第7話 温かい食事
「入れ」
ヴィルフォードの短い声を合図に、扉が開く。入ってきたのは、赤みがかった髪を短く切り揃えている若い男性だった。銀のトレイを両手に持っている。
リゼッタと目が合うと、にこりと会釈した。少し垂れた目、髪色より少しだけ薄い赤褐色の瞳。冷たい印象のヴィルフォードとは対照的な、どこか人懐っこい顔立ちだ。
「お待たせいたしました。ご指示の通り、軽めのものを」
「置いたら扉の前で待機しろ。また呼ぶ」
「かしこまりました」
男性がリゼッタたちのほうへと歩み出したと同時に、リゼッタの鼻がぴくりと動いた。男性から温かな香りが漂っている。
足音と香りが近づく。そして目の前のテーブルにトレイが置かれた瞬間、リゼッタの腹の虫が鳴いた。
「…………あっ」
静かな部屋に、それは昼を告げる鐘の音よりも盛大に響いた。
硬直するリゼッタ。湯が沸いた鍋のように、ぐらぐらと顔が熱くなっていく。恐る恐るヴィルフォードを見やると、窓の外を向いていた。口元に手を置いて、わざと顔を背けているように見える。
赤髪の男性はこちらに背を向けたまま、肩を小刻みに震わせていた。
──二人とも絶対に笑ってるじゃん……!
穴があったら入りたい、とはまさにこのことだ。
「……出て行け」
ヴィルフォードの声が何かを堪えるように、ほんのわずかだが震えていた。
「かしこまりました」
答えた顔はきりっと表情を整えたものだったが、目元だけがやさしく笑っている。リゼッタに向かってもう一度にこりと会釈して、扉を閉めた。
部屋にまた二人きり。ヴィルフォードは咳払いをひとつ落とすと、ちらりと横目でリゼッタを見た。
「食え」
「……え。これ、殿下の昼食じゃ……」
「お前のために用意したものだ」
「いい……んですか?」
視線を窓に直して、頷くだけのヴィルフォード。
リゼッタは目の前のトレイに釘付けになった。高級そうな白い器の中で湯気を立てているのは、つやりと輝く白米の粥。クラノ村では麦粥が当たり前で、白米なんて滅多に食べられなかった。
それだけで贅沢すぎるのに、隣には小皿に盛られた果物まである。鮮やかなまでの苺とオレンジ。包丁の入り方が丁寧で、花びらのような形になっていた。厨房のキースが作ったのだろうか。こんな綺麗な切り方、リゼッタには到底できやしない。
いい匂いがした。出汁の香りと、果物の甘酸っぱい香り。勝手によだれがあふれてくる。
──エマに食べさせてあげたいな。
苺を頬張るエマの顔が、ぼんやりと浮かんだ。きっと目を輝かせるだろう。「おいしい!」と言うだろう。自分も嬉しくなって、二人で笑うだろう。
リゼッタは、ぼうっとトレイの中を見つめていた。我ながら、いつまで眺めているんだと思う。でも手が伸びなかった。
「早く食え。また倒れるぞ」
「……え、あ、はい! すみません」
我に返った。ヴィルフォードがこちらを見ている。
慌てて背筋を伸ばし、居住まいを直した。
「……いただきます」
手を合わせ、匙を取る。白い粥に「ふう」と息を吹きかけると、湯気が息に合わせて匙の上で踊った。鼻先をくすぐる出汁の香りが、お腹の奥をきゅうと締めつける。
ごくりと息を呑んで、ひと口。
──ああ……。
じんわりと身体中に温かさが広がっていく。出汁がきいた、やさしい味。塩気は強すぎず、薄すぎず、胃の底までほっとする。いつも口にしている出汁がらとは、まるで違う。きちんと旨味があって、香りが鼻に抜けていく。
クラノ村の麦粥とも全然違った。でも、熱を出したときに祖母が作ってくれた粥に少し似ている気がした。
もうひと口。またひと口。最後まで、匙が止まらなかった。
果物にも手を伸ばす。飾り切りされた橙色の果物から口に入れた。みずみずしくて、甘酸っぱい果汁がじゅわっと口の中に広がる。程よい酸味に刺激されて、頬がきゅっとなった。
それから苺。噛んだ瞬間、思わず「……甘い」と声がもれる。クラノ村の野山で摘んだ野苺とは、まったくの別物だった。野苺はもっと小粒で酸味が強くて、甘みなんて酸っぱさの奥に感じられる程度。でもこれはひと粒が大きくて、舌に乗せただけで信じられないほど甘みが広がった。
気づけば、あっという間に器が空になっていた。米の一粒も残っていない。
リゼッタは手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
深々と、心から言った。
「ありがとうございます、殿下。助けていただいた上に、こんなおもてなしまでしていただき、なんとお礼を申せばいいか」
「なんだ、だいぶしおらしくなったな」
「……しおらしい?」
「ぎゃあぎゃあと騒がしいメイドだと思っていたが。食事を与えれば静かになるな」
「……そ、そんなとこは……!」
反射的に言い返しかけて、言葉に詰まる。否定できない自分がいて、苦笑いでごまかした。
ヴィルフォードはリゼッタの様子を一瞥してから、「グレン」と扉のほうへ声をかけた。扉が開く。先ほどトレイを持ってきた赤髪の男性が入ってきた。
腹が満たされたリゼッタ。今度は、まじまじとその男性を観察する。
王家の紋章が入った濃紺の騎士服。腰に剣を一本挿している。にこりとまたリゼッタに会釈をした顔つきは穏やかだったが、ヴィルフォードの傍に控える様子は使用人というより近衛のそれに近かった。
「お呼びですか、殿下」
「紅茶を」
グレンと呼ばれた男性が一拍だけ間を置いた。
「……あの紅茶で、よろしいのですか?」
「ああ」
「かしこまりました」
無駄なく敬礼をし、空になったトレイを持ち上げる。
「あの、グレンさん、ですかね。ごちそうまでした。すっごく美味しかったって厨房の方々にもよろしくお願いします」
グレンがリゼッタを見た。一瞬だけ、何かを含んだような笑みを浮かべながら。
「はい。伝えておきます」
グレンが退室し、扉が静かに閉まった。
リゼッタは彼の笑顔と、先ほどのヴィルフォードとのやり取りが少し気になった。食後の紅茶まで用意してくれるなんて、至れり尽くせりにもほどがある。それはありがたいのだけれど、「あの紅茶」とは何だろう。グレンの一瞬の間が、どうにも引っかかった。
ヴィルフォードに訊ねる間もなく、彼は組んでいた足を解いてゆっくりと上体を起こした。
「ひとつ、告げることがある」
「はい。なんでしょうか」
「早朝、お前が寝ている間に医師に診させた」
「……医師に?」
「栄養失調だ。慢性的な、な」
リゼッタは少し黙った。
「……そう、ですか」
「自覚はあったか」
「はい……まあ、なんとなく、は」
なんとなく、では済まない話だと、うっすらと勘づいてはいた。でもまさか、倒れるほどとは思っていなかった。慣れれば大丈夫だと思っていた。
けれど身体は、リゼッタが思っていた以上に限界に近かったらしい。
「あの日、『節約だ、金がいる』と言っていたな」
「……はい」
「なぜ」
鋭い視線。責めているというよりは、真実だけを求めている。この人の前で嘘をついても、いずれ暴かれてしまうのだろう。すべてを見透かすような紫色の瞳が、リゼッタを射抜くように見つめていた。
「冷酷」という噂が立つのも、なんとなくわかる気がした。見つめられるだけで、隠しごとがひとつ残らず引き出されてしまいそうな、そういう目だったから。
「妹の……エマの薬代が必要なんです」
リゼッタは昔の記憶をなぞるように口を開いた。




