第5話 東村
欠伸をしながら、昼下がりの庭を歩く。勉強に飽きたらここに来るのが日課となっていた。
久々に来てみれば、庭のあちこちに薔薇が咲き誇っていた。ふと、先日庭師に会った際、棘に気を付けるよう言われたことを思い出す。蔦が絡みつくアーチを慎重にくぐる。顔のすぐ傍で笑うピンク色の花に癒される。上品な香りが鼻をくすぐる。
くるくると踊るように歩いていると、鼻歌が聞こえた。テオのものではない。塀の向こうからだ。小さくて儚くて、今にも飛んで行ってしまいそうな声。物語に出てくるような妖精は、きっとこんな風に歌うのだろうなんて思う。しかしテオは、この妖精の正体を知っている。
「ティム? いるの?」
テオの呼びかけに、ぴたりと歌声が止む。ややあって、柔らかな声が応答した。
「テオ様?」
「そうよ。今日もお花採集してるの?」
屋敷の塀の向こうには、小さな森がある。以前、そこで花を摘むティムを見かけた。あとで聞いたところによると、洋服の染料にするのだとか。シャツ一着を染めるにもかなりの量が必要と聞いたので、てっきり今日もそうなのかと思ったのだが。
「えっと、今日は野苺です。今の季節は熟してて美味しいんです」
「そうなんだ! ねぇ、今そっちに行くから少し待っててくれる?」
「え、は、はい!」
返答を聞くや否や、庭を駆け抜け門へ向かう。道中、護衛を付けることを考えたが、結局一人で門を通った。この森は人里の近くにあるからか魔獣があまり寄り付かず、仮に現れてもすぐに騎士たちによって討伐される。しかも、ティムのいる場所は森の入り口近く。奥まで入り込まなければそう危険はないだろう。
彼女はおそらく、テオが呼び止めた場所から一歩も動かずに待っていたのだろう。小さな竹籠を二つ、細い両腕にぶら下げて、人形のように突っ立っていた。お待たせ、と言ってこちらが手を振ると、ティムは頬を赤く染めて嬉しそうに笑った。
「野苺って、こんな季節に実るのね。もっと秋に実るものだと思ってた」
「早いものだとこれくらいの時期からで、夏が一番いろんな種類が採れるんです」
「これ、そのまま食べられるの?」
「食べれます! 美味しいですよ」
ティムは持っていた籠の片方を地面に置き、もう片方に入っていた野苺を数個取ってひょいと口の中に放り込んだ。そして、どうぞ、と籠をこちらに差し出す。籠の底に、ルビーのような野苺が敷き詰められている。そこからテオは一つを摘み、感謝します、と短く呟いて、口に入れた。実を噛めば、微かな青い匂いが鼻を抜け、甘酸っぱい味とつぶつぶとした食感が口の中に広がる。
「うん、美味しい!」
「よかったです! たくさんなってるから、いっぱい食べてくださいね」
ふと周りを見れば、赤い実をつけた木々が広がっている。実どころか葉にも艶があって、早く食べてくれと言わんばかりの輝きようだ。
「こっちの野苺は?」
ティムが地面に置いた方の籠にも、半分ほど野苺が摘まれていた。こちらは先程のよりも紅に近い色合いで、粒が少し大きい。
「そっちはジャムにするんです。食べれるけど、ちょっと酸っぱいです」
試しに一粒味見して、つい口を窄めてしまった。中身はやや甘い程度だが、表皮の酸味が強く、噛むほどに舌がざらつくようだ。どうにか呑み込んで、急ぎ先程の野苺で口直し。酸味の反動のせいか、初めに食べたときよりも甘く感じる。一連の様子を見ていたティムが、ふふ、と小さく笑った。
「ジャムって、どうやって作るの?」
「鍋でぐつぐつ煮込んだらできますよ!」
「煮込んだら甘くなるの?」
「えっと、蜂蜜も入れるんです。それでもまだ酸っぱいですけど、パンとかクッキーに塗ったら美味しいので」
へぇ、と思わず感嘆の息を漏らした。
ふと、料理長が時折作ってくれるチーズケーキを思い出した。白く濃厚なチーズの上に、紫のベリーのジャムが添えられている。それ単体を舐めると酸っぱく、だがケーキと合わせて食べると抜群の相性を発揮する、あのジャム。あれによく似ている、と思った。
「生活の知恵ってすごいのね」
いったい誰が思いついたのだろう。きっとそれは、王族のような金持ちたちではなく、贅沢を知らない人々の誰かが生活の中で編み出したものに違いない。酸っぱい果物を美味しく食べる知恵として。最初に作った人に感謝と尊敬の意を込めて拍手を贈りたいところだ。
「教えてくれてありがとう。すごくいい勉強になった」
やはり世界は、まだまだ知らないことだらけで面白い。
テオが微笑むと、誇らしげに笑っていたティムが、なぜだか一瞬、痛みを堪えたようにピクリと固まった——ような気がした。
だが、テオが何か問いかけるより先にティムがぱっと顔を明るくして、テオの背後に視線を向けた。
「お兄ちゃん」
振り返れば、フォルという名の青年が立っていた。ティムの長兄であり、丁度テオと同い年。いつも柔和な表情を浮かべていて、サラサラの茶髪に細身の長身、いかにも好青年といった風貌をしている。
彼はティムに向かって「やっほう」と片手を上げ、その後テオの方を向いて、顔を覗き込むように軽くお辞儀をした。
「ごきげんよう、テオ様。いつも妹が世話になってます」
「ごきげんよう、フォル。こちらこそ。なんだか久しぶり。元気?」
「元気ですよ。テオ様に会えたから尚更元気です」
「ふふ、調子が良さそうね」
いやいや、とおどけるフォルに笑いながら、ちらりとティムの様子を盗み見る。口元を隠しながら、こちらのやり取りを聞いてくすくすと笑っている。先程の違和感は気のせいだったのだろうか。
あれこれ考え込む間もなく、フォルが話しかけてくる。
「テオ様こそ、元気ですか? なんだか疲れて見えるのは気のせい?」
気のせい、と言おうとして、言葉に詰まる。
声にならなかった息の使い道を持て余したまま、上目遣いでじっとフォルを見つめ。視線を受けた彼は僅かに唇を引き締め、ぱちりと瞬いた。
「あのね。しばらく、お城に行くことになったの」
テオの告白に、ティムとフォルの口から同時に「え」と声が漏れた。黙り込んだティムとは対照的に、フォルは「ええ!」と大袈裟に驚いてみせた。
「しばらくって、どれくらいですか?」
「ひと月、ふた月くらい?」
「長いな。寂しいじゃないですか」
「そんなこと言われても。私だって行きたくて行くわけじゃないもの」
「なんで行かなきゃならないんですか?」
「うーん、詳しくは話せないけれど、リアが呼ばれたから行くってところかな」
そんなぁ、とフォルがぼやく。彼の調子に合わせてテオも、不満そうな顔をしてみる。するとそこに、ぽつりと、ひとりごとのようなティムの呟きが落ちた。
「……お祈りも、来れないんですか」
心細いと、そう言うかのような声色をしていた。
「そう、ね。城の方に教会があるみたいだから、私はそっちでお祈りすることになるかな。もしみんながお祈りに行きたいなら、私がいなくても馬車を出してもらうこともできると思う」
「あ、えっと」
たじろいだティムを見て、少し意地悪だったかもしれないと思った。どうせ、行くも行かないもソロルの一声で決まる。ティムが決めることではない。そしてきっとソロルは、面倒がって行かない。容易に想像できる。
「せっかく馬車出してもらえるなら行きなよ」
「そう……しよっかな……」
フォルの声にも、ティムは曖昧に返した。どちらにせよ、すぐに決められることではないことは確か。
「まだ時間はあるから、いつでも相談してね。私からお母様にお願いしてみるから」
「ありがとうございます……」
自信なさげに俯くティムを見て、なんだか罪悪感が募る。見ていられなくなって、テオは「それじゃあ」と声を張り上げた。
「私、そろそろ戻るね。二人とも、あんまり森の奥に入りすぎないようにね」
「門まで送りますよ」
「いいよ、すぐ近くだし。またね」
フォルの気遣いも軽く受け流して、彼が浮かべた名残惜しそうな表情には知らんぷりして、さっさと背を向ける。
これでは、テオの方が疚しいみたいだ。テオはただ、己の役目に準じて生きているだけなのに。悶々と湧き出る黒い思いを振り切るように足取りを加速させ、飛び込むように庭に戻る。そこに咲く薔薇が相変わらず凛と佇んでいるのを見て、テオはほっと息をついた。




