三話 猜疑
思えば昔の僕はあるはずもない将来に期待をし過ぎていたのかもしれない。
僕は人生は皆平等であると信じていた為、将来皆が羨ましがるほどの幸福者になる自分は、今は不幸でないと駄目だという先入観を持っていた。
昔はいじめられることもあったが、その先入観のおかげで難なく耐えることが出来た。
むしろ自分がいじめられることは当然とすら思っていた。
そして、その先入観はいつしか僕を幸福を捨て不幸を追い求めてしまう人間、いわゆる不幸中毒者へと変えていった。
幸福にはどこまでも疑心暗鬼を貫き、頑なに受け入れようとせず、不幸ばかりを愛した。
今でもその名残で不幸な自分を想像すると、どこか心が安らぐ。
僕にとって不幸とは実家みたいな存在なのかもしれない。
それから高校受験で絶望し、人生は平等でないことに気付いた時にはもう遅く、人生の基礎を築くはずの少年時代を自ら暗黒色で塗ってしまっていた。
そんなことがあってからというもの、僕は自分の人生に期待するのをやめた。
期待し、希望を求めるから裏切れたと感じるのだ。
期待も希望の希求もしなけりゃ、そもそも絶望なんて感じることはない。
だから、昨日の彼女にもう一度会えるかもしれないという期待も押し殺していた。
絶対会えるはずがない。
そう自分に言い聞かせ、全ての可能性を根こそぎ否定した。
そんな気持ちを抱えながら本を読んでいると、気付いたら今、目の前にその彼女が立っていたのだ。
この状況を素直に呑み込めない理由はそういうことだ。
彼女がなんて言ったのかは状況に理解が及んでいなかった為、よく覚えていない。
ただ僕は素っ気ない返事をした後、彼女の顔を無意識に見つめていた。
「本、渡して貰えますか?」
彼女は真実の口に手を入れるかの如く恐る恐る訊いてきた。
その声を聞いて僕は無意識から目が覚めた。
そして、状況が理解出来てから慌てて「あ……はい、わかりました」と答えた。
「ありがとうございます」
僕は本を閉じて栞を元のページに挟み、彼女に渡す。
彼女は本を手に取ると、続けざまに申し訳なさそうな顔をして訊いてきた。
「あの……もしかしてこの図書館をよく利用されてる方ですか?」
「まあそうですけど」
「でしたら一つお訊きしたいことがあるんですけど」
「なんですか?」
彼女ははにかんだ表情を浮かべ「ここって本を借りることって出来ますか?」と言った。
「出来ますよ」
「ほんとですか!?」
「はい。まず、図書館利用カードは持ってますか?」
「いえ、持ってません」
「借りるためには図書館利用カードが必要なので、まずはそれを作りましょうか」
「どこで作れるんですか?」
「ドアの近くの司書さんがいるカウンターで申請すれば作ってくれますよ」
僕は指を指し、彼女をカウンターまで案内する。
カウンターに居る司書さんは面倒くさそうに住所などの聞き取りを始める。
彼女はこの町に住んでいるらしく、すんなりと図書館利用カードを発行してもらえたようだ。
その後、彼女はさっきの本に加え更に数冊の本をカウンターに持っていった。
本を借りれて喜ぶ彼女はとても微笑ましく、それを横目に見ていた僕は心が和んだ気がした。
田舎から出てきたのかな。
僕はそんな印象を持った。
時刻はもうお昼になっていた。
僕はまだ図書館に残るが、彼女は家へ帰るようなので施設の外まで見送ることにした。
外の自販機でジュースを買い、僕と彼女は近くのベンチに座る。
「今日はわざわざありがとうございました」
「いえいえ」
「さっきの図書館利用カードは、この町にある四つの図書館全てで共通して使えますよ」
「この町には他に三つ図書館があるんですか?」
「そうですね。僕は特にここの図書館を利用してますけど、他の図書館もたまに利用したりしてます」
「図書館は昔からよく利用してたんで、今じゃどこにどんな本があるかだいたい把握出来るまでになりました」
自嘲気味に言ったつもりだったが、彼女は意外にもそれに感心した様子だった。
そして、「でしたら、次会った時どこにどんな本があるかなど、教えて頂きたいのですが……」とはにかんだ表情で僕を見つめながら言った。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
「ちなみに僕は明日もこの図書館来ますよ」
「では、私も明日ここに来ますね」
彼女はほっと安堵したような表情を浮かべた。
そうまでしてここで調べなきゃならないことでもあるのだろうか。
そうこうしてるうちに施設のバス停にバスが停まった。
「では、これで私は帰ります」
彼女はバスの扉が開くと共に立ち上がる。
慌てて僕も席を立ち、軽く会釈した。
そして、彼女がバスの乗車口に向かう後ろ姿を眺めた。
彼女を乗せたバスが過ぎ去った瞬間、どっと肩の力が抜けた。
なにしろ同年代の女性と話したのは3年ぶりぐらいなのだから。
それにしてもいささか順調に事が運び過ぎている気がする。
いくら僕が幸福を素直に受け取れないからといっても、さすがにこれを訝しむのは常識的な反応といえるだろう。
僕は昨日、彼女にもう一度会いたい、もう少し触れ合ってみたいと心のどこかで願ってしまった。
それがもう少し理想的でない、あるいは最悪の形で叶ったのなら、無条件でそれを受け入れたことだろう。
だが、実際は限りなく理想的で、文句のつけようがないくらい完璧な形で叶った。
これなら例えどれだけ純粋な人でも、少なからず疑いの目を向けるだろう。
新手の詐欺か何かかもしれない。
僕はそれも視野に入れつつ、明日彼女の正体や目的などをしっかりと見定めようと思った。
その後も図書館で本を読み、いつも通り夕方になると帰った。
そしてその夜は明日彼女と会うことを想像すると、まるで遠足に行く子供のようにワクワクしてなかなか寝付けなかった。
明日も今日みたいに上手くいくはずないと分かっていながらも。
次の日。
朝、起きてすぐに時計を見る。
時刻は8時だった。
目が覚めてからしばらくは昨日の胸の高鳴りは嘘のようだったが、朝食を食べ終える頃には頭が彼女のことでいっぱいになった。
母はいつもと違い楽しげな僕を見て、少し上機嫌になった。
それが父さんと妹にも拡がり、暗かった家庭にいつの間にか灯りが灯った。
僕が変わるだけでここまで影響があるのか。
少し大袈裟かもしれないが、これは僕が高校に入ってから一番明るい日曜日の朝だったのかもしれない。
「行ってきます!」
僕は野球少年のような元気ある声でそう言った。
9時頃に図書館に着いた。
そして、またいつもと同じテーブルに座り、昨日の本の続きを読み始める。
だが本の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
頭が彼女以外のことを受け付けようとしないのだ。
バチンと一喝するように頬を両手で叩く。
何を期待なんかしているのだ。
彼女は詐欺師、あるいは単に僕を弄んでいるだけかもしれないというのに。
今日はそれを見定める、ただそれだけのことだ。
僕は緩みかけていた頬を固め、再び本を読み始める。
しかし、扉の開く時の鈴が鳴る度についそっちに気を取られ、逐一集中を妨げられた。
そんな状況が小一時間ぐらい経った頃、ついにその時がやってきた。
そうあの子が扉を開けて入ってきたのだ。
彼女は僕と目が合うと少し微笑み、こちらに近付いてきた。
恥ずかしさと緊張で本に顔を埋めたくなった。
「こんにちは」
彼女はぺこりとお辞儀をした。
「あ、どうぞ座ってください」
そう促すと彼女は「はい、失礼します」と言い、僕の前の席に座った。
「それで、どんな本を探してるんですか?」
「何かを探してるというよりかは、どこにどんな本があるかなどを教えて頂きたいんです」
それなら司書さんに訊いた方が早いと思う、とは言わなかった。
何故ならここの司書さんはいつも仕事をなおざりにし、気怠るそうに本を眺めていて、とても近寄り易い人とは言えないからだ。
実際、何度か機嫌が悪そうな日に質問した人が冷たくあしらわれるところを見たことがある。
まあこんな利用者も少なく、廃れた図書館にそれ相応のサービスを求める方が馬鹿馬鹿しいとは思うが。
「分かりました、じゃあそれぞれの本棚を案内していきますね」
「あ、その前に一ついいですか?」
彼女は席を立とうとする僕を引き留めた。
「名前お訊きしてもいいですか?」
そう言えばまだ自己紹介とかしてなかったな、と僕は思った。
「僕は伊藤誠太です」
「私は高橋すずです。宜しくお願いします」
「よろしく、高橋さん」
「あ、すずで良いですよ。あと誠太さんの方が年上みたいですし、敬語じゃなくて構いませんよ」
「そう? じゃあ僕も誠太でいいよ」
「それじゃあ、誠太さんで」
彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
それから僕はすずにどこにどんな本が蔵されているのかを説明する為、図書館を回った。
すずは僕が紹介する本棚全てに興味を示し、一冊ずつ手に取っては咀嚼するようにふむふむと何かを確認していた。
まるで主婦がスーパーで食材選びをするみたいに。
その中ですずが特に関心を寄せていたのが、この町の歴史や地理などを記載した本だった。
この町は今は随分と衰微したが、元は歴史ある町で、それらの蔵書数は数百冊を超える。
なので、すずがそれに興味を持つのも不自然ではない。
結局、図書館全ての本棚を巡り終えるのには数時間を要し、あらかた紹介し終えた頃にはお昼時になっていた。
僕はすずの正体あるいは目的を探ろうと必死に精察したが、特に変わったところは見受けられなかった。
昨日の違和感はただの思い過ごしなのだろうか。
そんなことを考えていると、数冊の本を借りにカウンターに行ったすずが戻ってきた。
「今日は色々教えて頂き、本当にありがとうございました」
「いやいや、礼を言われるようなことはしてないよ」
僕はありきたりな謙遜の言葉を並べ、頭を搔いた。
それからすずはもじもじした様子で「あの、この後の予定ってありますか?」と言った。
「いや、特にはないけど」
急に胡散臭くなってきたな、と僕は思った。
デートという名目でどこかに連れて行き、金を巻き上げるのかもしれない。
あるいは単に好意を持たれてるだけかもしれないが、僕に限ってそんなことはないだろう。
しかし、次にすずが言い放った言葉はいずれにも該当しなかった。
そればかりか、僕の予想を遥かに上回っていた。
何と彼女は知り合って一日しか経っていない僕にこう言ったのだ。
「良ければ、私の家でお昼ご飯食べませんか?」
あまりの衝撃に言葉を失う僕をすずは不思議そうな表情で見つめていた。




