第5話 月光さす中庭
ヴィルフォードとすれ違った日から、さらに五日が経った。
野草が、底をついた。
広い庭園とはいえ、この三ヶ月あまりで食べられそうなものはほとんど摘み尽くしてしまった。春先の野草はまだ種類も少なく、芽吹いたばかりのものは小さく頼りない。夏のように次々と新しい芽が出てくるわけでもない。なりより、庭師がきちんと手入れをしている庭園だ。リゼッタが摘むより早く、雑草と見れば刈り取ってしまう。
食事は、パンと出汁がらスープだけになった。
キースが分けてくれる出汁がらは、ありがたかった。でもそれだけでは、一日中動き続ける身体には足りなかった。
実家にいた頃なら、なんてことなかったかもしれない。だが王宮での仕事量は、畑仕事や家事のそれを遥かに上回っていた。広い廊下を何往復もして、重い洗濯物を運んで、食器を洗浄したり吹き上げたりして、朝から晩まで休む間もなく動き続ける日々。
階段を上がるときに少し息が上がるようになった。朝、寝台から起き上がる瞬間にくらりとすることも、珍しいことではなくなってきた。
でもリゼッタは、「これも慣れだ」と思うことにしていた。空腹だって、幼い頃はつらくて仕方なかったけど、いつの間にか慣れた。だから身体のつらさも、いっときのもの。そのうち慣れる。慣れれば問題ないはずだ。
そう思う一方で、このままでは持たないという予感が、どこかにあった。ごまかせているうちはいい。だが王宮で働き続ける以上、身体が悲鳴を上げる前になんとかしなければいけなかった。エマの薬代を送り続けるためにも。
──やっぱり、中庭に行くしかないかなあ。
少し迷うリゼッタ。またあの人と鉢合わせるかもしれない。だけど毎晩来るわけでもないだろう。あの夜だって、たまたまだったはずだ。
それに、あの中庭の草の状態は庭園の比じゃなかった。力強くて、みずみずしくて。
──一回だけなら大丈夫だよね……!
その夜、リゼッタはまた西棟の中庭へ向かった。
.。゜:*:✼.。
夜の中庭は、あの夜と変わらず静かだった。
石塀に沿って、草が波打つように揺れている。少し欠けた月の光が降り注ぐ庭。初めてここに訪れてから八日くらいしか経っていないのに、懐かしいような気がした。
──やっぱり、いいなあ。ここ。
リゼッタは中庭をゆっくりと歩く。周囲を見渡しても、ヴィルフォードの気配はない。よかった、と安堵しながら石塀の際へ向かった。
タンポポ、ハコベ、ナズナ。ツクシに、ひょっとりと顔を覗かせているフキノトウまで見つけた。どれもがあの夜と同じように、つやつやと光っている。
「……フキノトウ、やった」
小さく弾んだ声が出た。
野草を丁寧に摘みながら、キースにどうにかしてフライにしてもらえないか思案する。フキノトウは生食には向いていない。苦味が強いし、灰汁も出る。きちんと火を通さないと、胃に障ることもある。
なにより、フライにするのが一番美味しい。さっと揚げれば、ほろ苦くて、雪解けの土の風味をかすかに感じる春の味がする。祖母がよく作ってくれたものだ。
想像するだけで頬がにやけた。
キースには火の使用を断られたが、頼み方次第ではどうにかなるかもしれない。彼にこっそり揚げてもらうとか、「余り油で試作を」とか、なにかうまい言い方があるはずだ。
──よし、明日交渉してみよう。
フキノトウを布袋に大事にしまったリゼッタは、時間も忘れて他の野草も摘んでいった。
中庭に訪れてから、しばらく。これだけあれば数日は持つだろうと、満足げに口元を緩めるリゼッタ。
さて、そろそほ部屋に戻ろう。立ち上がりかけて、ふと視線の少し向こうで咲いている白い花が目に入った。
カモミールだ。
小さな野花の存在に気づいたと同時、ヴィルフォードの顔が頭に浮かんだ。さらりと流れた銀髪、煌めく紫の瞳。彫刻のような顔に浮かんだ、わずかに困惑したような表情。それから回廊ですれ違ったときの、ふうわりと感じたカモミールの香り。
──殿下……枕元に置いてくれたのかな。
見ず知らずの下級メイドからもらった花。それも庭に生えている野花なんて、あの人なら踏み潰してもおかしくない。けれど、もし本当に渡したカモミールの香りだったなら。
そこまで思って、リゼッタはふるりと小さく首を振った。この国の第一王子で、冷酷と噂されているような人が、下級メイドの差し出した野花を律儀に枕元に置くなんて。
──まあ、私もちょっとおせっかいだったかも。
今更になって自分のした行動がおかしくなってきたリゼッタは、小さく笑った。それに夜中の中庭に忍び込んで、二度と話す機会なんてない人のことを考えている自分も、なかなかにどうかしている。
気を取り直すように、小さな花を摘むために立ち上がろうとした瞬間だった。
視界が、ぐらりと揺れた。
──あれ……?
足に力が入らない。手をついて踏ん張ろうとする腕も、糸が切れた人形のように崩れて地面に肘をついた。頭の中がぼんやりとする。石塀に囲まれているはずの中庭が、果てなき砂漠に浮かぶ蜃気楼のように、ゆらゆらと滲んで見えた。
──あ……これ、まずいかも……。
倒れる、と思ったときにはもう、冷たい夜露が頬に触れていた。
皮膚感覚はあるようだ。間違えて毒草でも食べてしまったのだろうか。それにしては、痛みも痺れも吐き気もない。静かに、燃え尽きる寸前の蝋燭のように意識が遠くなっていく。
見上げた夜空は月がいくつにも重なって、やけに明るく見えた。
──エマ……薬飲んでるかなあ。
まぶたが重くなる。いよいよ何も考えられなくなったとき。
月の雫が落ちてきた。
夢かもしれない、とリゼッタは思う。見上げた先で、長い銀髪が月の破片を散りばめたように煌めいていた。
──そんな……まさか、ね……。
リゼッタの意識は月光の中に溶けていった。




