「いいよ」と答えた。


 彼女はにこにこと笑って、もとの席へ戻っていく。


 ――ことちゃん。


 その響きも、日常も、すべてがうわべのように感じてしまう。

 呼ばれ慣れた名前なのに、どこか遠い。わたしの中で、別の名前が静かに目を覚まそうとしている。


 授業が始まっても、頭は回らなかった。

 黒板に書かれるひらがなやカタカナが並んでいく。けれど、その形はどこか曖昧で、ノートには蚯蚓のような線が連なっていった。


 先生の声が遠い。

 教室のざわめきも遠い。

 代わりに、胸の奥で魔素の流れのようなものがかすかに脈打っている。


 昼休みになっても、心は落ち着かなかった。


 みんなが楽しそうに給食を食べている中、わたしの耳に入ってくるのは、別の話題だった。


「ねえ、“まじかるぷりずむすたー”観た? 昨日!」


「観た観た! 変身のとこ、すごかったよね!」


「空飛んでるとことか、ほんとにかっこいい!」


 クラスの子たちが盛り上がっていた。

 いま、女子たちの間で大人気の魔法少女アニメ。カラフルな衣装に変身して、魔法で悪者を倒す。わたしも昨日までは、なんとなく観ていたはずだった。


 けれど今は、その会話が不思議なほど遠かった。


 魔法なんて、わたしにとっては“憧れ”ではなかった。

 あれは――。


 胸の奥が熱を持つ。

 手のひらが、かすかに疼いた。


「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」


 わたしは笑って席を立ち、教室を出た。


 行き先は、トイレではない。

 校舎の裏庭。

 ほとんど誰も来ない、校舎の陰になった場所だった。


 風の音だけが聞こえる。

 そこに立って、わたしはそっと手を上げた。夢の中と同じように、両手を前に出す。


 押し出すのではなく、撫でるように。


「……出て」


 小さく呟いた。


 手のひらの上に、炎の粒が現れた。

 小さく、淡く、けれど確かにそこにある“ひかり”。


 息を呑む。

 熱くない。怖くもない。ただ、懐かしい。


 それは、わたしの命に応えるように揺れていた。


 風は吹いていなかった。

 なのに、周囲の音がすうっと遠ざかっていく。空気が止まったような、世界そのものが息を潜めたような感覚。


 重力の感覚が曖昧になる。

 地面に立っているはずの足が、どこか遠くに感じた。ふいに、空気の密度が変わる。


 見慣れた裏庭の空。

 曇ったグラウンドの向こう。

 校舎の壁、風に揺れる雑草。


 そのすべてが、わたしに寄り添っているように思えた。


 まぶたの裏に、翠の光が差し込む。

 母の声が、遠い記憶のように、やさしく耳元を撫でた。


『あなたは……いつか、自分を取り戻す』


 ふるえる指先が、炎に包まれた。

 けれど、熱くはなかった。それは燃えるものではなく、“応える”ものだった。


 世界が、わたしの手を取った。

 そんな感覚だった。


「……フィリス」


 どこかで誰かが、そう呼んだ気がした。

 それは風の音だったのか、わたし自身の声だったのか。けれど、はっきりとわかっていた。


 その名前が、わたしの中に“あった”ことを。


 まるで音楽のように、記憶の断片が流れ始める。

 白い石の柱。

 炎の舞。

 緑の髪を揺らして笑う誰かの顔。

 泣きながらも笑っていた母の瞳。


 空間がわずかに揺らいだ。


 木々が、わたしに向かって軽く傾いたように見えた。

 地面が、ほんの少しだけ鼓動を打った。


 世界が応えている。

 それは確かに、“わたしのもの”だった。


 そして、目の前の空気が薄く裂けた。


 見えない糸が断ち切られるような、ぴん、とした感覚。

 そこに、“道”が開いた。


 まばたきをした次の瞬間、わたしはもう“行く”と決めていた。


「お母さん……」


 なにもかもが、まだぼんやりしている。

 白咲琴音としての家族も、学校も、友達も、置いていくにはあまりに近くて、あまりに大切だった。


 それでも、たったひとつだけ、目的を強く感じていた。


「いま、いくね……」


 身体がふわりと浮いた。

 浮いたのは足元ではない。魂だった。


 白咲琴音としての身体は、その場に崩れ落ちた。

 同時に、フィリスとしての魂は、空間の“向こう”へと歩き出していた。


 世界が見送る。

 音もなく、光もなく。

 ただ、その存在の重みに黙ってうなずくように。


       *


 風が止まっていた。

 音のない、深く沈んだ空気。


 足元に広がるのは、見覚えのある石畳だった。

 淡い緑の苔に縁どられた階段。崩れかけた外壁。白い壁には細かな亀裂が走り、かつて窓辺を飾っていた蔦は乾き、黒ずんでいた。


 そこは――かつての家だった。


 母と暮らしていた、魔法界の一角。

 幼い頃、何度も転んだ庭。ミヴァと魔法の練習をした裏の小さな広場。母がよく花を育てていた石鉢。


「……帰ってきた……」


 声が、喉の奥でふるえた。


 けれど、違う。

 何かが足りない。


 空気の温度。

 風の流れ。

 草の匂い。

 魔素が身体に触れる感触。


 すべてが、以前とは微かに違っていた。

 まるで世界全体が、長い病にかかっているようだった。


 わたしは扉を押し開けた。


 軋む音。

 舞い上がる埃。

 家具はほとんどそのままなのに、部屋に“人の気配”がなかった。


 母の魔力が染み込んでいたはずの部屋に、魔素の粒すら感じない。

 棚の上には、古いカップが二つ並んでいる。片方は母のもの。もう片方は、幼いわたしが使っていた小さなもの。


 それを見た瞬間、胸が潰れそうになった。


「……お母さん?」


 口に出してみる。

 けれど返ってくるのは、ただの沈黙だった。


 ベッドを見ても、書斎を見ても、台所を見ても、どこにも“そこにいたはずの人”の痕跡が見当たらない。

 残っているのは、生活の形だけ。

 中身を失った器のような家だった。


 ぽたり、と涙が頬を伝った。


 外に出る。

 眼下に広がる魔法界――その大地は、崩れかけていた。


 空は薄くひび割れ、空間の縁が軋む音がする。浮遊していた大地の一部はすでに重力を失い、ゆっくりと崩れ落ちている。

 かつては活気に満ちた魔法の都が、今は影のように静まり返っていた。


 市場の灯りは消え、飛行船の航路は途切れ、塔と塔を結んでいた光の橋は途中で折れている。

 人の声がしない。

 魔法界なのに、魔法の音がしない。


「……どうして、こんな……」


 わたしは手を前にかざし、指先で空間を撫でた。

 魔力を一点に集中し、呼び出す。


「映像記録端末、展開」


 光が広がり、宙に透明な板が浮かび上がる。

 記録装置は一度だけ不安定に揺れ、かすかなノイズを吐いた。それでも、わたしの魔力に反応して、ゆっくりと動き出す。


 パネルを操作し、連絡先を探す。

 知らない名前、忘れていた名前、胸が痛む名前が並ぶ。指が止まったのは、ひとつの名前だった。


『ライル・グレアノイド』


 かつて憲兵隊にいた頃、唯一心を許せた先輩。

 翠の髪を後ろに結び、いつも包み込むような声で話してくれた人。厳しい訓練のあと、泣きそうになっているわたしに、黙って水を差し出してくれた人。


「……ライル先輩……どうか……」


 わたしは、意を決して通話ボタンを押した。


 一秒。

 二秒。

 五秒。


 その沈黙は、やけに長く感じた。


 そして――画面の奥から、見覚えのある顔が浮かび上がる。


『……フィル……!?』


 驚きに目を見開いたその顔に、記憶がよみがえる。

 翠色の瞳。整った輪郭。髪を後ろでひとつに結んだ姿。あの頃と変わらない。けれど、どこか疲れていた。頬は少しこけ、目の下には薄い影がある。


『まさか……目が覚めたのか!?』


「はい……先輩、わたし……」


『よかった……ほんとうに……!』


 言葉にならない感情が、画面越しにぶつかってくる。

 わたしも何か言いたかった。けれど、喉が震えて声にならなかった。


 ライルは一度、深く息を吐いた。

 そして表情を引き締める。


『……すぐに、女王の間に来てくれ』


「女王の間……?」


『説明はそこで。フィル、君が来るのを……ずっと待ってたんだ』


 ライルの声が、わずかにかすれる。


『お前の母さんも……他の魔法使いたちも……“エルグレイス”に、連れていかれた』


 ぞくり、と背中が冷えた。


「……エルグレイス……?」


 その名を、深く知っていたわけではない。

 けれど魔法使いたちのあいだで、“神の秩序を守る者たち”として畏れられていた存在だった。


 人間界の神々ではない。

 もっと高位の、別世界の法の管理者。

 秩序を乱すものを見つけると、容赦なく“連行”する。その対象には、理由も、言い訳も通じない。


『急いでくれ。……フィル、もう時間がない』


 映像が切れる。


 わたしは唇をかんで、天を見上げた。


 母が、連れていかれた。

 この世界は、崩れかけている。


 立ち止まっている暇はない。


 風が、背を押す。

 わたしは空に跳ねた。

 大気が跳ね返り、足の下に魔法陣が浮かぶ。


「――飛翔」


 空を裂くように、わたしの身体が浮かび上がった。


       *


 高くそびえる白の塔。

 その頂へ続く螺旋階段を駆け上がるたびに、空気が緊張の膜を張るように重くなっていった。


 魔素の密度が高い。

 結界としてではなく、“存在”そのものが空間を支配しているような場所。

 ここは魔法界の中枢。女王が座す場所。幼い頃、一度だけ母に連れられて来たことがあった。


 あのときは、何もかもが大きく見えた。

 磨かれた床も、壁に描かれた古い紋章も、天井から吊るされた結晶灯も。

 今は、そのどれもが疲れ果てて見える。光は弱く、紋章の一部は剥がれ、結晶灯は半分ほどが消えていた。


 やがて、重厚な扉がゆっくりと開かれる。


 その広間は、まるで時間が止まったように静かだった。

 陽の光は差していないのに、空気はやわらかく淡く光っている。

 そしてその中心に――玉座に座るひとりの女性がいた。


 銀と群青を基調にした装束。

 背筋はまっすぐで、視線は静かにわたしを見据えている。

 その身にまとった威厳は、世界が崩れかけている今でさえ揺らいでいなかった。


 この世界を統べる者。

 魔法界の女王、その人であることに疑いはなかった。


 そして、その女王の傍らには、懐かしい姿があった。


「ライル……先輩」


 翠の髪を後ろで結い、以前と変わらぬ落ち着いた眼差し。

 少し痩せたようにも見えるが、その背筋は変わらずまっすぐだった。


「来てくれて、ありがとう、フィリス」


 ライルはそう言って、わたしに微笑みかけた。

 その声に、胸の奥が少しだけほぐれる。


 女王は玉座に座ったまま、やわらかく口を開いた。


「あなたの覚醒を、我々は静かに見守っておりました。そして今、そのときが満ちたことを――確信しています」


「……母は、本当にエルグレイスに?」


「ええ。あなたの母上を含む、多くの高位魔法使いが拘束されました。神の秩序を乱しかねない存在と、見なされたのでしょう」


 エルグレイス。

 ただの組織ではない。

 それは“神”たちの世界のなかに存在する、秩序の審判者。


 異分子を排除し、可能性を“修正”する者たち。


「……どうして、そんなことに……母は、ただ……」


「わたしたちにも、理由は明示されていません。それが彼らのやり方です」


 女王の声は静かだった。

 静かすぎるほどに。


「彼らは秩序を守ると語ります。しかし、その秩序が何を犠牲にして成立しているのかを、顧みることはありません。可能性が大きすぎる者、既存の法則を書き換え得る者、神の系譜に近い者――そうした存在は、時に世界そのものより危険視されます」


 わたしは言葉を失った。


 可能性が大きすぎる者。

 神の系譜に近い者。


 その言葉が、胸元のネックレスに重なる。

 母が外してはいけないと言った石。

 わたしの力を守るためのもの。


「ライル」


 女王が名を呼ぶと、ライルが一歩前へ出た。


「フィリス。君が目覚めることを、わたしたちは信じてた」


 彼の声は震えていなかった。

 けれど、その瞳の奥には、焦りと責任が宿っている。


「今、魔法界は限界を迎えつつある。崩壊の兆しは、あらゆる魔素の流れに現れている」


 ――知ってる。

 もう、見た。


 空はひび割れ、大地は欠け、息づいていた場所からは命が消えつつある。


「エルグレイスが高位魔法使いたちを連行したことで、世界を支えていた魔素の循環が止まりかけている。このままでは、魔法界は外側から崩れるんじゃない。内側から、自分自身を保てなくなる」


「……わたしに、何をしろって言うんですか」


 声が少し低くなった。

 責めているつもりはなかった。けれど、胸の中にある恐怖が、言葉の端を硬くした。


「あなたに命じるつもりはありません」


 再び女王が口を開いた。


「これは命令ではなく、“信託”です」


 言葉が、心の奥まで落ちてきた。


「あなたの力――いえ、“あなた自身”に、この魔法界の未来を託します」


 その瞬間、空気がふるえたように思えた。


 名を呼ばれても、苗字は口にされない。

 けれど、その沈黙こそが、“何か”を物語っていた。


 わたしが何者なのか。

 どこから来たのか。

 なぜ、魔力が他の誰よりも濃く、深く、そして重たいのか。


「……わたしで、いいんですか?」


「あなた以外に、この世界は応えていません」


 女王は静かに言う。


「先ほど、あなたが帰還した瞬間、崩壊しかけていた外縁部の魔素が一時的に安定しました。世界が、あなたを認識したのです」


「世界が……わたしを?」


「ええ。あなたならば、きっと……」


 ライルが言葉を飲み込む。

 それは、“負わせることへの痛み”を隠す仕草だった。


 わたしはしばらく黙っていた。

 怖くないと言えば嘘になる。

 白咲琴音として生きていた日々の中で、わたしはただの子どもだった。朝起きて、学校へ行き、友達と給食を食べて、家に帰る。それだけの毎日が、確かにあった。


 けれど同時に、フィリスとしての記憶もまた本物だった。

 母の声。

 ミヴァの笑顔。

 ライルの背中。

 この世界の空。


 どちらか一方だけを選ぶことは、きっとできない。


「……わかりました」


 わたしはゆっくりとうなずいた。


「絶対に、母を取り戻します。そして、この世界を……壊させません」


 女王は目を伏せ、やがて静かにうなずいた。


「どうか、忘れないでください。“力とは、孤独を選ばぬ勇気”であることを」


 その言葉は、魔法のように胸に染み込んでいった。


 振り返り、ライルと目を合わせる。

 そのまなざしは、“信じている”という色だけを乗せていた。


       *


 空を裂いて飛ぶ一筋の列。

 わたしの前には、懐かしい背中があった。


 ライル先輩。

 そして、憲兵隊の仲間たち。


 あの戦乱の中で、命を分け合ってきた者たち。

 火、水、風、時、光、闇、そして癒し。

 七つの属性を操る者たちが、いま再び一つに集まっていた。


 顔を覚えている者もいれば、記憶の輪郭だけが残っている者もいる。

 けれど、彼らと並んで飛ぶ感覚は、身体の奥に刻まれていた。

 わたしはかつて、この人たちと同じ空を飛んでいたのだ。


「行くぞ。フィリス、隣、任せた」


「はい」


 わたしは頷き、彼らと共に、空の裂け目へと飛び込んだ。


 その先にあるのは、エルグレイスの領地。

 神の秩序が支配する、白く、静かな空間。


 空は色を持たず、音も遠い。

 存在するものすべてが“裁くためにそこにある”ような、異質な世界だった。


 足を踏み入れた瞬間、肌が粟立つ。

 魔素が薄いのではない。むしろ濃すぎるほどだった。

 ただ、それは魔法界の魔素とは違っていた。流れず、揺れず、ただ定められた場所に固定されている。


 生きていない魔力。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。


 そして、その中心。


 半透明の膜に閉ざされた、七重の結界が見えた。

 その中に浮かんでいるのは、母。

 シーラ。


 目を閉じ、眠るように封じられている。

 髪は水の中に漂うように広がり、顔色は驚くほど白い。それでも、胸元にはかすかな光が残っていた。


「……お母さん」


 声が漏れた。


「属性結界か……」


 誰かがぽつりとつぶやく。

 視線の先には、七色に屈折する光の鎖が渦を巻いていた。


 火、水、風、癒し、光、闇、時。

 そのすべてが揃わなければ、開かない。


 でも、わたしたちには、それがある。


 ライル先輩が前に出る。


「全員、配置につけ」


 すぐさま仲間たちが散開し、結界を囲むように布陣をとる。

 誰も言葉を交わさない。

 でも、その静寂がむしろ信頼の証だった。


 わたしは結界の正面に立ち、母の顔を見つめる。

 目は閉じられ、深い眠りの中にいるようだった。


 けれど、その魔力は確かに感じられた。

 まだ、ここに“生きて”いる。


「同期開始――カウント、3」


 ライルの声が響く。


「2――」


 風が流れた。魔力が指先に集まる。


「1――」


 七つの魔力が、一点に集束する。


「閃光、展開!」


 七色の光が、同時に放たれた。


 それはまるで星を打ち抜くような鋭さと、祈りのような静けさをあわせ持った閃光だった。

 火が道を開き、水が歪みを整え、風が余剰を逃がす。光が構造を照らし、闇が不要な結び目を包み、時がずれを合わせ、癒しが裂け目を塞ぐ。


 結界が軋み、ひび割れ、音もなく崩れ落ちていく。


 光の中で、母の姿がゆっくりと、眠りから覚めるように浮かび上がっていった。


       *


 静けさが、ほんの一瞬だけ戻った。


 崩れかけていた結界は完全に消え、光の残滓がゆっくりと空間に溶けていく。その中心で、シーラの身体がわずかに揺れた。


「……お母さん」


 フィリスは一歩、踏み出す。


 その瞬間だった。


 ――空気が“凍った”。


 音が消えたわけではない。

 音そのものが、“許されなくなった”ような感覚だった。


 白い空間の奥。

 見えないはずの場所から、何かがこちらを認識した。


「……来るぞ」


 ライルの声が低く落ちる。


 次の瞬間、光が落ちた。


 それは雷でも、魔法でもない。

 “裁き”そのものだった。


 ひとり、またひとりと、憲兵隊の仲間たちが光に貫かれる。

 声を上げる暇すらない。

 存在ごと削り取られるように、その場から消えていく。


「――ッ、散開!」


 ライルが叫ぶ。

 だが遅い。


 火の魔法使いが消え、水が消え、風が断ち切られる。

 七つの属性は、まるで順番に“処理”されるように、静かに、確実に消されていった。


「なんで……!」


 フィリスは叫ぶ。

 魔力を展開する。

 だが、それすら“遅い”。


 見えない何かが、すでにこの場の法則を書き換えていた。


 ――ここでは、抵抗は成立しない。


 その理解が、絶望より先に胸を貫いた。


「フィル!」


 ライルが最後に叫んだ。


 その瞬間、彼の身体もまた、白い光に飲み込まれる。


 伸ばした手は、届かなかった。


「……やめて……」


 声は震えていた。

 だが、それすら届かない。


 空が軋む。


 いや、“空だったもの”が崩れている。


 魔法界そのものが、音もなく崩壊を始めていた。

 大地が裂け、空間が剥がれ、存在が粒子のようにほどけていく。


 消えた仲間たちの魔力の残響が、かすかに空間を漂っている。

 けれど、手を伸ばしても掴めない。名前を呼ぼうとしても、喉が動かない。


 何も守れなかった。

 帰ってきたのに。

 やっと思い出したのに。


「……フィル」


 その中で、ただひとつ。

 消えずに残っていた温もり。


 振り返ると、シーラが立っていた。

 ゆっくりと、目を開けていた。


「……お母さん……!」


 駆け寄る。

 触れたその手は、確かに温かかった。


 けれど、その奥にあるものは――“時間が残されていない”という確信だった。


「ごめんなさいね」


 シーラは微笑む。

 その笑みは、あの日と同じだった。

 優しくて、強くて、少しだけ寂しい。


「あなたに、すべてを話せなかった」


「……なにを……?」


 フィリスの胸がざわめく。

 何か、大きなことを言われようとしている。


「あなたの力は……ただの魔法ではない」


 その言葉は、世界の崩壊音よりも深く響いた。


「あなたは……シャーマノイドの血を継いでいるの」


 息が止まる。


 シャーマノイド。

 初代創造神。

 世界を“生み出した存在”。


 その系譜。


「孫……なのよ、あなたは」


 言葉にならない。

 ただ、胸の奥で何かが蠢いている。


「隠していて、ごめんなさい」


 シーラの手が、フィリスの頬に触れる。


「でも……それでも、あなたには普通に、生きてほしかった。神の血を理由に、誰かから役目を押しつけられるのではなく、ただ笑って、ただ好きなものを選んで、誰かに名前を呼ばれて生きてほしかった」


「お母さん……」


「あなたが人間界で“琴音”として生きていた時間も、嘘ではないわ。あれも、あなたの命です。フィリスであることも、琴音であることも、どちらもあなたなの」


 崩壊が、すぐそこまで迫っている。

 空間が裂け、白が侵食してくる。


「もう……時間がないわ」


 その言葉と同時に、シーラの手がネックレスに触れた。


「――これは、あなたを守るためのものだった」


 細い指が、鎖を掴む。


「でも、今は――あなたを閉じ込めるものになってしまう」


「……まって、お母さん、それは――」


 止める間もなく。


 ――ぶちり、と。


 銀の鎖が、引きちぎられた。


 世界が止まった。


 心臓の音が消えた。

 呼吸の感覚もなくなった。

 ただ、“何か”が解放される音だけが、内側から響いていた。


 視界が、翠に染まる。


 魔力ではない。

 それは、“世界そのもの”だった。


 抑え込まれていたものが溢れる。

 世界の枠が壊れる。


「――――――」


 声にならない咆哮が、空間を震わせた。


 フィリスの身体が、光に包まれる。

 輪郭が崩れ、形が変わる。

 骨も、肉も、魔力すらも意味を失う。


 そこに現れたのは――神竜。


 翠の光を纏い、世界の中心に立つ存在。

 その眼が開いた瞬間、崩壊していた魔法界が“一瞬だけ止まった”。


「……フィリス」


 シーラの声が届く。

 もう、身体は半分以上、白に侵食されていた。


「……あとは、任せましたよ」


 優しい声。

 その声は最後まで、母だった。


 そのまま、シーラの姿は、光に溶けるように消えた。


 静寂のなか、神竜の眼が世界を見る。


 崩れた大地。

 裂けた空。

 消えていった命。


 それでも――まだ、存在している可能性。


 ゆっくりと、翼が広がる。


 その一振りで、空間が再び“形”を取り戻し始める。

 世界を、書き換える。


 それは魔法ではない。


 創造。


 それがどんな意味を持つのか、フィリスにはまだわかっていなかった。

 けれど、身体ではなく、魂が知っていた。


 “新しく、在るべき形にする”。


 翠の光が、広がる。

 ひび割れた空を縫い、大地を繋ぎ、失われた魔素を再び流し込む。


 音が戻る。

 風が戻る。

 重力が戻る。


 そして、消えたはずの命の残響が、世界のどこかで微かに揺れた。


 完全に戻すことはできない。

 失われたものは、失われたものとして残る。

 母の声も、ライルの叫びも、仲間たちの魔力も、なかったことにはできない。


 けれど、それでも。

 終わりしかなかった世界に、もう一度だけ、息をさせることはできる。


 神竜は、静かに目を閉じた。

 その姿は、やがて光へとほどけ、ひとりの少女へと戻っていく。


 地面に、くたりと倒れ込む。


 頬に触れる石畳は冷たかった。

 空はまだ傷だらけで、世界はまだ不安定だった。

 それでも、遠くで風が鳴っている。


 フィリスはゆっくりとまぶたを開けた。

 涙がこぼれた。

 誰のための涙なのか、自分でもわからなかった。


「……ただいま」


 誰もいない空に向かって、フィリスは静かにそう呟いた。


 その声に応えるように、翠の光が、ほんのわずかに瞬いた。

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