第6話 見知らぬ部屋
まぶたを透かしながら差し込んでくる、木漏れ日のようなやわらかな光。水底から浮かび上がるように、リゼッタはゆっくりと目を開いた。
──ここ、どこ……?
ぼんやりと映る、見慣れない天井。宿舎よりも真っ白で、ずっと高い。身体を包む寝具は、まるで雲にでも乗っているかのようにふかふかしている。まだ昨晩の夢の続きでも見ているのだろうか。
リゼッタはまどろむ意識の中で、自分の置かれている状況をゆっくりと整理する。
昨夜、中庭に行った。野草を摘んだ。カモミールを見つけた。殿下のことを考えた。立ち上がろうとして、視界が揺れた。それから、銀髪が見えて──アメジストのよう瞳が、こちらを見下ろしていた。
「……はっ!」
そこまで思い出したリゼッタは、がばっと起き上がった。
頭がくらりと揺れる。額を押さえながら、リゼッタは目前に現れた部屋に視線を向けた。広い。普段寝泊まりしている相部屋の四倍はある。重厚で豪奢な調度、壁に掛けられた立派な絵画、床に敷かれた毛足の長い絨毯。
見たことのない部屋の佇まいに、リゼッタは呆然とした。
「起きたか」
光の差し込む窓際の方から、聞き覚えのある低い声がした。
恐る恐る顔を向けると──ソファに深く腰を落ち着かせ、足を組んだヴィルフォードの姿があった。
「……で、でで……!? どっ、ど、どう……!?」
ヴィルフォードが、どうしてここにいるのか。一気に混乱が駆け巡り、うまく言葉にできないリゼッタ。
見かねたように、ヴィルフォードが小さくため息をついた。
「お前が中庭で倒れていたから、ここまで運んだ」
「……あ、その、つまり……ここは、殿下の……」
もう一度、ため息をつく。今度は、肯定のため息だった。
ああ、やはりあの月明かりに照らされていた人物はヴィルフォードで、全部夢ではなかったようだ。じわじわと現実感が押し寄せる。それに比例するのうに、リゼッタの顔がみるみる青ざめていった。
布団を勢いよくめくったと思えば、リゼッタはすぐさまその場で正座し深く頭を下げる。
「……も、申し訳ございません!」
たかが一端の下級メイドが、第一王子の寝室の寝台で寝ていた。どうして、こんなことになったのだろうか。
いや、それよりも。こんな無礼、クビどころか懲罰を受けてもおかしくはない。王宮の地下には牢があると聞いたことがある。もしかしたら、自分は今からそこへ──。
「顔を上げろ」
「……し、しかし……!」
「上げろ」
逆らわないほうがいい。直感したリゼッタは、おずおずと顔を上げる。ヴィルフォードがこちらを見ていた。怒っているのか、怒っていないのか、相変わらず読めない顔だ。
「俺が勝手にやったことだ。咎めたりはせん」
「そう……なのですか?」
問い返したものの、返事はない。紫の瞳がじっとこちらを見ているだけだった。
気まずさに耐えきれないリゼッタは、小さく息を吸った。
「……ありがとう、ございます」
「別に、礼もいい。あのまま野垂れ死なれたほうが面倒だ」
「ですよね……」
あはは、と苦笑するリゼッタ。
王宮の、しかも普段なら立ち寄れない中庭でメイドが死んだ。原因を突き止めたり、書類の手続きをしたり、ただでさえ政務で多忙なのに、下級メイドにまで時間をかけなければならない。面倒この上ないな、とリゼッタも納得した。
だから、冷酷と言われてる第一王子が下級メイドを助ける理由なんて、「面倒ごとを避けたいから」くらいなのだ。わかっている。わかっていても、止められなかった。
「殿下って、意外と優しいんですね」
思わず口に出してから、しまったと思った。
「……意外?」
「あ、すみません! 悪気はなくて……その、『冷酷だ』、みたいな噂をよく耳にするので……!」
「冷酷、ね」
「わわ……! すみません、本当はそんな噂なんてなくて! 私の感想といいますか、あの、そういう意味では全然なくて……!」
リゼッタの必死な言い訳に、ヴィルフォードの口元がほんの少し動いた。笑った、とは少し違う。でも確かに、どこか柔らかいものが一瞬だけ表情に浮かんだ気がした。
「フォローしなくていい。知っている」
「殿下は気にならないんですか、そういう噂」
「ならん」
「どうしてですか?」
間を置かずに返ってきた答えに、リゼッタは身を乗り出す。ヴィルフォードはわずかに眉を寄せた。
「……お前、図々しいって言われないか?」
「はい、言われます」
「即答か」
ヴィルフォードから乾いたため息がもれる。
まずい、今度こそ怒らせてしまったか。リゼッタは内心で盛大に頭を抱えた。
「わ、すみません! また出すぎた真似を……!」
「いい」
「……え」
「嫌いじゃない」
それだけ言って、ヴィルフォードは窓の外に視線を向ける。
「何と言われようと俺のすることは変わらん。他人の言葉で揺らぐほど、この立場は脆くない」
リゼッタは少し黙った。
整った横顔。窓から差し込む眩しいくらいの陽光を宿した紫色の瞳が、まっすぐ遠くを見ている。かっこいい、と思った。見た目ではなく、人としての在り方だ。
王宮で働き始めてから三ヶ月ちょっと。陰口や噂に押しつぶされて辞めていったメイドを、すでに何人か見ている。そのたびに、女社会というものを実感させられた。
リゼッタだって、「雑草メイド」と呼ばれ始めた当時は、何も感じないわけではなかった。それでも揺らがずにいられるのは、やることが決まっているからだ。
家族の、エマのために働く。それだけを軸にしていれば、噂も陰口も、耳元を掠めていく風の音と同じだった。
この人も、きっとそういう軸を持っている。だから、揺らがないのだろう。
どこか遠くで、鐘の音が鳴った。
その音に引き戻されるように、リゼッタはハッとする。昼を告げる、長い鐘の音。真上から降り注がれるように部屋に差し込む日差しは、よくよく考えれば朝のそれではなかった。
──ひ、昼……!?
焦るリゼッタ。昼まで寝ていたとなれば、サボったと思われるかもしれない。減給をくらうかもしれない。
「すみません、殿下! 助けてくれて、ありがとうございました! 私、もう仕事に……」
寝台から飛び降りたものの、足元がふらついた。視界があの夜みたいに、わずかに滲む。
また倒れるわけにはいかない、と踏ん張ろうとした瞬間、腕を掴まれた。
「阿呆が」
低い声と同時に、身体が引き寄せられる。気づけばヴィルフォードの腕の中だった。
近い。昨夜の中庭でも思ったが、今はそれどころではない距離だ。胸元が、目の前にある。
「その状態で動けると思っているのか」
「す、すみません……」
反射的に謝った。足に力が入らないのは本当で、情けないことにヴィルフォードの腕にしがみつく形になってしまっている。
「少し落ち着け」
「……はい」
そのままソファへと連れていかれ、ゆっくりと座らされる。
ヴィルフォードは元いた対面にあるソファに腰掛けると、足を組み、ひとつため息をこぼした。
リゼッタも膝の上で手を握りしめ、小さく息をつく。
──落ち着け、って言われたけど……。
深呼吸をしてみる。だが何度繰り返しても、なかなか落ち着かない。
「仕事は……仕事は、どうなるんでしょう」
「手配してある」
「え」
「俺の側近がメイド長に伝達済みだ。療養を命じたと」
さらりと言われた言葉に、リゼッタは目を瞬く。
「殿下が、そう……?」
「ああ」
「……どうして、そこまで」
「倒れた者を放置する趣味はない。それに、さっきも言ったように死なれたほうが面倒だ」
そっけない言い方だった。
リゼッタは、昨夜意識を失いながら見た光景を思い出していた。月光を受けて輝く銀髪。こちらを見下ろしていたアメジストのような瞳。面倒だから助けた人の姿ではなかった、と思った。
「殿下……改めて、ありがとうございます」
「礼はいいと言った」
「いえ、ありがとうございます! 殿下は恩人ですね!」
またため息が聞こえた。呆れとも違う、どこか毒気を抜かれたようなものだった。
わずかに空気が緩んだ、その直後。コンコン、と扉が控えめに叩かれた。




