第1話 雑草メイド
王宮の朝は早い。
陽が昂りきるより前に、リゼッタ・アレシュタインは目を覚ましていた。
まだ薄暗いメイドの宿舎。音を立てないように寝台から抜け出し、制服に着替え、手際よく亜麻色の髪を三つ編みにしていく。
隣の寝台では、ナンシーがまだ寝息を立てていた。起こさないよう足音を殺して、リゼッタは静かに部屋の扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、靴の裏からでも石の床の冷たさがひやりと伝わってきた。春先とはいえ太陽の光が覗いたくらいでは、石造りの建物はまだまだ暖まりきらない。
宿舎は王宮の東棟と渡り廊下で繋がっている建物だ。およそ二十人ほどのメイドが、そこで寝泊まりしている。上級メイドになればなるほど与えられる部屋は広くなり、調度品も高価になるのだとか。
リゼッタに与えられたのは、廊下の一番奥にある相部屋だった。窓が一枚、寝台が二つ、小さな棚が一つ。それだけの部屋だったが、不満に感じたことは一度もない。雨漏りのしない屋根があって、足のついた寝台がある。リゼッタにとっては、十分快適な空間だった。
朝の凛と澄み切った空気に包まれた王宮は、時間が止まっているかのように静まっている。人の気配がない王宮。今だけは、この王宮を独り占めしていると、そんな心地になるほどだ。
リゼッタは、どのメイドよりも早く起きていた。王宮の朝──というよりは、リゼッタ・アレシュタインの朝だけが特別早かった。
リゼッタが王宮で働きだしてから、三ヶ月が経つ。
最初の一週間は、広さに圧倒された。故郷のクラノ村にあった一番大きな家がすっぽり入ってしまうくらい、庭園のほうが広かった。
庭園でそれなのだから、王宮全体の規模たるや。勤務初日に説明を受けながら、「これを毎日掃除するのかあ」と少しだけ遠い目になったことを覚えている。
一週間で王宮の全体像を頭に入れたあとは、上級メイドたちの動き方を観察した。誰の動きが一番無駄がなくて、誰が何を仕切っていて、誰に話を通せばスムーズになるのか。
人間関係や組織の体制におおよその目処がついた頃、三週目からは仕事の流れが身体に入ってきた。今はもう、迷わない。
清掃の担当区画、リネンの補充のタイミング、一つの作業にかける時間。仕事のリズムをリゼッタはこの三ヶ月でだいたい把握した。
把握した上で、彼女は毎朝少し早く起きる。
この日もリゼッタは庭園の隅のほうに向かい、地面を確認していた。
「あったー!」
視線の先には、タンポポ、ハコベ、ナズナ。夜露に濡れた葉が朝の淡い光を受けて、つやりと輝いている。
リゼッタは葉の状態をひとつひとつ確かめながら、丁寧に摘んだ。若くて柔らかいもの、虫食いのないもの、色の鮮やかなもの。
「うん、すっごくいい感じ!」
春先に芽吹く草花には生命力がある。「冬を生き延びた草は人間と同じで強いんだよ」と、よく祖母が言っていたものだ。
特に瑞々しいナズナを手折ると、ぱくりと口に放り込むリゼッタ。
「やっぱり季節ものは美味しいなあ」
ひとり満足げに呟いた。これが日課になって、二ヶ月になる。
次第に陽が昇りだした。ゆっくりと幕が上がるように庭が目覚めだす。王宮のほうからも、かすかな足音が響き始めた。
「……よしっ! 今日も頑張ろう!」
リゼッタは立ち上がり、持ち場についた。
下級メイドの仕事は体力勝負だ。
廊下の清掃、寝具などの洗濯、上級メイドの補助、食器の洗浄、窓拭き、ゴミ出し。朝から晩まで動き続ける仕事で、慣れるまでは全身が悲鳴を上げた。
それも二週間もすれば身体に馴染んだ。田舎で畑仕事と家事をやり続けてきたおかげもあるが、リゼッタは自分なりに効率の良い方法を編み出していたからだ。
問題は体力ではなかった。
「リゼッタ。この窓、まだ拭き残しがあるじゃない」
「はい! すみません、すぐやります!」
「返事だけはいいのよね、あなた」
上級メイドのサマンサが、ため息をつきながら窓枠の端を指差した。目を凝らしてみれば、確かに隅に水跡が残っている。リゼッタは素直に「わ、失礼しました!」と言って拭き直した。
サマンサは意地悪な人間というわけではない。仕事に関しては、自分にも他人にも厳しい人なのだ。だが仕事が出来る分、他社への要求水準が高かった。教育や今後のためを思ってだろうが、新人には特に容赦がない。
そしてリゼッタへの当たりが少し強いのは、たぶん別の理由もあった。
雑草メイド、という話が広まったせいだ。
発端は働き始めてから一ヶ月が経った頃。昼休み、白昼堂々と草を摘んで食べているところを、ついに同僚に見つけられる。翌日にはもう、その話が広まっていた。
最初は「変な新人がいる」という笑い話だったのが、「王宮に生えてる草を食べるメイドがいる」という噂になり、気づいたら「雑草メイド」という呼び名がついていた。
当然、本人の耳にも届いた。
「ねえ、聞いた? 今日も草摘んでたって」
「信じられない。羞恥心とかないのかしら」
「なんか変な子だよね。仕事はするけど」
なんて会話が聞こえてくるのも、今に始まったことではない。陰口なんて、大抵の人間が聞こえていないふりをするか、気にしないふりをするだろう。
しかしリゼッタは、どちらでもなかった。
「あの、それ私の話ですよね」
振り返った三人が固まった。
「私、昔から野草とか野花を食べて育ったきたんで、恥ずかしいとかそういうのは全然ないですよ。それに、庭園は手入れが徹底されてるから冬なのに状態がよくて。もしかしたら市場で買う野菜より新鮮な……」
「い、いえ、そういうことじゃなくて」
「あれ、何か違いました?」
「……もういいわ」
三人がひそひそと何か言いながら去っていった。
──うーん……。やっぱり、堂々と草を食べるのはよくないみたい。
リゼッタはしばらく考えて、すっぱりと日中の野草摘みをやめた。ただし日中だけ、という条件つきで。
翌日から、誰もいない夜明け前の時間帯に切り替えた。問題があるなら、問題にならない方法を取ればいい。それだけのことだ。
思考と行動の切り替えの速さは、自分でも認める数少ない長所のひとつだった。実際、面接のときもリゼッタはそう説いていた。
そしてもうひとつ、王宮のメイドとして誇れることがある。
仕事が誰より早い、ということだ。
朝の清掃は担当場所を一番乗りで終わらせる。洗濯物を運ぶ動線を考え直して、余計な往復を減らした。食器は洗う順番を工夫して、乾燥待ちの時間に別の作業を挟む。上級メイドの補助に入るときは、動きを盗みながら次に何を頼まれるか先読みして動く。
メイドに着任してから二ヶ月後。サマンサに呼ばれた。
「リゼッタ。あなた、仕事の段取りを変えたでしょ」
「はい。効率が上がると思って」
「それ、誰かに許可を取った?」
「……取っていませんでしたあ! すみません」
「次からは確認を取るように。まあ、段取りの変更は認めましょう。結果が出ているから」
サマンサは、それだけ言って行ってしまった。
──これは……褒められた、のかな。
リゼッタはそう解釈する。言葉は短く感情が入っていないが、サマンサの言っていることは正確だと三ヶ月でわかってきた。信用できる人だ。
そういうことが、少しずつ積み重なっていた。
雑草メイドと呼ばれても、仕事では文句を言われなくなってきた。他の上級メイドからも、厨房のキースからも、庭師のウィリアムからも、「リゼッタに頼むと早い」という評価が、少しずつ広まってきている気配があった。
もっとも、当の本人はそんなこと露知らずだったが。
リゼッタがこうまでして働くのは、名誉のためではない。お金のためだ。メイドとしての位が上がれば、賃金だって上がる。リゼッタはそのためだけに日々奮闘していた。
あとは単純に、性に合っていた。針子のようにじっと座って細かい作業をする仕事より、朝から晩まで王宮中を駆け回っているメイドがのほうが、リゼッタにはずっと肌に合っていたのだ。




