第0話 殿下とメイド
ヴィルフォード・カーティスは一人、月光が落ちる王宮の回廊を歩いていた。
足は中庭へと向かっている。眠れない夜に星空を眺めに行くのは、ヴィルフォードには珍しくないことだった。
一昨日から続く審議会が終わったのは日暮れ過ぎ。それからも山積みの書類と向き合い続けたが、回りっぱなしだった頭は休息を拒むようにすっかり冴えきっている。
だが、こうして歩いている間だけは、頭の中が少し静かになる気がした。
広い回廊を抜けて、中庭のほうへ出る。夜の空気は冷たく、雲がうっすらと満ちた月を隠していた。
昼間は貴族や侍従やメイドたちが行き交う王宮も、夜中になれば誰もいない。賑やかな人の声も、駆け回る足音も、笑みの下に潜ませた思惑も、何もない。ヴィルフォードが唯一、素直に好きだと思える時間だった。
中庭は、大理石で作られた立派なガゼボがあり、四季折々の花を咲かせるメインの庭園とは様相が違う。石塀に沿って草が伸び放題になっていて、庭師も数ヶ月に一度しか手をつけていない場所だ。
別に目当てがあったわけではない。王宮の窓から見下ろせる庭園よりも、裏手にある中庭のほうが人に見つからないだろうと、ヴィルフォードはそう考えていた。
中庭に着いた瞬間、彼の足が止まった。
夜更けの中庭──誰もいないであろう時間と場所に、人影があったのだ。
──誰だ。
ヴィルフォードは目を凝らした。石塀の際に人がしゃがみこんでいる。小柄な影だ。メイドの格好をしている。夜中のこの時間に、こんな場所で。
不審者かとも思ったが、それとは違った意味で様子がおかしい。怪しそうに周囲を伺うでも、何かを探しているわけでもなく、頭を下げてじっと地面を見ている。手を伸ばして、草を一本摘んだ。月明かりに透かして、葉の状態を確認するように見ている。
それをなんの躊躇いもなく口に入れた。
──草を……食べた。
ヴィルフォードは自分の目を疑った。
メイドは草を噛みながら、小声で何か言っている。聞き取れない。もう一本摘んだ。また口に入れた。頷いて、今度は「うん、いける」という声が聞こえた。
感謝するように草に向けて手を合わせ、彼女は辺りの草を摘み始める。
ヴィルフォードは自分の中に、今まで感じたことのない種類の困惑が生まれるのを感じた。純粋にこのメイドの行動と、この状況をどう処理すればいいかわからない、という困惑だった。
「何をしている」
気づいたら、声をかけていた。
びくりと肩を震わせながらメイドが飛び上がる。文字通り、その場でぴょん、と。亜麻色の三つ編みが二つ、縄のようにしなった。
立ち上がった拍子に、彼女は持っていた布袋を落とす。「あわわ」と即座に拾い上げると、メイドは布袋を背に隠しながら恐る恐るヴィルフォードへと振り返った。
見開かれた色素の薄い茶色い瞳に月明かりが混じる。雲が晴れ、光に照らされた彼女の顔から徐々に血の気が引いていくのがわかった。
「でっ、で、でで……!?」
声が震えている。
「殿っ……」
「そうだ」
「ヴィ……殿下……!?」
「俺だ」
メイドが固まった。
「何をしている?」
「……あ、いえ、その、殿下こそ……」
「聞いているのは俺だ」
目が泳ぎだす。言い訳を考えている顔だ。
やがて彼女はへらっと笑い、布袋を身体の前で持ち直した。
「野草、です」
「知っている。見ていた」
「野草が、たくさん生えてまして……」
「そういうことを聞いているんじゃない」
メイドが「うっ」という顔をした。
ヴィルフォードは改めてメイドを見やる。まだ年若い。成人前──十六か七、そのくらいだろう。
顔周りの亜麻色の髪が、淡い月光を受けながら夜風になびく。茶色の瞳は完全に動揺しているが、それでもどこか揺るぎないものを感じさせる目だった。
「なぜ食べている」
率直に聞く。まどろっこしいのは時間の無駄だ。
「あ、えと、この野草には毒がないんです。毒のあるものと、ないものの違いはわかるので。あ、これは祖母から教わりまして、私、小さいときから……」
「だから、そうじゃない」
「……では何の話を?」
「なぜ王宮で働くメイドが、夜中に草を食べているのかと聞いている」
メイドは少し押し黙った。言い訳を考えているのではなく、本当のことを言うかどうか迷っている、という沈黙だ。
察するに、このメイドは嘘をつくことに慣れていない。歳が若いから、ではない。若くても嘘をつき、本音を隠し、顔色だけを読む人間を立場上ごまんと見てきた。彼女の仕草は、それらとは違う。
覚悟を決めたようにこちらを見上げた瞳は、星屑を散りばめたように煌めいていた。
「節約です。私、お金がいるので」
きっぱりと言い切った。
「なぜ」と訊ねかけて、やめた。いちメイドの金の使い道など、わざわざ聞く必要もない。この年頃の娘が金を欲しがる理由など、身の丈に合わない装飾品か、周りが見えなくなるほど熱中している男か、故郷への派手な土産か。どうせ、そういったものに決まっている。
少しでも興味を沸かせてしまった自分にため息が出た。
「わわ、すみません。殿下に生意気な態度を……!」
「別に、いい。そういうのじゃない」
メイドが少しうつむいた。もじもじと何かを言いかけて、止めて、また言いかけた。
「あの……」
「なんだ」
布袋に手を忍ばせ一本の野草を取り出すや否や、ヴィルフォードへと差し出す。
「殿下も、食べてみます?」
屈託のない、無垢な笑み。
──なんなんだ、このメイドは。
どんな相手であれ一言で黙らせる、王宮でも冷静冷徹で通っているヴィルフォード。
そんな彼が返す言葉を失ったのは、二十三年生きてきて初めてのことだった。




