第3話 最悪の出会い
長い銀髪が、夜風に乗ってなめらかに揺れる。切れ長な目の奥にある紫の瞳は、まっすぐにリゼッタを見下ろしていた。背は高く、立っているだけで場の空気を支配してしまいそうな、強く凛とした佇まいだった。
雲が晴れ、一筋の月明かりが差し込んだ。絹のような銀の長髪が、野草に触れた露のように細かく光を弾く。瞳はアメジストを思わせるほど妖しく澄んでいた。
──あれ……この人、どこかで……。
記憶を辿ってすぐ、リゼッタは思い出す。着任してから三日後の、業務中のメイドたちが廊下の端に身を寄せて、深々と頭を下げていた光景だ。
メイドたちの前を、一つに結った銀髪をなびかせながら歩いていた男。田舎では見たことのない、硝子細工のように整った端正な顔立ち。感心するように眺めていると、そばにいたメイドに「ほら、あなたも頭を下げなさい」と肘でつつかれ慌てて頭を下げた。
あのとき、風のように目の前を通り過ぎた男が──今、真夜中の中庭で自分を見下ろしていた。
第一王子、ヴィルフォード・カーティス殿下。
じわじわと顔から血の気が引いていくのがわかった。
「でっ、で、でで……!?」
声が震えた。
「殿っ……」
「そうだ」
「ヴィ……殿下……!?」
「俺だ」
リゼッタの思考が止まる。
王宮に来てから三ヶ月。廊下の端で一度だけ見た、あの人が。こんな真夜中の中庭に、なぜ、どうして──と、一気に駆け巡った疑問が思考回路をショートさせたのだった。
「何をしている?」
「……あ、いえ、その、殿下こそ……」
「聞いているのは俺だ」
冷たく、棘のある言い方。彼が冷酷と噂されているのは、あながち間違いてはないのかもしれない。
リゼッタの目が泳いだ。こんな時間に、下級メイドが一人で、王族専用区画に近い中庭にいる。怪しいこと、この上ない。言い訳を考えた。考えたが、何も出てこなかった。
──ええい、もう。嘘なんかついてもしょうがない!
リゼッタは「えへへ」と笑って、布袋を身体の前で持ち直した。
「野草、です」
「知っている。見ていた」
リゼッタは少しだけ安堵する。見られていたのなら下手に言い訳しなくて正解だった。
「野草が、たくさん生えてまして……」
「そういうことを聞いているんじゃない」
やはり、どこか棘のある口調。十七年生きてきて、これほどまでの威圧感を覚えた人は初めてだ。
「なぜ食べている」
怪訝そうな顔をしている。
リゼッタの頭にまず浮かんだのは、「毒がない」という事実だった。食べているところを見られた以上、一番懸念されるのはそこだろう、とリゼッタは咄嗟に判断したのだ。夜中の中庭でこそこそと草を口に入れている人間なんて、ほぼ確実に正気を疑われる。
違います、食べられます、無害です。それを先に言わなければ。
「あ、えと、この野草には毒がないんです。毒のあるものと、ないものの違いはわかるので。あ、これは祖母から教わりまして、私、小さいときから……」
「だから、そうじゃない」
「……では何の話を?」
「なぜ王宮で働くメイドが、夜中に草を食べているのかと聞いている」
ああ、そっちか。と、リゼッタは肩の力をわずかに抜く。
なぜ、と聞かれれば。飢えを凌ぐため、家族のため、妹のため──そこに嘘なんてない。自分のしている行動に、後ろめたいものもない。
リゼッタは、まっすぐにヴィルフォードの顔を見上げた。
「節約です。私、お金がいるので」
きっぱりと言い切った。
殿下が何か言いかけて、やめた。品定めするような沈黙が一瞬流れる。それから、小さくため息をついた。
──あれ、怒らせた……!?
これはまずいと、リゼッタは反射的にぺこりと頭を下げる。
「わわ、すみません。殿下に生意気な態度を……!」
「別に、いい。そういうのじゃない」
首を傾げるリゼッタ。
怒っているわけではないらしい。では、ため息は何だったのか。目の前にいる彫刻のように美しい男性の感情が、リゼッタにはよくわからなかった。表情が動かない。声に抑揚がない。怒っているのか、呆れているのか、それともまったく別の何かなのか。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
──目の下のクマ、ひどいなあ。
月明かりの中でも、はっきりわかるほど深く刻まれている。こんな夜中まで起きているなんて、今まで仕事をしていたのだろうか。それとも眠れていないのか、眠る時間がないのか。なんにせよ、クマは普通ではなかった。
──それなら。
リゼッタは布袋に手を忍ばせた。さっき摘んだばかりの、蕾を開かせたばかりのカモミール。月光に照らされて、白い花びらが柔らかく光っている。
「あの……」
「なんだ」
その花をヴィルフォードへと差し出した。
「殿下も、食べてみます?」
リゼッタは無垢なまでの厚意を表すような笑顔で告げた。
すると、ヴィルフォードが目を見開いたまま固まった。返す言葉が見つからないというように、かすかに口を開いて、閉じる。
「……殿下?」
リゼッタは不安げに問いかけた。彼の紫い瞳がハッとカモミールに移り、それからまたリゼッタの顔を見やる。ヴィルフォードからため息がもれた。今のは、はっきりと呆れたものだとわかった。
「お前……俺の身分を知っていて、なお草を食えと?」
しまった、と焦るリゼッタ。
「す、すみません! 私はいつも食べちゃってたので、つい……!」
王子に草を勧めた。しかも「食べてみます?」と満面の笑みで。自分の迂闊さに頭を抱えたくなる。
でも謝り倒すのも違う気がしたリゼッタは、もじもじしながら言葉を続けた。
「もちろん食べなくても大丈夫です。ただ、その……」
「なんだ」
「目の下のクマがすごくて。眠れていないのかなって思いまして」
ヴィルフォードの眉が、かすかに動く。紫の瞳の輝きが強まったように見えた。
これ以上は本格的にまずいかもしれない──リゼッタはそう直感した。
「これ、カモミールなんです。リラックス効果があるんですけど。薄い布に包んで枕元に置いておくだけでも、だいぶ違いますよ」
勢いのまま続けるリゼッタ。
「私はもう香りだけじゃ効かなくなっちゃって。まあ、美味しいからっていうのもあって食べちゃうんですけど……あ、その、だから殿下は香りだけで大丈夫だと思います」
ヴィルフォードが何か言いかけた。しかし、リゼッタはもう止まれない。というよりも、彼が何かを言う隙を与えないようだった。
「いらなければ処分を……するのは勿体無いので、今日だけでも枕元に置いてみてください」
半ば押し付けるように白い花をヴィルフォードの手に乗せて、リゼッタは一歩後ずさる。
「夜分に失礼いたしました。お休みなさいませ、殿下」
深々と頭を下げて、彼の返事を聞く前に足早に中庭を離れた。
東棟の渡り廊下に入って、ようやく息をつくリゼッタ。少しだけ頭が冷静になっていた。
──これは……明日クビになってもおかしくないよなあ。
勝手に中庭に入ったこと。それ以上に、殿下への失礼な態度。クビになっても文句は言えないだろう。そうなったら、また違う仕事を探さなければ。
気が重いはずなのに、不思議とどうしてか足取りは軽かった。
戻ってきた宿舎も、そろりと入った相部屋の中も静かだった。ナンシーは変わらず寝息を立てている。
リゼッタは手早く寝巻きに着替え、髪を解きながら寝台に腰を下ろした。布袋の中に残ったカモミールを一本取り出す。
指先で花びらを撫でると、ふわりと甘い香りが広がった。
──殿下、枕元に置いてくれるかな。
期待してみたけれど、たぶん置かないだろう。根拠はないが、そういう人のような気がした。
リゼッタは花の香りを確かめて、口に入れた。実ったばかりの果実のように、ほんのり青い味。でも、いつもより少しだけ密の味が濃かった。
寝台に横になって、目を閉じる。
今夜はいろんなことがあった。封筒が少し厚かったこと。中庭を見つけたこと。草の状態が良かったこと。それから──。
──なんか変な人だったなあ、殿下。
噂で聞くよりも怖くない人なのかもしれない。その場でクビを宣告されても、厳しく咎められても、なんら不思議ではなかったのだから。
そんなことを思っているうちに、目が重くなってきた。
眠れない夜のはずだったのに、リゼッタはいつの間にか穏やかな眠りの中に落ちていた。




