Episode 0
細い指が、わたしの首にかかった銀のネックレスに、そっと触れた。
鎖は冷たいはずなのに、その指先が触れた瞬間だけ、淡いぬくもりを宿したように感じた。胸元で揺れる翠色の石が、まるで小さな心臓のように瞬いている。
その光を見ていると、なぜか泣きそうになった。
「このネックレスは……絶対に外してはなりませんよ」
優しい声だった。
けれど、その声音に宿るのは、ただの優しさではなかった。何かを守り抜くと決めた人だけが持つ、静かで、折れない強さ。
わたしはその人を見上げていた。
長い髪。翠色の瞳。白い手。わたしを見つめる眼差しは、どこまでも穏やかなのに、奥の方に深い悲しみを隠している。
あれは――お母さん?
そう思った瞬間、視界の端がぼんやりと滲んだ。
名前が出てこない。声も、匂いも、確かに懐かしいのに、その人を何と呼んでいたのかがわからない。
それでも、翠の瞳がやわらかく笑ったとき、わたしも自然と笑っていた。
小さな手でネックレスを握りしめる。石の表面は、氷のように滑らかで、けれど奥に火を抱いているように温かかった。
「いいですか。これは、あなたを縛るためのものではありません」
お母さんは膝を折り、わたしと目線を合わせた。
「あなたを、守るためのものです」
「まもる……?」
「ええ。あなたの力は、とても大きい。まだ、あなた自身も知らないくらいに」
その言葉の意味は、幼いわたしにはよくわからなかった。
ただ、お母さんの声が少し震えていることだけはわかった。だから、わたしはネックレスを握ったまま、精一杯うなずいた。
「うん。はずさない」
お母さんはほっとしたように笑い、わたしの額にそっと唇を寄せた。
その瞬間、胸の奥に何かが刻まれた気がした。
約束。
あるいは、呪いにも似た、やさしい祈り。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
*
「待ってください! この子を……!」
母の叫びが聞こえる。
さっきまでの静かな部屋ではない。空気が焼けるように熱く、どこか遠くで鐘のような警報音が鳴っていた。
制服のような、軍服のような服を着た人たちがわたしを囲んでいる。
肩には銀色の徽章。腰には細長い杖のようなもの。誰もが厳しい顔をしていた。わたしの方を見ているのに、わたし自身ではなく、わたしの中にある“何か”を見ているような目だった。
「この子はまだ幼いのです! 戦場に出せるような年では――」
「シーラ様。お気持ちはわかります。ですが、魔法界の防衛線はすでに崩れかけています」
低い声がそう告げる。
シーラ。
その名前が、胸の奥で鈴のように鳴った。
お母さんの名前。
そうだ。お母さんは、シーラ。
「フィリスは適性を示しています。炎も、風も、癒しも、どの属性にも反応した。これ以上、候補を眠らせておく余裕はありません」
「この子は“候補”ではありません。わたしの娘です」
母の声が鋭くなる。
けれど、わたしはその声に背を向けていた。
怖くなかったわけではない。
ほんとうは怖かった。胸の奥が冷えて、足先が少し震えていた。
でも、みんなが困っているのなら、わたしにできることがあるのなら、行かなければいけない気がした。
わたしは振り返り、母に向かって笑った。
「大丈夫だよ、お母さん」
その言葉は、本当にわたしのものだったのだろうか。
幼い声なのに、どこか大人びていた。まるで、ずっと昔から自分の役目を知っていたみたいに。
お母さんの顔が歪む。
泣きそうな顔だった。
けれど、その顔が遠ざかる。
わたしは制服の人たちに囲まれながら、白い廊下を歩いていく。
ネックレスの翠色の石が、胸元で小さく揺れた。
視界にノイズが走る。
*
今度は、広く澄んだ空の下だった。
白い石の柱が立ち並ぶ、神殿のような訓練場。
床には幾何学模様の魔法陣が刻まれ、空気には雨上がりのような清らかな匂いが満ちている。遠くには、浮遊する島々と、光をまとった塔が見えた。
「そこじゃない、フィル!」
オレンジ色の髪を持つ少女が、少し怒ったように声を上げる。
髪は陽の光を受けて、火の粉のようにきらめいていた。丸い瞳は明るく、表情はころころとよく変わる。
「火は“押し出す”んじゃなくて、“撫でる”みたいにね! 強くぶつけたら、火の方もびっくりしちゃうんだから」
「火が、びっくりするの?」
「するよ。魔法は命みたいなものなんだから」
少女は胸を張って言った。
その仕草があまりに得意げで、わたしは思わず笑ってしまう。
「ミヴァは、火の気持ちがわかるんだね」
「もちろん。私は火と仲良しだから」
ミヴァ。
その名前も、自然に思い出せた。
彼女はわたしの友達で、先生で、時々姉のようでもあった。わたしがうまく魔力を扱えずに落ち込むと、いつも隣に座って、同じ目線で話してくれた。
わたしは両手を前に出す。
深く息を吸う。けれど、肺に入ってくるのは空気だけではなかった。地面から、空から、周囲の柱から、淡い魔素が流れ込んでくる。
押し出すのではなく、撫でるように。
命に触れるように。
壊さないように、驚かせないように。
手のひらの上に、小さな炎の粒が現れた。
はじめは灯火のように頼りなく揺れていたそれが、わたしの指の動きに合わせて、ふわりと浮かぶ。
ミヴァが目を輝かせた。
「そう、それ! そのまま!」
わたしは炎をそっと撫でる。
すると、火はぱっと花びらのように広がった。赤、橙、金。小さな花がいくつも空中に咲き、光の粒を散らす。
「すごい、綺麗……」
自分の魔法なのに、思わず声が漏れた。
「ふふん、フィルもだんだん上達してきたじゃん!」
ミヴァが笑う。
わたしも笑った。訓練場に、二人の笑い声が響いた。
けれど、その空気の中に、わたしの胸はなぜか少しだけ切なさを感じていた。
こんなに明るい空の下で、こんなに綺麗な魔法を見ているのに、心の奥がきゅっと痛む。
この時間は、長く続かない。
そんな予感だけが、なぜか確かにあった。
そして――その小さな炎が、瞬く間に視界を覆っていく。
*
「戦争が始まります。もう時間がないの」
お母さんの手が、わたしの肩を握る。
その手は少し震えていた。
部屋の外では、誰かが走る音がしている。遠くで爆ぜるような音も聞こえた。窓の外の空は赤く染まり、見慣れた塔のいくつかが煙を上げている。
「あなたを……人間界に送ります」
お母さんは、言葉を選ぶようにゆっくりと告げた。
「記憶は、きっと失われてしまう。でも、あなたは帰ってくる。必ず、自分を取り戻す日が来るわ」
「……うん」
わたしはそう言って、また微笑んでいた。
でも、本当は泣きたかった。行きたくなかった。お母さんの傍にいたかった。
「お母さんは?」
ようやく出てきた声は、小さくかすれていた。
「わたしは、ここに残ります。この世界を、守らなければならないから」
「一緒に行けないの?」
お母さんは答えなかった。
答えないまま、わたしを強く抱きしめた。あたたかい腕。髪に触れる指。耳元で震える呼吸。
「フィリス」
「……なに?」
「あなたは、あなたのままでいて。誰かのために力を使うことは尊いことです。でも、あなた自身を失ってはいけません」
その言葉の意味を、わたしはまた理解できなかった。
けれど、忘れてはいけない言葉だと思った。
足元に転移魔法陣が広がる。
光がわたしを包み込む。お母さんの姿が、どんどん遠くなる。
「お母さん!」
最後の瞬間、叫んだ。
胸がきゅっと締め付けられるように痛かった。
お母さんは泣いていた。
それでも、最後まで笑っていた。
「いってらっしゃい、フィリス」
光がすべてを飲み込んだ。
*
――ぱちり。
目が覚めた。
天井の木目が、ぼんやりと目に入る。
まどろみの余韻が、まだ身体に絡みついていた。布団の重さ。枕の匂い。窓の隙間から差し込む朝の光。
ここは、わたしの部屋だ。
白咲琴音としての、いつもの部屋。
けれど、胸の奥だけが、まるで別の世界に置き去りにされたみたいにざわついていた。
「……夢、じゃない」
わたしはそう、はっきり思った。
あれは夢じゃない。記憶だった。
自分が誰だったのか――その一片が、今、確かに胸に残っている。フィルと呼ばれたその人の記憶が、自分の記憶に混同して、目が回りそうになる。
白咲琴音。
小学校に通う、どこにでもいる女の子。
フィリス。
魔法界で生まれ、戦争の中で人間界へ送られた少女。
どちらが本当のわたしなのか。
そう考えた瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。
ふと、手を見つめる。
夢の中でしたように、そっと指を広げる。
火は押し出すんじゃなくて、撫でるみたいに。
ミヴァの声が、耳の奥で蘇る。
わたしは息を止め、手のひらの上に意識を集めた。何かが、ほんの少しだけ震えた気がした。
……そのとき。
「ことちゃーん、起きてるの? ごはんできてるわよー!」
階下から母の声が聞こえてきた。
今の母。
この世界で、わたしを育ててくれた人。
胸が痛む。
夢の中のお母さんと、階下の母。その二人の声が重なって、心の中がぐちゃぐちゃになる。
記憶を試す時間はない。
時計はすでに七時三十分を指していた。昨日用意したはずのランドセルは、なぜか遠い昔のもののように見えた。
「……はーい」
返事をして、素早く制服に着替える。
鏡の前で髪を整えながら、自分の顔を見た。
黒い髪。まだ幼さの残る頬。眠そうな目。
いつもの白咲琴音。
でも、鏡の奥のわたしが、一瞬だけ翠の光を宿したように見えた。
「……気のせい」
そう呟いて、わたしは部屋を出た。
けれど胸の中の違和感は、ずっと消えてはいなかった。
*
「白咲琴音さん」
担任の落ち着いた声が、教室に響いた。
「……はい」
わたしは少し遅れて返事をする。
窓際の席。朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込む中、まだぼんやりした意識のまま、出席簿にチェックされるのを感じていた。
教室の空気は変わらない。
黒板、机、朝のざわめき。
みんなが交わす挨拶やあくび、話し声。全部が、いつもの“世界”のはずだった。
けれど、なにもかもがどこか薄く感じる。
見えているのに、触れられないみたいだった。
夢のことが、まだ頭から離れない。
炎。
オレンジの髪の少女。
白い石の柱。
お母さん。
ネックレス。
それはただの夢ではなかった。
あれは記憶だったと、わたしの中の何かが確信している。
「ことちゃん、今日の給食、隣で食べていい?」
友人が、小声で聞いてくる。
わたしはいつも通りに「いいよ」と答えた。
彼女はにこにこと笑って、もとの席へ戻っていく。
――ことちゃん。
その響きも、日常も、すべてがうわべのように感じてしまう。
呼ばれ慣れた名前なのに、どこか遠い。わたしの中で、別の名前が静かに目を覚まそうとしている。
授業が始まっても、頭は回らなかった。
黒板に書かれるひらがなやカタカナが並んでいく。けれど、その形はどこか曖昧で、ノートには蚯蚓のような線が連なっていった。
先生の声が遠い。
教室のざわめきも遠い。
代わりに、胸の奥で魔素の流れのようなものがかすかに脈打っている。
昼休みになっても、心は落ち着かなかった。
みんなが楽しそうに給食を食べている中、わたしの耳に入ってくるのは、別の話題だった。
「ねえ、“まじかるぷりずむすたー”観た? 昨日!」
「観た観た! 変身のとこ、すごかったよね!」
「空飛んでるとことか、ほんとにかっこいい!」
クラスの子たちが盛り上がっていた。
いま、女子たちの間で大人気の魔法少女アニメ。カラフルな衣装に変身して、魔法で悪者を倒す。わたしも昨日までは、なんとなく観ていたはずだった。
けれど今は、その会話が不思議なほど遠かった。
魔法なんて、わたしにとっては“憧れ”ではなかった。
あれは――。
胸の奥が熱を持つ。
手のひらが、かすかに疼いた。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
わたしは笑って席を立ち、教室を出た。
行き先は、トイレではない。
校舎の裏庭。
ほとんど誰も来ない、校舎の陰になった場所だった。
風の音だけが聞こえる。
そこに立って、わたしはそっと手を上げた。夢の中と同じように、両手を前に出す。
押し出すのではなく、撫でるように。
「……出て」
小さく呟いた。
手のひらの上に、炎の粒が現れた。
小さく、淡く、けれど確かにそこにある“ひかり”。
息を呑む。
熱くない。怖くもない。ただ、懐かしい。
それは、わたしの命に応えるように揺れていた。
風は吹いていなかった。
なのに、周囲の音がすうっと遠ざかっていく。空気が止まったような、世界そのものが息を潜めたような感覚。
重力の感覚が曖昧になる。
地面に立っているはずの足が、どこか遠くに感じた。ふいに、空気の密度が変わる。
見慣れた裏庭の空。
曇ったグラウンドの向こう。
校舎の壁、風に揺れる雑草。
そのすべてが、わたしに寄り添っているように思えた。
まぶたの裏に、翠の光が差し込む。
母の声が、遠い記憶のように、やさしく耳元を撫でた。
『あなたは……いつか、自分を取り戻す』
ふるえる指先が、炎に包まれた。
けれど、熱くはなかった。それは燃えるものではなく、“応える”ものだった。
世界が、わたしの手を取った。
そんな感覚だった。
「……フィリス」
どこかで誰かが、そう呼んだ気がした。
それは風の音だったのか、わたし自身の声だったのか。けれど、はっきりとわかっていた。
その名前が、わたしの中に“あった”ことを。
まるで音楽のように、記憶の断片が流れ始める。
白い石の柱。
炎の舞。
緑の髪を揺らして笑う誰かの顔。
泣きながらも笑っていた母の瞳。
空間がわずかに揺らいだ。
木々が、わたしに向かって軽く傾いたように見えた。
地面が、ほんの少しだけ鼓動を打った。
世界が応えている。
それは確かに、“わたしのもの”だった。
そして、目の前の空気が薄く裂けた。
見えない糸が断ち切られるような、ぴん、とした感覚。
そこに、“道”が開いた。
まばたきをした次の瞬間、わたしはもう“行く”と決めていた。
「お母さん……」
なにもかもが、まだぼんやりしている。
白咲琴音としての家族も、学校も、友達も、置いていくにはあまりに近くて、あまりに大切だった。
それでも、たったひとつだけ、目的を強く感じていた。
「いま、いくね……」
身体がふわりと浮いた。
浮いたのは足元ではない。魂だった。
白咲琴音としての身体は、その場に崩れ落ちた。
同時に、フィリスとしての魂は、空間の“向こう”へと歩き出していた。
世界が見送る。
音もなく、光もなく。
ただ、その存在の重みに黙ってうなずくように。
*
風が止まっていた。
音のない、深く沈んだ空気。
足元に広がるのは、見覚えのある石畳だった。
淡い緑の苔に縁どられた階段。崩れかけた外壁。白い壁には細かな亀裂が走り、かつて窓辺を飾っていた蔦は乾き、黒ずんでいた。
そこは――かつての家だった。
母と暮らしていた、魔法界の一角。
幼い頃、何度も転んだ庭。ミヴァと魔法の練習をした裏の小さな広場。母がよく花を育てていた石鉢。
「……帰ってきた……」
声が、喉の奥でふるえた。
けれど、違う。
何かが足りない。
空気の温度。
風の流れ。
草の匂い。
魔素が身体に触れる感触。
すべてが、以前とは微かに違っていた。
まるで世界全体が、長い病にかかっているようだった。
わたしは扉を押し開けた。
軋む音。
舞い上がる埃。
家具はほとんどそのままなのに、部屋に“人の気配”がなかった。
母の魔力が染み込んでいたはずの部屋に、魔素の粒すら感じない。
棚の上には、古いカップが二つ並んでいる。片方は母のもの。もう片方は、幼いわたしが使っていた小さなもの。
それを見た瞬間、胸が潰れそうになった。
「……お母さん?」
口に出してみる。
けれど返ってくるのは、ただの沈黙だった。
ベッドを見ても、書斎を見ても、台所を見ても、どこにも“そこにいたはずの人”の痕跡が見当たらない。
残っているのは、生活の形だけ。
中身を失った器のような家だった。
ぽたり、と涙が頬を伝った。
外に出る。
眼下に広がる魔法界――その大地は、崩れかけていた。
空は薄くひび割れ、空間の縁が軋む音がする。浮遊していた大地の一部はすでに重力を失い、ゆっくりと崩れ落ちている。
かつては活気に満ちた魔法の都が、今は影のように静まり返っていた。
市場の灯りは消え、飛行船の航路は途切れ、塔と塔を結んでいた光の橋は途中で折れている。
人の声がしない。
魔法界なのに、魔法の音がしない。
「……どうして、こんな……」
わたしは手を前にかざし、指先で空間を撫でた。
魔力を一点に集中し、呼び出す。
「映像記録端末、展開」
光が広がり、宙に透明な板が浮かび上がる。
記録装置は一度だけ不安定に揺れ、かすかなノイズを吐いた。それでも、わたしの魔力に反応して、ゆっくりと動き出す。
パネルを操作し、連絡先を探す。
知らない名前、忘れていた名前、胸が痛む名前が並ぶ。指が止まったのは、ひとつの名前だった。
『ライル・グレアノイド』
かつて憲兵隊にいた頃、唯一心を許せた先輩。
翠の髪を後ろに結び、いつも包み込むような声で話してくれた人。厳しい訓練のあと、泣きそうになっているわたしに、黙って水を差し出してくれた人。
「……ライル先輩……どうか……」
わたしは、意を決して通話ボタンを押した。
一秒。
二秒。
五秒。
その沈黙は、やけに長く感じた。
そして――画面の奥から、見覚えのある顔が浮かび上がる。
『……フィル……!?』
驚きに目を見開いたその顔に、記憶がよみがえる。
翠色の瞳。整った輪郭。髪を後ろでひとつに結んだ姿。あの頃と変わらない。けれど、どこか疲れていた。頬は少しこけ、目の下には薄い影がある。
『まさか……目が覚めたのか!?』
「はい……先輩、わたし……」
『よかった……ほんとうに……!』
言葉にならない感情が、画面越しにぶつかってくる。
わたしも何か言いたかった。けれど、喉が震えて声にならなかった。
ライルは一度、深く息を吐いた。
そして表情を引き締める。
『……すぐに、女王の間に来てくれ』
「女王の間……?」
『説明はそこで。フィル、君が来るのを……ずっと待ってたんだ』
ライルの声が、わずかにかすれる。
『お前の母さんも……他の魔法使いたちも……“エルグレイス”に、連れていかれた』
ぞくり、と背中が冷えた。
「……エルグレイス……?」
その名を、深く知っていたわけではない。
けれど魔法使いたちのあいだで、“神の秩序を守る者たち”として畏れられていた存在だった。
人間界の神々ではない。
もっと高位の、別世界の法の管理者。
秩序を乱すものを見つけると、容赦なく“連行”する。その対象には、理由も、言い訳も通じない。
『急いでくれ。……フィル、もう時間がない』
映像が切れる。
わたしは唇をかんで、天を見上げた。
母が、連れていかれた。
この世界は、崩れかけている。
立ち止まっている暇はない。
風が、背を押す。
わたしは空に跳ねた。
大気が跳ね返り、足の下に魔法陣が浮かぶ。
「――飛翔」
空を裂くように、わたしの身体が浮かび上がった。
*
高くそびえる白の塔。
その頂へ続く螺旋階段を駆け上がるたびに、空気が緊張の膜を張るように重くなっていった。
魔素の密度が高い。
結界としてではなく、“存在”そのものが空間を支配しているような場所。
ここは魔法界の中枢。女王が座す場所。幼い頃、一度だけ母に連れられて来たことがあった。
あのときは、何もかもが大きく見えた。
磨かれた床も、壁に描かれた古い紋章も、天井から吊るされた結晶灯も。
今は、そのどれもが疲れ果てて見える。光は弱く、紋章の一部は剥がれ、結晶灯は半分ほどが消えていた。
やがて、重厚な扉がゆっくりと開かれる。
その広間は、まるで時間が止まったように静かだった。
陽の光は差していないのに、空気はやわらかく淡く光っている。
そしてその中心に――玉座に座るひとりの女性がいた。
銀と群青を基調にした装束。
背筋はまっすぐで、視線は静かにわたしを見据えている。
その身にまとった威厳は、世界が崩れかけている今でさえ揺らいでいなかった。
この世界を統べる者。
魔法界の女王、その人であることに疑いはなかった。
そして、その女王の傍らには、懐かしい姿があった。
「ライル……先輩」
翠の髪を後ろで結い、以前と変わらぬ落ち着いた眼差し。
少し痩せたようにも見えるが、その背筋は変わらずまっすぐだった。
「来てくれて、ありがとう、フィリス」
ライルはそう言って、わたしに微笑みかけた。
その声に、胸の奥が少しだけほぐれる。
女王は玉座に座ったまま、やわらかく口を開いた。
「あなたの覚醒を、我々は静かに見守っておりました。そして今、そのときが満ちたことを――確信しています」
「……母は、本当にエルグレイスに?」
「ええ。あなたの母上を含む、多くの高位魔法使いが拘束されました。神の秩序を乱しかねない存在と、見なされたのでしょう」
エルグレイス。
ただの組織ではない。
それは“神”たちの世界のなかに存在する、秩序の審判者。
異分子を排除し、可能性を“修正”する者たち。
「……どうして、そんなことに……母は、ただ……」
「わたしたちにも、理由は明示されていません。それが彼らのやり方です」
女王の声は静かだった。
静かすぎるほどに。
「彼らは秩序を守ると語ります。しかし、その秩序が何を犠牲にして成立しているのかを、顧みることはありません。可能性が大きすぎる者、既存の法則を書き換え得る者、神の系譜に近い者――そうした存在は、時に世界そのものより危険視されます」
わたしは言葉を失った。
可能性が大きすぎる者。
神の系譜に近い者。
その言葉が、胸元のネックレスに重なる。
母が外してはいけないと言った石。
わたしの力を守るためのもの。
「ライル」
女王が名を呼ぶと、ライルが一歩前へ出た。
「フィリス。君が目覚めることを、わたしたちは信じてた」
彼の声は震えていなかった。
けれど、その瞳の奥には、焦りと責任が宿っている。
「今、魔法界は限界を迎えつつある。崩壊の兆しは、あらゆる魔素の流れに現れている」
――知ってる。
もう、見た。
空はひび割れ、大地は欠け、息づいていた場所からは命が消えつつある。
「エルグレイスが高位魔法使いたちを連行したことで、世界を支えていた魔素の循環が止まりかけている。このままでは、魔法界は外側から崩れるんじゃない。内側から、自分自身を保てなくなる」
「……わたしに、何をしろって言うんですか」
声が少し低くなった。
責めているつもりはなかった。けれど、胸の中にある恐怖が、言葉の端を硬くした。
「あなたに命じるつもりはありません」
再び女王が口を開いた。
「これは命令ではなく、“信託”です」
言葉が、心の奥まで落ちてきた。
「あなたの力――いえ、“あなた自身”に、この魔法界の未来を託します」
その瞬間、空気がふるえたように思えた。
名を呼ばれても、苗字は口にされない。
けれど、その沈黙こそが、“何か”を物語っていた。
わたしが何者なのか。
どこから来たのか。
なぜ、魔力が他の誰よりも濃く、深く、そして重たいのか。
「……わたしで、いいんですか?」
「あなた以外に、この世界は応えていません」
女王は静かに言う。
「先ほど、あなたが帰還した瞬間、崩壊しかけていた外縁部の魔素が一時的に安定しました。世界が、あなたを認識したのです」
「世界が……わたしを?」
「ええ。あなたならば、きっと……」
ライルが言葉を飲み込む。
それは、“負わせることへの痛み”を隠す仕草だった。
わたしはしばらく黙っていた。
怖くないと言えば嘘になる。
白咲琴音として生きていた日々の中で、わたしはただの子どもだった。朝起きて、学校へ行き、友達と給食を食べて、家に帰る。それだけの毎日が、確かにあった。
けれど同時に、フィリスとしての記憶もまた本物だった。
母の声。
ミヴァの笑顔。
ライルの背中。
この世界の空。
どちらか一方だけを選ぶことは、きっとできない。
「……わかりました」
わたしはゆっくりとうなずいた。
「絶対に、母を取り戻します。そして、この世界を……壊させません」
女王は目を伏せ、やがて静かにうなずいた。
「どうか、忘れないでください。“力とは、孤独を選ばぬ勇気”であることを」
その言葉は、魔法のように胸に染み込んでいった。
振り返り、ライルと目を合わせる。
そのまなざしは、“信じている”という色だけを乗せていた。
*
空を裂いて飛ぶ一筋の列。
わたしの前には、懐かしい背中があった。
ライル先輩。
そして、憲兵隊の仲間たち。
あの戦乱の中で、命を分け合ってきた者たち。
火、水、風、時、光、闇、そして癒し。
七つの属性を操る者たちが、いま再び一つに集まっていた。
顔を覚えている者もいれば、記憶の輪郭だけが残っている者もいる。
けれど、彼らと並んで飛ぶ感覚は、身体の奥に刻まれていた。
わたしはかつて、この人たちと同じ空を飛んでいたのだ。
「行くぞ。フィリス、隣、任せた」
「はい」
わたしは頷き、彼らと共に、空の裂け目へと飛び込んだ。
その先にあるのは、エルグレイスの領地。
神の秩序が支配する、白く、静かな空間。
空は色を持たず、音も遠い。
存在するものすべてが“裁くためにそこにある”ような、異質な世界だった。
足を踏み入れた瞬間、肌が粟立つ。
魔素が薄いのではない。むしろ濃すぎるほどだった。
ただ、それは魔法界の魔素とは違っていた。流れず、揺れず、ただ定められた場所に固定されている。
生きていない魔力。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
そして、その中心。
半透明の膜に閉ざされた、七重の結界が見えた。
その中に浮かんでいるのは、母。
シーラ。
目を閉じ、眠るように封じられている。
髪は水の中に漂うように広がり、顔色は驚くほど白い。それでも、胸元にはかすかな光が残っていた。
「……お母さん」
声が漏れた。
「属性結界か……」
誰かがぽつりとつぶやく。
視線の先には、七色に屈折する光の鎖が渦を巻いていた。
火、水、風、癒し、光、闇、時。
そのすべてが揃わなければ、開かない。
でも、わたしたちには、それがある。
ライル先輩が前に出る。
「全員、配置につけ」
すぐさま仲間たちが散開し、結界を囲むように布陣をとる。
誰も言葉を交わさない。
でも、その静寂がむしろ信頼の証だった。
わたしは結界の正面に立ち、母の顔を見つめる。
目は閉じられ、深い眠りの中にいるようだった。
けれど、その魔力は確かに感じられた。
まだ、ここに“生きて”いる。
「同期開始――カウント、3」
ライルの声が響く。
「2――」
風が流れた。魔力が指先に集まる。
「1――」
七つの魔力が、一点に集束する。
「閃光、展開!」
七色の光が、同時に放たれた。
それはまるで星を打ち抜くような鋭さと、祈りのような静けさをあわせ持った閃光だった。
火が道を開き、水が歪みを整え、風が余剰を逃がす。光が構造を照らし、闇が不要な結び目を包み、時がずれを合わせ、癒しが裂け目を塞ぐ。
結界が軋み、ひび割れ、音もなく崩れ落ちていく。
光の中で、母の姿がゆっくりと、眠りから覚めるように浮かび上がっていった。
*
静けさが、ほんの一瞬だけ戻った。
崩れかけていた結界は完全に消え、光の残滓がゆっくりと空間に溶けていく。その中心で、シーラの身体がわずかに揺れた。
「……お母さん」
フィリスは一歩、踏み出す。
その瞬間だった。
――空気が“凍った”。
音が消えたわけではない。
音そのものが、“許されなくなった”ような感覚だった。
白い空間の奥。
見えないはずの場所から、何かがこちらを認識した。
「……来るぞ」
ライルの声が低く落ちる。
次の瞬間、光が落ちた。
それは雷でも、魔法でもない。
“裁き”そのものだった。
ひとり、またひとりと、憲兵隊の仲間たちが光に貫かれる。
声を上げる暇すらない。
存在ごと削り取られるように、その場から消えていく。
「――ッ、散開!」
ライルが叫ぶ。
だが遅い。
火の魔法使いが消え、水が消え、風が断ち切られる。
七つの属性は、まるで順番に“処理”されるように、静かに、確実に消されていった。
「なんで……!」
フィリスは叫ぶ。
魔力を展開する。
だが、それすら“遅い”。
見えない何かが、すでにこの場の法則を書き換えていた。
――ここでは、抵抗は成立しない。
その理解が、絶望より先に胸を貫いた。
「フィル!」
ライルが最後に叫んだ。
その瞬間、彼の身体もまた、白い光に飲み込まれる。
伸ばした手は、届かなかった。
「……やめて……」
声は震えていた。
だが、それすら届かない。
空が軋む。
いや、“空だったもの”が崩れている。
魔法界そのものが、音もなく崩壊を始めていた。
大地が裂け、空間が剥がれ、存在が粒子のようにほどけていく。
消えた仲間たちの魔力の残響が、かすかに空間を漂っている。
けれど、手を伸ばしても掴めない。名前を呼ぼうとしても、喉が動かない。
何も守れなかった。
帰ってきたのに。
やっと思い出したのに。
「……フィル」
その中で、ただひとつ。
消えずに残っていた温もり。
振り返ると、シーラが立っていた。
ゆっくりと、目を開けていた。
「……お母さん……!」
駆け寄る。
触れたその手は、確かに温かかった。
けれど、その奥にあるものは――“時間が残されていない”という確信だった。
「ごめんなさいね」
シーラは微笑む。
その笑みは、あの日と同じだった。
優しくて、強くて、少しだけ寂しい。
「あなたに、すべてを話せなかった」
「……なにを……?」
フィリスの胸がざわめく。
何か、大きなことを言われようとしている。
「あなたの力は……ただの魔法ではない」
その言葉は、世界の崩壊音よりも深く響いた。
「あなたは……シャーマノイドの血を継いでいるの」
息が止まる。
シャーマノイド。
初代創造神。
世界を“生み出した存在”。
その系譜。
「孫……なのよ、あなたは」
言葉にならない。
ただ、胸の奥で何かが蠢いている。
「隠していて、ごめんなさい」
シーラの手が、フィリスの頬に触れる。
「でも……それでも、あなたには普通に、生きてほしかった。神の血を理由に、誰かから役目を押しつけられるのではなく、ただ笑って、ただ好きなものを選んで、誰かに名前を呼ばれて生きてほしかった」
「お母さん……」
「あなたが人間界で“琴音”として生きていた時間も、嘘ではないわ。あれも、あなたの命です。フィリスであることも、琴音であることも、どちらもあなたなの」
崩壊が、すぐそこまで迫っている。
空間が裂け、白が侵食してくる。
「もう……時間がないわ」
その言葉と同時に、シーラの手がネックレスに触れた。
「――これは、あなたを守るためのものだった」
細い指が、鎖を掴む。
「でも、今は――あなたを閉じ込めるものになってしまう」
「……まって、お母さん、それは――」
止める間もなく。
――ぶちり、と。
銀の鎖が、引きちぎられた。
世界が止まった。
心臓の音が消えた。
呼吸の感覚もなくなった。
ただ、“何か”が解放される音だけが、内側から響いていた。
視界が、翠に染まる。
魔力ではない。
それは、“世界そのもの”だった。
抑え込まれていたものが溢れる。
世界の枠が壊れる。
「――――――」
声にならない咆哮が、空間を震わせた。
フィリスの身体が、光に包まれる。
輪郭が崩れ、形が変わる。
骨も、肉も、魔力すらも意味を失う。
そこに現れたのは――神竜。
翠の光を纏い、世界の中心に立つ存在。
その眼が開いた瞬間、崩壊していた魔法界が“一瞬だけ止まった”。
「……フィリス」
シーラの声が届く。
もう、身体は半分以上、白に侵食されていた。
「……あとは、任せましたよ」
優しい声。
その声は最後まで、母だった。
そのまま、シーラの姿は、光に溶けるように消えた。
静寂のなか、神竜の眼が世界を見る。
崩れた大地。
裂けた空。
消えていった命。
それでも――まだ、存在している可能性。
ゆっくりと、翼が広がる。
その一振りで、空間が再び“形”を取り戻し始める。
世界を、書き換える。
それは魔法ではない。
創造。
それがどんな意味を持つのか、フィリスにはまだわかっていなかった。
けれど、身体ではなく、魂が知っていた。
“新しく、在るべき形にする”。
翠の光が、広がる。
ひび割れた空を縫い、大地を繋ぎ、失われた魔素を再び流し込む。
音が戻る。
風が戻る。
重力が戻る。
そして、消えたはずの命の残響が、世界のどこかで微かに揺れた。
完全に戻すことはできない。
失われたものは、失われたものとして残る。
母の声も、ライルの叫びも、仲間たちの魔力も、なかったことにはできない。
けれど、それでも。
終わりしかなかった世界に、もう一度だけ、息をさせることはできる。
神竜は、静かに目を閉じた。
その姿は、やがて光へとほどけ、ひとりの少女へと戻っていく。
地面に、くたりと倒れ込む。
頬に触れる石畳は冷たかった。
空はまだ傷だらけで、世界はまだ不安定だった。
それでも、遠くで風が鳴っている。
フィリスはゆっくりとまぶたを開けた。
涙がこぼれた。
誰のための涙なのか、自分でもわからなかった。
「……ただいま」
誰もいない空に向かって、フィリスは静かにそう呟いた。
その声に応えるように、翠の光が、ほんのわずかに瞬いた。




