十五話 不幸
3月下旬、月曜日。
もうすぐ桜が開花し、春が町中を闊歩し始める頃。
僕は今、自宅で部屋の片付けをしている。
卒業式を終えた僕はすずの情報収集を手伝う傍ら、大学の入学準備も進めている。
それにあたって心機一転部屋の片付けでもしてみようと思ったのだ。
大学はいわゆるFランなのだが、前田も同じ大学なので友達に困るということはなく、充実した大学生活を送れるだろう。
クラスのみんなと別れることになるのは悲しいが、別れは決して悲しいものではないと思っている。
何故なら別れがある分出会いもあるのだ。
これから先、大学で出会うであろう人たちがその空いた隙間を埋めてくれることだろう。
それに今週の金曜日にはクラスのお別れ会が開かれる。
そこできちんと後味良くお別れをして、次に踏み出せばいい。
今の僕はそんな楽観的な考えを持てるほど順風満帆な日常に囲まれていた。
しかし、着実に心の奥底の疑念は膨らんでいた。
この幸せな日常に対して何かが違う気がする。
だが、何が違うのかまでは分からない。
今ではそれがだんだんと心を蝕んできていて、一刻も早くこの疑念を払拭しないと、それが気掛かりでまともに日常生活を送れそうにない。
今日、部屋の片付けを行っているのも実はそれが関係している。
部屋には何か僕が忘れていることを思い出させてくれる物があるかもしれないと思ったからだ。
しかし、いくら部屋を片付けても何かピンと来るような物は見つからない。
こんなことなら今日は図書館にでも行くべきだったな。
そんな諦念が頭に浮かび始めながらも、引き出しを漁っていると何かが奥につっかえてるのが分かった。
それを壊れないようにそっと引き抜いてみる。
奥につっかえていた物は一冊のノートだった。
僕はそのノートに見覚えがあった。
おそらく、中学時代につけていた日記だろう。
僕は恐る恐るノートを開いてみる。
そこに自分が中学時代に周囲の人に抱いていた僻みや妬み嫉みが綴られていた。
また、その頃は自分は将来立派な大人になるんだと本気で信じていた為、周囲を蔑んだようなことも綴られていた。
誰だってそれくらいの気持ち少しは抱くことだろう。
だが、僕はそれを少し拗らせ過ぎてしまった。
自分は将来立派な大人になるという何の根拠もなく、泡沫のように儚い希望に縋り、驕りに驕りを重ね一度も勉強をしようとしなかった。
そして、高校受験で現実を突き付けられ、絶望する。
そんな僕の人生を描いたように日記は後半部分に差し掛かったところで終わっていた。
そして、それを読み終えた頃には僕の中にあったわだかまりはすっかり消えていた。
そう、僕は思い出したのだ。
自分は不幸中毒者だということを。
僕は成長するに連れ、自分が想像する立派な大人とは真逆の人生を歩んでいることに薄々気が付いていた。
だが、それでも現実を見ようとしなかったのは自分が人生は皆平等であると信じていた為だ。
だから、今自分が不幸になりつつあるのは立派な大人になる自分の将来を思えば至極当然である。
そう言って進んで不幸を受け入れた。
そんな環境に長年居たからこそ、幸福を捨てどこまでも不幸を追いかける不幸中毒者になってしまっていた。
だからあの時、どこか安堵していたのか。
自分にとって実家のような存在の不幸に浸ることが出来たから。
そして、ずっとこの幸せな日常に対して疑念が晴れなかったのは頭では忘れていても本能的には覚えていたのだろう。
自分はもはや不幸まみれの人生しか歩むことが出来ないということを。
幸福や希望を失って絶望するのと、最初から絶望的状況に居るのとでは同じ絶望でも雲泥の差がある。
予め負けると分かっていて負けるのと、勝てると思って負けた時のように。
幸福や希望を失い絶望するのが怖いなら、自ら最悪を選択して絶望の淵に身を沈めればいい。
幸福を捨て、不幸だけを身にまとって。
そうしたら、そのことへの恐怖はなくなる。
僕はその日から図書館へ行くのをやめた。
そして、金曜日のお別れ会も無断欠席した。
3月30日、土曜日。
明日ですずは未来に帰ることになる。
だが、僕にはもう関係のないことだ。
何故なら僕はすずと会うのをやめたのだから。
僕は一生不幸まみれの人生を歩むことにした。
だから、僕に幸福を授けてくれたすずを遠ざけるのは当然のことだ。
あまりに無責任で卑怯で自分勝手なやり方なのは嫌になるほど理解している。
でも、僕はもう耐えられないのだ。
幸福な人生を歩むことが。
すずには本当に申し訳ないが、彼女宛に「もう会いたくない」と一言だけ添えた手紙を月曜日に送っておいた。
これで彼女も僕の本性を知るだろう。
酷いと思われても構わない。
それでいいのだ。
これでようやく不幸な日常を満喫出来る。
だが、すずは僕が思っていた以上に人間的で優しかった。
最初すずを見て感情の起伏が少なく、あまり人間っぽくない印象を受けたが、それは間違いでむしろ僕の方が非情な人間だったようだ。
すずは今、僕の部屋でちょこんと座っている。
そう、彼女は僕に直接話を聞く為にわざわざ自宅まで訪ねてきたのだ。
しかも、あんな手紙を送ったのに特に怒った様子はなく、今まで通りの柔和な表情を浮かべて。
僕みたいな卑屈な人間にとって、その優しさが一番心に刺さる。
「それで、誠太さんはどうして私と会いたくないんですか?」
すずは何でも受け止めてくれるような穏やかな表情を浮かべて言った。
今のすずにどれだけ酷いことを言おうと、彼女は一切傷付いた表情など見せないのだろう。
だから、僕はすずには何も語らず、突き放そうと思った。
「すずに話す義理はない」
心が痛かった。
だが、すずはそれでもめげなかった。
「せめて、この一週間で誠太さんに何があったかだけでも教えてください」
「お願いします」
すずはそう言って床に頭をつけた。
「分かった、分かったから頭を上げて」
僕はため息をついた。
そして、一言だけこう言った。
「僕は自分が不幸でしか生きられない人間だと思い出しただけ」
「不幸……? ですか?」
一瞬すずの目が虚ろになった。
彼女もようやく諦め始めたのだろうか。
このまま経緯を語っていけば本当にすんなりと帰ってくれるのかもしれない。
「ああ、それに実は最初すずに情報収集の手伝いをお願いしたのは下心があっただけなんだ」
「人生が変わるような気がするだなんてただの詭弁なんだ。今の僕ならよく分かる」
「それなら私も最初誠太さんに近付いた理由は下心があったからですよ」
「いいや、違う」
「すずは何にも分かってない」
僕はいつの間にか強い口調になっていた。
「分かってないのは誠太さんです」
すずも同じく強い口調で返した。
「違う、すずの方が分かってない!」
その時、すずは一階まで響きそうな大きな声で「分かってないのは誠太さんです!!!」と一喝した。
すずが声をあららげるところを見るのは初めてなので、思わず茫然自失としてしまった。
「誠太さんは幸せを渇望する人の気持ちを考えたことはありますか!?」
「誠太さんは単に幸福から逃げてるだけで、不幸でしか生きられない人間ではありません!」
「本当の不幸を味わったことがないからそんなことが言えるんです!」
「私がどれだけ心細い思いでこの時代にやって来たか分かりますか?」
「これから会う人全てが二年後には死んじゃってるんですよ!?」
「そんな淋しい思いの中、私と関わって色々教えてくれた誠太さんは私にとって希望そのものなんです」
「だから、せめて演技でもいいですから最後くらい一緒に居てくださいよぉ」
すずが僕に対する苦言を全て吐き終わり、息を切らす頃には彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
そして、それと同時に僕の馬鹿な考えもいつの間にか吹き飛んでいた。
一度喝破されたぐらいで吹き飛ぶということはやはりただのエゴだったのだろう。
今はただ、目の前の女の子の為に生きようと思った。
しかし、その時、僕の頭にある疑問が浮かんだ。
これから合う人は全員二年後には死ぬ?
それは一体どういうことなのか。
僕は涙を手で拭っているすずにこう言った。
「すずのおかげで僕の考えがあまりに浅はかで愚かなんだと気付かされたよ。ありがとう」
「でも、一つだけ気になることがあって、訊いてもいいかな?」
「どうぞ」
すずは涙混じりの声でそう言った。
「これから会う人は全員二年後には死んじゃうってどういうこと?」
その瞬間、すずの顔から表情が飛んだ。
「え? うそ……私もしかしてそんなこと言っちゃってました?」
僕は恐る恐るうなずく。
すると、すずはあからさまに取り乱し始めた。
それこそ、まともに話を出来ないぐらいに。
結局、その日はすずが気持ちの整理がつかないということで一旦帰り、後日また彼女の家で話をするということになった。
あの取り乱し具合から察するに、もしかしたら僕は決して開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。




