第1話 春日
大きな扉を押して外に出ると、柔らかな風が細い身体を撫でて、通り過ぎていった。重たい頭巾を脱ぐと、篭った熱が逃げていく。うねる長い赤髪を手櫛で梳かしながら、風と戯れて遊ぶ。
顎を軽く持ち上げれば、霞みがかった淡い晴れ空に、照り輝く太陽が一つ。
小さく笑みを零して、四角い石畳を歩き始める。
門の前に停まった馬車と、傍でさえずる三人の女の子たち。小鳥のように高い声で可愛らしく談笑している。彼女らに気付かれないように気配を薄くして、門をくぐった。一番年下の少女だけがちらりと目線を向けたが、気付いていないふりをしたようだった。
そんな様子にも背を向けて、小走りに目的地へ向かう。木漏れ日の落ちる林を縫って、なだらかな坂道を登って。
丘のてっぺんにそびえ立つ、一本の老木。その麓にはいつも、黒い髪の青年が座っている。今日も相変わらず、寛いだ様子で本を読んでいた。
足取りを緩めて近付くと、伏し目がちだった長い睫毛が持ち上がり、茶褐色の瞳が一人の少女を捉える。視線が交わって、笑みを浮かべ、少女——テオは声を発した。
「こんにちは、カルドさん」
だが喉が鳴らしたのは風邪をひいたかのような掠れ声。朝からしばらく声を発していなかったせいだ。誤魔化すように咳払いをすると、青年——カルドは本を閉じながら無邪気に笑った。
「こんにちは。元気?」
「ええ。カルドさんは?」
「変わらないよ」
お決まりの挨拶も済ませたところで、テオはカルドの隣に腰を下ろし、手に持っていた小さな籠を置いた。中には二つに切られたサンドイッチが入っている。瑞々しい野菜と柔らかいハムを薄切りのバゲットで挟んだ、シェフお手製のお昼ご飯。
薄い手袋を外し、ハンカチで軽く手を拭く。両の掌を合わせて、顔の前で掲げ、目を瞑る。
今日も穏やかな光の元、食を預かり、安全に、生きていること。感謝します。
さて、お祈りも済んだところで。両手でサンドイッチを持ち上げ、一口、かぶりついた。中に挟まっていたレタスがパリッと音を立てて千切れる。レタスと一緒にずるりとハムが滑り出てきたので、慌てて口で受け止めた。
「美味しい?」
食事の様子を黙って見守っていたカルドが微笑んだ。口の中のサンドイッチをゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ後で、テオは口を開いた。
「美味しい。一つ食べる?」
「いいよ、いらない。午後もお祈りでしょ。お腹空いちゃうよ」
ならば、遠慮なく。自分で聞いておきながら、二分の一をあげるのは流石に惜しいなどと思っていた。
テオが二口目にかぶりついたのを確認して、カルドは両腕を天に向かって突き出し、伸びをした。
草木の揺れる音がする。鳥のさえずりを掻き消すように、さわさわと。鼻を抜けるマスタードの香りに混ざって、土の匂いがした。日を目一杯浴びた、自然界の匂い。頬に張りついては口の中に入り込もうとする髪の毛を耳にかける。風の来る方に目をやっても、麓の教会は木々に阻まれてよく見えない。
「ね、見て」
サンドイッチの一切れ目を食べ終わったところで、カルドがずいっと肩を寄せ、彼の隣に置いてあった木箱を引っ張ってきた。
中から取り出されたのは、これまた箱のようなもの。艶のある木製で、四角い。カルドの両手に収まる程度の大きさで、実際に手に持ってみるとどっしりと重たい。真ん中に目玉のような丸いガラスがはめ込まれており、反対側の面には、覗き穴のようなものや、開けることができそうな扉、ボタンやネジなどのからくりがついている。
「なぁに、これ?」
「これを使えば、本物そっくりの絵を描くことができるんだって」
どうやら、この中に特別な紙のようなものが入っているらしく、そこに瞬間的に光を映すことで、景色を切り取ることができるという。専門の職人に頼めば、紙に現像することも可能だとか。
「僕には絵の才能はないからさ、見た景色を簡単に残せるのなら是非と思ってね」
「高かったでしょう?」
「いや、それがね。長く売れ残ってきた商品だからって大幅に値下げされてたんだよ。もちろん安くはなかったけど、数月節約すれば貯まる程度ではあったかな」
みんな欲しくないのかね、とカルドは呟いた。多くの人はこんな玩具に向ける興味などないのだろう。そんなものにお金を掛けるくらいなら、満足な生活を選ぶ。そういうものだ。
だが、テオは違う。
「カルドさん、サンドイッチあげる」
手に持っていた写し絵装置を片膝において、片手でサンドイッチの入った籠をカルドの前に突き出す。彼は目を丸くして、慌てたように激しく頭を振った。
「いいよ! 節約って言っても、食料に困るほどじゃないから!」
「違うの、受け取って。代わりに、お願いがあるの」
茶褐色の丸い目が、きょとんとテオを見つめる。軽く首を傾げ、黒目がちなその瞳を上目遣いで見つめ返して、一番の可愛い笑顔。
「ねえ、一枚だけ、映してみてもいい?」
テオだって、自分の手で思い出を残してみたい。自分の見た景色を世界に残してみたい。
意図を理解したカルドは、ああ、と安堵したように肩を落として笑った。
「いいよ。映し方教えてあげる」
まず、ガラスの目玉がついていない側面を自分側に向けて持ち、穴を覗き込む。すると目玉越しにぼやけた景色が見えた。その状態で、ネジを回して、焦点を合わせる。地面に生える短い草の輪郭がはっきりと見えた。あとは、ボタンを押すだけ。
「何か映したいものある?」
一通り説明し終えたカルドはそう尋ねた。答えは既に決まっていた。
「カルドさん、こっち向いて」
テオは立ち上がって数歩距離を取り、カルドの方を振り返って、装置を顔の前に掲げた。
「えぇ、僕? もっと他にあるでしょ」
「だって、あなたはあなた自身を映すことはできないでしょう? だから、私が映して残しておかなくちゃ」
景物は、誰にでも映せる。カルドが残してもテオが残しても大差ない。空模様と、せいぜい目線の違いがある程度。でも人間は、カルドは、テオにしか映せない。まるで使命感のように。この装置の持ち主を映したいと思った。
ぼやけた人影がカルドの姿を映し出す。装置の向こうにいる彼がむず痒そうに頭を掻いて、はにかむような表情でこちらを見て。
テオがボタンに指を掛けた時、不意にその目線が逸れ、下の方を追いかけた。
「どうしたの?」
急に、注意が逸れるなんて。一度腕を下ろして彼の視線の先に顔を向ける。見れば、テオの足元でひらひらと、白い花びらのような何かが踊っていた。
「蝶だ」
白い蝶はくるくると地面付近を彷徨った後、テオの踝丈のドレスの、裾のあたりにしがみついて止まった。象牙色の布地に溶け込む蝶模様を茫然と眺めつつ、どうしたものかと思い悩む。怖くはないけれど、下手に動けない。
するとカルドが膝立ちになってゆっくりとテオの足元に近寄ってきた。失礼、と一言断った彼が、指を伸ばしてドレスに触れる。つ、つ、と細い足を突かれた蝶は、掬い取られるようにカルドに攫われ、今度はその指の上でゆっくりと羽を休め始めた。
解放されたテオがありがとうと礼を言うも、カルドは気のない返事をして、ただじっと、指先の蝶を観察していた。その様子を見ているうちに、何となく思い立って。
――カシャ。
重厚な音と共に、装置の目玉が瞬いた。音に驚いたのか、蝶が飛び立つ。同時に、カルドが目を見張るようにテオを振り返った。
「嘘。今絶対気の抜けた顔してたでしょ」
「大丈夫、綺麗に映せてるはず」
「恥ずかし……」
身を縮こまらせるカルドに、テオは思わずにやつく。気の抜けた顔なんて本人は言っているが、それはつまり、余計な力が入っていないということだ。自然体の方が絶対に美しい。我ながら上出来だ、と思った。
装置を返しながら、カルドの顔を覗き込む。
「現像したら、私にも見せてね」
「もちろん、そのつもりだけど。全部で七枚映した後じゃないと現像できないんだって。今のでまだ三枚目だから、気長に待ってて」
わかった、と返事をしたところで。
カーン、と教会の鐘が鳴り響いた。毎日正確に時刻を知らせる鐘の音。休憩の終わりを知らせる合図。
「もうそんな時間!? 行かなくちゃ」
「うん。じゃ、気を付けて」
残っているサンドイッチをカルドに押し付けて手を振り、テオは小走りで駆け出す。背後から控えめに、「またね」と言う声が耳をくすぐった。
この作品を見つけてくださりありがとうございます!
当作者は、基本的に完成してから投稿する派なのですが、実験的に、一話できたらすぐに投稿してみようとて、連載を開始しました。
毎日更新が目標ですが、途中途中止まると思います。また、未熟な部分も多々あると思います。
少しでも皆様を楽しませるものになれば幸いです。




