六話 哀恤
電気をつけず、カーテンも締め切った暗い部屋。
天井に頑丈な金具で固定された先端に輪っかのついた縄。
その下には安っぽい脚立が置いてあり、僕はギシギシと音を立てながらその上に立つ。
脚立の上で輪っかを見つめながら、最期に今までの人生を振り返る。
だが、僕の気持ちは変わらなかった。
僕は今の生活で守りたいものなど何一つ無い。
それ故、輪っかに首を通すことへの勇気など要らない。
それをするのに勇気が要るということは、まだ失いたくない何かがあるということだ。
僕はゆっくりと輪っかに首を通し、脚立を蹴った。
まるで昼寝から目覚めたかのような体の倦怠感と、現実に戻されたことへの絶望感が感じられた。
そして、思い出す。
僕はあの後、川まで自転車を押してなんとか戻ってきたのだ。
さっきまではある妄想をしていたが、今は土手で仰向けに寝転がりながら、澄み渡った空を呆然と眺めている。
何を妄想していたかと言うと、自殺する妄想だ。
勿論、僕は精神を病んでいるという訳ではない。
病んでいるのかも知れないが、自分に希死念慮は無い。
これだけは断言出来る。
ではなぜこのような妄想をしているのか、それは昔読んだ本に要因がある。
その本ではかの有名な哲学者のニーチェを紹介していた。
そして、そこには彼のある名言が載っていた。
それは「自殺を想うことは強い薬である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる」という言葉だ。
そう、僕はその言葉を参考にしていただけだ。
それに僕は自傷行為をして弱った自分を周囲に見せ、他者からの哀恤を求めなければ生きていけないほど腐ってはいない。
妄想をしていると現実を忘れられ、自分だけの世界に身を置ける。
僕はそういう理由で昔からよく妄想をしている。
しかし、妄想をしたからといって現実においての問題が解決する訳ではないのは至極当然のことだ。
直せない自転車、これから何をすべきなのか分からない、これらの懸案をどうにかしなければならない。
でも、いくら考えたかって良い方法だなんて思いつかない。
今から学校へ行ったって全員に白い目で見られるし、ただでさえ居場所の無い家にこの時間から帰るのも辛い。
深い溜息をついた。
ふと、横に置いてある自分の自転車を見る。
今回の原因はその自転車にあり、どことなく自転車が憎く感じられた。
しかし、その原因を作ったのは自分だ。
そんなことは最初から分かっている。
でも、今の僕は狂気的な行動でもして、変人にでもなってしまいたいほど心がやつれていた。
僕は立ち上がり、自転車を川に投げ入れようと思いつく。
そして、それを実行しようと自転車を持ち上げる。
だが、僕には川に投げ入れるだけの筋力と気力はなく、ただ持ち上げて地面に叩きつけるだけで終わってしまった。
自転車を投げ入れることが失敗に終わると、今度は自分が今やろうとしていたことの愚かさに気付き、激しい自己嫌悪に陥った。
僕はどうすれば良いんだ。
心の中でそう叫んだ。
その時、昨日のある約束を思い出した。
それは、今日の放課後もすずと図書館で会うという約束だ。
今、すずは図書館に居るのだろうか。
その答えは分からなかったが、僕は倒れている自転車を起こし、行ってみようと思った。
まだ関係が再スタートしてから一日も経っていないのに、すずにこんな情けない姿を見せるのは恥ずかしい。
だが、今はそれでもすずと会って解決策を訊いてみる他ないと悟った。
僕はまた自転車を押しながら、とりあえず図書館へ向かった。
図書館の扉を開けると、一人の女の子と一人のおじいさん、一人の司書さんが居て、それ以外に人は見受けられなかった。
僕は足音に気を遣いながら、一人で本を読んでいるその女の子に近づく。
人形のようなモチモチとした白い肌、上品で女の子らしい華奢な体つき、艷やかな髪の毛。
そして、本を読んでいるすずの横顔はとても可愛らしかった。
そんなすずが座っているテーブルに、僕は彼女と対になる形で座った。
すずは僕が椅子に座った時に僕の存在に気付いた。
だがすずは「今日は早いですね」と言うだけで、それ以上は訊いてこなかった。
「そうだね」
僕はひとまず適当な返事をしておいた。
そこからは僕も本を手に取り、お互い何も話さずにただ本だけを読む時間になった。
そして、30分くらい経った頃、図書館に居ると得られる安心感で、荒れていた心が落ち着きを取り戻しつつあった。
そんな時、ようやくすずは口を開けた。
「ところで、今日は学校どうしたんですか?」
僕はその言葉を聞いて体がビクッと反応した。
「今日は学校休みだったんだ」
僕はとっさに嘘をついた。
なぜなら、すずに情けない姿を見せたくないからだ。
それにこのまま図書館で過ごしていたら、いつの間にか何事も無かったかのように丸く収まっていてはくれないだろうかという淡い期待もあった。
しかし、すずは案の定僕の嘘を軽々と見破ってきた。
「それ、嘘ですよね」
僕の目をまじまじと見つめて彼女は言う。
僕はその圧力に耐えきれず白旗を上げた。
そして、渋々本当のことを言った。
僕が今日の朝起こった一連の出来事を語り終えると、すずは半分呆れが混じった溜息をついて僕を見つめた。
それから「ちょっと来てください」と言って僕の腕を引っ張り、図書館の外まで連れていった。
「誠太さんの自転車はどれですか?」
僕が銀色のいかにも普通な自転車を指さすと、すずはまた僕の腕を引っ張りその自転車まで歩いていった。
しゃがみ込み、自転車の様子を見ているすずに「直せるの?」と訊いた。
「これなら直せるかもしれません」
「誠太さん、自転車のこと乱暴に扱いましたよね?」
すずはほっぺを膨らませてそう言う。
怒ったような言い方だが、別に威圧されている訳ではなかった。
「まあ少し乱暴に扱っちゃったかも」
「泥が少し付いてますし、へこんだ部分も見受けられますよ」
すずは徐ろにカバンから割り箸を取り出し、外れた自転車のチェーンを器用に直し始めた。
「まったく、どうしてあなた方は物事を感情的に見てしまうですか?」
「もっと論理的に物事を見ればいいのに」
それから30秒もしないうちにすずは見事外れたチェーンを元の位置に戻してしまった。
「どうやって直したの?」と僕が訊くと、すずは変わらず論理的に考えれば簡単に直せる的なことを言った。
「さて、例え今からでも学校には行っておいた方が良いですよ?」
僕はわざと嫌そうな目付きですずを見つめ、彼女に行きたくないとアピールする。
すると、すずは優しく包み込むような笑みを浮かべ「大丈夫ですよ、私も一緒に行ってあげますから」と僕を言い聞かせるように言った。
すずは人を諭すプロなのだろう。
僕はあっさりと彼女の言うことに納得し、今から学校へ行くという決断をした。
涙で濡らしながら歩いてきた道。
それをまさか数時間後にこんなにも楽しげな気持ちでまた歩くことになるとは思いもしなかった。
今、僕たちは二人で歩きながら学校へ向かっている。
僕が自転車を押しながら歩き、その隣には自転車を挟んですずが歩いている。
歩き始めてから数分はお互い黙り込んだままだったが、それからしばらくしてすずは無難な話題を僕に振った。
「その自転車は買ってもらったんですか?」
「うん、高校入学記念にね」
「買ってもらった時にこいつの名前も考えてあげてさ、からきおす第六四号って言うんだ」
「そうですか」
「でも、からきおす第六四号さんは乱暴に扱う持ち主の誠太さんが嫌いみたいですよ」
「現にさっきから誠太さんのスネにペダルが当たってるじゃないですか」
あまり気にしてはいなかったが、確かにさっきから足を踏み出した時に回っているペダルと何度かぶつけている。
「別にこんなの全然痛くないし、ただじゃれてきてるだけだよ」
僕は調子良くそう言った。
すると、また回ってきたペダルが僕のスネに当たった。
しかも、今回は的確に弁慶の泣き所を狙われた。
あまりの痛さに思わず自転車を手から放し、スネを押さえてうずくまった。
「だから言ったじゃないですか」
「今度からは大切に扱ってあげてくださいね」
すずはしゃがみ込む僕の背中をさすり、そう言った。
僕は涙混じりの声で絞り出すように「うん」と返事をした。
その後、すずは学校の校門前まで着いてきて見送りをしてくれた。
教室に入る時は緊張でどうにかなりそうだったが、意外にもクラスの人達の反応は薄く、特別変な目で見られるということはなかった。
だが、放課後当然先生には怒られた。
しかし、すずから受けた思いやりが僕に元気を与えてくれて、一旦は気分が沈んだが、すぐまた元気を取り戻した。
僕は帰り道で自転車に乗りながら思い出した。
そういえば今日は放課後、図書館へ行くことを心待ちにしていたんだった。
今日からまた改めてすずの任務の手伝いを始められる。
すずとの日常生活の中で、何か人生を変えられるヒントでも見つけられると良いな、と僕は思った。
図書館がある施設に着いた時、あまりに綺麗な赤色をした夕日に目を奪われた。
それに魅了され、今日の出来事を思い出しながらしばし眺めていた。
すると、夕日が目にしみたのか一滴の涙が頬を伝った。




