第15話 女神の足元
月に二度の、祈りの時間。最後に彼に会ってからまだ半月しかたっていないことが、不思議でならない。
王城と城下町の間に置かれた聖堂は、まるで異界のようだった。高い天井と、輪郭のぼやけた影。静かに鳴り響くパイプオルガンと、礼拝に来た人々の囁く声。城下の賑やかさとも、王城の荘厳さともまた違う、神秘的な雰囲気を纏っていた。
会衆席の間の通路を進む。人々の視線を感じる。だが、胸を張って前だけを見て、最奥で微笑む巨大な女神像に向かって歩いた。
その女神の足元、教壇の前で、イオラがこちらを振り返っている。象牙の礼服を纏い、ウィンプルを被っている姿は、まるで花嫁のようにも見えた。テオが礼をすると、彼女は穏やかに頷いた後、「どうも」と軽い調子で片手を上げた。
「こんにちは、イオラ様。礼服も素敵ですね」
「ありがとうございます。テオ様こそお綺麗です。でも、この服で長い時間お祈りするのって窮屈じゃないですか?」
「結婚までの辛抱ですよ」
「確かに」
女神様の前で辛抱だなんて口にしてもいいのだろうか。不安には思いつつ、抵抗感は不思議と感じなかった。イオラが先に言い出したせいだろうか。仮にソロルに同じことを言われたとしたら呆れてしまうだろうに。
やがて、聖堂の鐘が鳴る。神官がやってきて、もう暗唱できるほどに聞いた神話を語り始める。それを耳に流しながら、己の内にいる女神を呼ぶ。
女神様、女神様。
弟のリアが魔王封印をすることになりました。無事に役目を果たせるよう、お守りください。
それから、近いうちに婚約者を決めることになりそうです。どうか良縁に巡り合えるよう、お力添えください。
女神様、女神様。
今、環境が大きく変わりつつあります。身の回りだけでなく、世界全体が大きく変動しているのを感じます。その変化が吉と出るか凶と出るかはわかりませんが、受け入れるしかないのだろうと思っています。多くは望みません、心穏やかに過ごせるならばそれで十分です。どうか。
そこまで考えて、はたと先日のハルウの話を思い出す。
テオは、世界の平穏を願っている。だが、それはテオから見える範囲までのことでしかなく、さらに言えばそれが全員にとっての幸福とは限らない。この国において、テオは間違いなく恵まれている側だ。その恵みを失いたくないからこんなにも胸がざわつくのか。だとしたら。
――女神様。私は。
身の回りの安全ばかりを願ってしまう私は、利己的なのでしょうか。
環境の変化を受け入れられない私は、臆病なのでしょうか。
力になりたい、皆を救いたい。それは本心です。でもどうするのが正解なのかがわからないのです。ただ流されるままに身を委ね、恵まれた環境に甘んじて、過ぎ行く世界に置いて行かれ、一人焦るばかりで。
私の無力な祈りに、意味などあるのでしょうか。
***
「不安ですか? リア様のこと」
城へ戻る道中、イオラがそう切り出した。先日の論議を思い出してのことだろうか。それとも、テオが暗い顔をしていたからかもしれない。
不安か、と聞かれると不安ではある。だが、胸の内にあるのはもっと、もっと暗くて重い。それを吐き出せるはずもなく、テオは曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「リアが自らやると言うとは思っていなかったので、びっくりしちゃって」
「まぁ、皆がやりたがるような役ではないですもんね」
「イオラ様はご存知だったんですか? リアがやる気だって」
「なんとなく。ただあの場では純粋に、リア様の外側で議論が進んでる感じが気に食わなかっただけです」
考えてみれば彼女の言う通りで、テオ自身も何が正しいかばかり考えていた。イオラの方がよほどリアのことを考えている。テオの方が、リアと過ごしてきた時間は長いのに。
「その点で言うと、テオ様も蚊帳の外でしたよね。もうちょっと主張してもよかったのに」
会議の終わりがけにイオラがこちらを見ていた理由を、ここでようやく確信する。きっと、本当に待っていたのだろう。アリスが折れた後も尚、イオラだけはずっとテオを見つめていたから。
「リリ様だって終始何も話していなかったですよ」
「そうですけど、リリは態度に丸出しだったでしょう」
「それは、確かにそうかも」
興味がなさそうなふりをしながら、望む答えが出るのをじっと待っているような、そんな雰囲気を感じた。仮にリアが役を担わずともリリに直接の影響はないはずだが、彼女の立場は一貫しており、その姿勢には少しだけ尊敬する。
「ただ、リリ様は王位継承の関係者ですし。はっきりしているのは良いことだと思います」
きっと、リアがどうすることになろうと、王位が完全に東家に渡ることはないとわかっていたのだ。実際、リア本人も政治の実権を握る気はないようだし。
一人で考えを巡らせて納得するテオを、イオラは逃さなかった。
「あなたは、何に怯えているんですか?」
その言葉は、驚くほど切れ味が良かった。だからだろうか、痛みを感じるより先に、動揺が訪れた。
「何に、って……」
「どうして、意見を言ってくれないんですか? 私はまだ、あなたがどうしたいのか聞いていません」
イオラから、非難の意図は感じられなかった。ただ純粋に、テオの心が見たいと、そう言っているのだとわかった。
「私は——」
見せられるはずがない。
「結果的に丸く収まるのならそれでいいんです。封印する本人じゃないですし」
これは、本心だった。具体的な方法については、テオの口出すところではない。どうしたいと思うことすらない。本当に、ただ、皆の安全を願っているだけだ。
それ以外の思うところについては、テオの問題だ。誰かに伝えてどうにかなることではない。
「お気遣いありがとうございます。私のことはお気になさらず」
不服そうなイオラに微笑んでみせると、胸の奥で小さく痛みが走った。刺された言葉の鋭さが遅れて効いてきた。
この痛みもきっと、テオの中途半端な脆さのせいだ。




