第2話 禁足地の中庭で
月末になると、リゼッタは封筒を一枚用意する。
今月の給金から、生活費を引く。といっても、引くものはほとんどない。最低限の食費と、消耗品代。娯楽費はゼロに等しい。
残った金を全部、用意した封筒に入れる。
今月は先月より少し多く入れられた。厨房のキースがこっそり出汁がらを分けてくれる日が増え、出費が減ったおかげである。
封筒を閉じる前に、手紙を折り畳んで一緒に入れた。
妹──エマへの手紙だ。
これで三度目の手紙。近況を書いて、王宮で見た面白いこと、元気でやっていることなどをしたためる。心配させないように、でも嘘はつかないように。
ホームシックはなかったが、手紙を書いているときだけは故郷に思いを馳せた。
今月は「誰かがごちゃごちゃに混ぜたリネンが雪崩のように落ちてきて大変だった話」と「庭師のウィリアムさんが近所のおじさんに似ている話」を書いた。
草を食べていることを書いたことはない。エマが心配するから──ではなく、書くほどのことでもないから、だった。
封筒を閉じたとき、「リゼッタ、まだ寝ないの?」と、すでに身体を寝台に沈めているナンシーから眠たそうな声が聞こえた。
「あ、ごめんごめん。もう寝る、電気消すね」
「おやすみ、リゼッタ」
「うん、おやすみ」
暗くなった部屋。すぐにナンシーの細い寝息が耳に届く。ナンシーはリゼッタと同期の新米メイドだ。まだ慣れきっていない環境で、ヘトヘトに疲れ切っているのだろう。
──エマ、ちゃんと薬飲んでるかな。
月明かりの差し込む天井を眺めながら、一日に一度だけ思う。それから眠る。
それがリゼッタの夜の習慣だった。
が。この日は、眠れなかった。何度まぶたを閉じても、口の端が緩むたびに目が開く。
理由は単純。今月の封筒が、いつもより少し厚かったからだ。
食費がいつもよりかからなかった。銀貨が二枚多い。たった二枚。それでもエマの薬代に換算すれば、一週間分ほどにはなる。嬉しくて、眠れなかった。
寝台の中で、じっとしていられない。かといって、嬉しさに身を悶えればナンシーを起こしてしまう。
リゼッタは素早く静かに寝巻きからメイド服に着替え、そっと部屋を抜け出した。
廊下に出ると、冷たい風が頬を撫でた。夜の王宮は昼間と別の顔をしている。足音が遠くまで反響し、フクロウの鳴き声が聞こえて、なんだか違う場所みたいだ。
リゼッタは特に目的もなく、ふらふらと歩く。眠れない夜に外を歩くのは、クラノ村にいた頃からの癖だった。
星空を見上げ、夜風に吹かれながらぼんやりと歩いていると、いつの間にか見慣れない回廊に出ていた。
──あれ、こっちって確か……。
メインの庭園とは違う方角。仕事とは違う空気と気持ちでふらふらと歩いているうちに、どうやらあまり業務では立ち入らない場所に出てしまったらしい。
広い回廊を歩き続けた先。
「……あ」
思わず声が出た。
中庭だった。庭園とは全然違う。手入れされた花壇も、整然と並べられた木々も、美しく刈り込まれた生垣も、庭の顔を象徴する立派なガゼボもない。
でも、広い。石塀に囲まれた、誰も管理していない空き地のような場所。月明かりが降り注いで、風が吹くたびに草がざわざわと揺れている。
リゼッタは目を丸くしながら、じわじわと口角を上げた。
「庭園より……全然いい!」
小走りで中庭へ踏み込んだ。しゃがみこんで、手のひらで草を撫でる。風に煽られる髪が顔にかかるのが邪魔で、さっと三つ編みにまとめた。
立派なナズナが群生している。ツクシも顔を出している。石塀の際まで、草花が月明かりに艶めくように輝いていた。庭師の手が入っていないようで、どれも伸び伸びと育っている。
「なんで今まで来なかったんだろう……!」
いや、「来なかった」というよりも「近寄れなかった」と言ったほうが正しいだろう。
この中庭がある西棟は、王族専用区画に近い。下級メイドの担当は東棟や厨房棟周りなどに限られていて、西棟に足を踏み入れる機会など、ほとんどない。用もなくうろついていれば、上級メイドに咎められるのが目に見えていた。
夜だから来られた。眠れなかったから、ふらふら歩いていたから、頭から仕事という文字が切り取られていたから。そういう偶然が重ならなければ、王宮を去る日まで知らないままだったかもしれない。
リゼッタはもう一度、辺りを見回した。夜風に吹かれた草たちが、さざなみのように揺れている。
──こんな場所があったなんて……!
嬉しくて、眠れない理由がまたひとつ増えてしまった。
リゼッタはしゃがみこんだまま、どこから摘もうかと目を輝かせる。目をつけたのは石塀の隅のほう。一際、夜露の煌めきが強く見えた。
月明かりに透かして葉の状態を確認する。虫食いなし、色も鮮やか、茎もしっかりしている。
一本摘んで、口に入れた。
「……わあ。味も、庭園以上」
リゼッタから笑みと小声がもれる。
苦みが少なくて、みずみずしい。庭園で摘むものより、ずっと状態がいい。誰にも手をつけられていない土で、伸び伸びと育った草ならではの力強さを感じる。
もう一本摘んで、また口に入れた。
「うん、いける」
リゼッタは草に向かって小さく手を合わせた。いただきます、の気持ちを込める。家族から「食べ物には感謝しなさい」と言われて育った。草だって同じだ。
──さて、どこから摘もうかなあ。
ナズナの群生を起点に辺りを見回す。月明かりだけでも、食べられるものとそうでないものの区別はつく。伊達に野草を食べてきていない。
ひとつひとつ確認しながら丁寧に手折り、布袋に入れていく。没頭すると時間を忘れた。クラノ村で野山を歩いていた頃から、ずっとそうだ。
草を摘んでいる間は楽しかった。どの草が食べられるか、どれが一番状態がいいか、今夜は何を作ろうか。万が一、毒だったらどうしようか。考えることが尽きなくて、気づいたら時間を忘れている。
目星をつけたリゼッタは鼻歌でも歌い出しそうな気分で、丁寧に草を摘み始めた。
布袋がだいぶ膨らんできた頃。リゼッタは布袋を目の前に掲げ、満足げに口元を緩める。
──これだけあれば、しばらく持ちそう。
生食でもいけるが、調理したほうが美味しいのは間違いない。厨房のキースに頼めば火を使わせてもらえるだろうか。最近だいぶ打ち解けてきたし、もしかしたら出汁がら以外のものも分けてもらえるかもしれない。そうなればさらに食費が浮くし、今夜摘んだ分でかなりいいものが作れる。
献立を考えながら、リゼッタは布袋の口を縛っていく。
──さて、部屋に戻ろう。
きゅっと紐を結びきった、その瞬間だった。
「何をしている」
突如、背後から降り注がれた声。心臓が大きく跳ねる。そのまま口から飛び出しそうになったが、辛うじて胸の中に留まった。その代わりというように、持っていた布袋を取り落とす。「あわわ」と拾い上げると、リゼッタはそれを隠すようにしながら恐る恐る振り返った。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
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