第4話 お咎め……なし?
翌朝。
少しばかりの睡眠を取ったリゼッタは、クビの覚悟をして目を覚ました。
しかし──何もなかった。
サマンサに呼び出されることもなければ、新しい噂が立っていることもない。いつも通りの業務が始まって、いつも通りに定時の鐘が鳴る。王宮は何事もなく回っているのに、まるで解けない魔法のように昨夜のことがリゼッタの中に残っていた。
──よかった……? いや、よかったよね? うん、よかった。
釈然としないままだったが、あくびを誤魔化しながらいつも通り働いた。
リゼッタは働きながら考える。もう中庭に行くのはやめよう、と。
またあの人と鉢合わせたら、今度こそただでは済まないかもしれない。今回は運がよかっただけなのだろう。中庭の野草は惜しかったが、背に腹は代えられない。朝方の庭園に戻ることにした。
厨房のキースへの相談も、まだ実現していなかった。
「火を使わせてもらえますか」と切り出したら、キースは困った顔をした。
「気持ちはわかるんだけどさ。料理長の目もあるし、俺の一存じゃ許可できないんだよなあ。メイドに厨房の火を使わせたとなると、俺の立場が」
「あ、確かに。深く考えずに言ってました、すみません!」
「いいっていいって。出汁がらは引き続き分けてやれそうだからさ、それで勘弁してくれないか」
キースは本当に申し訳なさそうだった。リゼッタも「ありがとうございます、それだけで十分です」と笑って引いた。
出汁がらだけでも、お湯で割ればちゃんとしたスープになる。今後も分けてくれるなら、ありがたい限りだ。
リゼッタの食事は質素を通り越していた。もはや、粗末と言っていいだろう。
王宮に仕える者たちには、食堂で食事を安く買える制度がある。銅貨を数十枚出せば、ちゃんとした食事が取れる仕組みだ。他のメイドたちも、当たり前のように使っていた。
リゼッタが買うのは、銅貨二枚で買える最安値のパン一枚だけ。それと、キースから分けてもらう出汁がらのスープ。それから野草。それが彼女の一日の食事だった。
クラノ村にいた頃は、野草と麦粥だった。運よく卵や肉が入っても、リゼッタはそのほとんどを妹に分けていた。それが日常だった。
実家にいたときと比べたら、今はスープがある。焼きたての美味しいパンが買える。それだけで十分豪華な食事だと、リゼッタは本気で思っていた。
だが、食堂で他のメイドたちが手にしている膳と、自分が持っているパン一枚だけを見比べると、その差は一目瞭然だった。ほのかに湯気立つ温かいシチューや香ばしく焼かれた肉や魚、艶やかな野菜のソテーと厚切りのパン。色とりどりの食事が、テーブルの上に並んでいる。
その匂いが鼻を掠めるたびに、腹の虫が鳴いた。
クラノ村にいた頃には働かなかった視覚と嗅覚。あの頃は、そこにあるものを食べてきた。美味しいものへの「憧れ」はあったが、実際に目にしたことのないものを「羨む」という発想はなかった。
けれど、今は違う。手を伸ばせば届く場所に、銅貨を積めば手に入る場所に、未知の美味しいものがある。それをわかった上で、リゼッタはパン一枚だけを買う。
ある意味、彼女にとってはこの光景こそが毒だった。野草に潜む毒なら見分けることができる。摘まなければいい。口に入れなければいい。仮に毒だとしても、長年野草を食べ続けてきた身体には多少の耐性がある。どう処置すればいいかの知識も、経験もある。
でも、この毒はそうはいかなかった。食堂に来るたびに否応なく鼻から入り、目に飛び込んでくる。避けようがない。草花の知識は「食欲」という毒には、まったく役に立たなかったのだ。
──いつか絶対に、家族みんなであんな食事をするんだから。
テーブルいっぱいに温かい料理を並べて、みんなでお腹いっぱいなるまで食べる。そういう日が、きっとくる。いや、くるに決まっている。実現させるために、ここにいるのだから。
よし、と小さく息をついて、リゼッタは食堂を出た。
銅貨ニ枚のパンと出汁がらスープを手にした彼女が向かったのは庭園の隅、奥まった場所にある小さなベンチだった。リゼッタのお気に入りの場所だ。人の気配がないそこは日当たりがよくて、心地いい風が通り抜けていく。その風と一緒に、食堂の香りがうっすら流れてくる場所だった。
リゼッタはベンチに腰を下ろして、パンをひとかじりする。鼻先をくすぐるシチューの匂い。肉の脂が弾けているような香ばしい香り。実際の味なんてわからないが、目を閉じれば、なんとなくそれらと一緒に食べている気分になれた。
──香りはタダだもんね。
リゼッタはパンと野草を噛みながら空を見上げた。本格的な春の訪れを感じる、真っ青な空だ。綿菓子みたいにふわりと浮かんでいる雲が、やさしく風に乗っている。穏やかな空を見つめながらの昼食は、決して悪いものではなかった。
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あの初対面の夜から三日後。
東棟の廊下を掃除していたリゼッタの前を、人影が通り過ぎた。
一つに結われた長い銀髪。書類を片手に、紫の瞳はまっすぐ前だけを見て歩いている。
──殿下だ……!
リゼッタは他のメイドと同じように廊下の端に身を寄せ、深く頭を下げた。うやうやしくしている裏で、心臓はばくばくと跳ねていた。あの日のことについて、何か言われるかもしれない。ついにクビを宣告されるかもしれない。
近づく足音。目の前を横切る寸前、リゼッタはちらりと目線を上げた。
──あ……。
ほんの一瞬だけ、目が合った。
リゼッタの顔を確かめ、捉えたような眼差し。その鋭さに、ぎくりとリゼッタの肩が上がる。でも、それだけだった。彼は何も言わず、足も止めずにそのまま通り過ぎていく。
──ん……?
すれ違いざまに、ふわりと香りがした。甘くて、少し青い。どこかで嗅いだことのある香り。
──これ、カモミールだよね。
リゼッタは顔を上げる。回廊の先を歩いていく背筋の伸びた後ろ姿が、角を曲がって消えた。
──いやいや、まさかね。
首を振って、掃除の続きに戻る。
この後のことは、リゼッタ本人も無意識だったはずだ。手を動かしながら、もう一度だけ。リゼッタはヴィルフォードの消えた廊下の角を見つめていた。




