第36話 思わぬ報酬
八月も下旬にさしかかった。暦の上ではもうすぐ秋だというのに、王宮を包む熱気はまだ引きそうにない。
けれど庭園では、キンミズヒキやコルチカムといった秋の野草たちが、少しずつ花を咲かせ始めていた。照りつける日差しの中に感じる、土の匂いがひっそりと変わっていうくような季節の境目。変わらない日々だれけど、どうやら秋はちゃんと近づいてきているらしい。
今日もリゼッタは、朝から晩まで王宮を走り回っていた。山のような洗濯物を抱え、積み上がった食器を洗い、数えきれない衣服にアイロンをかける。
毒見役として毒を見抜いたからといって、王宮でのリゼッタの扱いが変わるわけではない。「やっぱり効率の悪い服だな」なんて、ちょっとした不満を抱きながらメイド服の袖で額の汗を拭っていた。
だけど、周りの目が少しだけ変わった気がする。「雑草メイド」と呼ばれていたときとは違う。面白半分に眺めるような視線ではなく、どことなく感心を含んだ目みたいな。うまく言葉にはできないけれど。
何があったのかは、誰も聞かない。そもそもでリゼッタが夜会に同行したこと自体、関係者以外には伏せられている。
けれどここ最近、夜会に向けて西棟へ向かう回数が目に見えて増えていたため、メイドたちも「何かあるのだろう」くらいは察しているようだった。
しかし、踏み込んでくる者はいない。“王宮”という世界では、知らないふりをするのが一番賢い選択肢なのだ。ましてやそれが、王族に関わることなら尚更。
それに、もし聞かれたとしてもリゼッタは答えないだろう。
ヴィルフォードと口外しないと約束しているわけではないが、そういうものだとリゼッタもわかっていた。あの夜会は、自分の中だけにしまっておくものだ、と。
ナンシーからは「顔つきが変わった」と言われた。「いつもと変わらないよ」と返したリゼッタだったが、強いて理由を上げるならば──パトリシアに淑女としての振る舞いを散々叩き込まれたからだろう、と本人は思っている。
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「よろしくお願いします」
窓口に手紙を託す。この日、非番だったリゼッタは王都の郵便所を訪れていた。
実家へ手紙を送るのは、これで八回目。
封筒の中身は、回数を重ねるごとに重くなっていった。手紙の量が増えたこともあるが、同封している硬貨の枚数が多くなったからだ。
食費がまったくかからなくなった今、毒見役に任命される前と比べて銀貨一枚ほど多く仕送りできるようになっていた。借金もなくなったことだし、このまま順調にいけば、想定よりも早く腕のいい医師を呼べるかもしれない。
──エマ、もうすぐだからね。
郵便所を出ると、八月の日差しが容赦なく降り注いだ。少し遠くからは、種を実らせ始めたヒマワリの香り。リゼッタは目を細めながら、青い空を見上げた。
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「ごちそうさまでした」
夜の毒見を終えたリゼッタは手を合わせ、食後の甘味に手を伸ばした。
今日の甘味は、パイナップルのジャムが入った四角い焼き菓子。バターが濃く香るさくりとしたクッキー生地の中には、甘さを抑えたジャムが閉じ込められている。噛むたびにほのかな酸味が広がった。
これも、レイモンド公から贈られてきたものだ。
さすがに毎日のように届いていた贈り物も、最近は少し頻度が落ち着いてきている。それでもこうして時折、菓子や茶葉などが王宮へ届けられていた。
ヴィルフォードは最初こそ辟易していた様子だったが、最近では「飽きるまで勝手にやらせておけ」と半ば放置している。おかげで、リゼッタの食への知見が広がったわけだが。
毒を見抜いたからと、ヴィルフォード側から特別な報酬が提示されることはなかった。リゼッタも催促をしたり、ねだることもせずにいる。
そもそも毒見役に任命された時点で、特別手当として金貨五枚を一括で受け取っているのだ。だからあの件は、毒見役として当然の責務を果たしただけ。金貨五枚の中に含まれているのだから、それをねだるのはあまりに貪欲ではないだろうか。
それに、今まで散々美味しいごはんをタダ同然で食べさせてもらってきているのだ。これ以上を求めるのは筋が違う気がした。
「また手紙を出してきたのか?」
食後の紅茶を嗜みながら、ヴィルフォードが何気なく口を開いた。
「はい。毎月の楽しみですから」
「楽しみ、か」
「手紙を書いている間はもちろんですけど、『そろそろ来る頃だな』ってわくわくしながら待ってるのも楽しいんですよね」
月末の、ささやかな楽しみ。今は離れた場所で生活しているけれど、手紙を交わしているときだけは隣にエマを感じられる気がする。
「妹の容態は?」
「今は少し落ち着いているみたいです。空気も乾燥していないし、栄養のある野草もたくさん生えている時期ですから」
「そうか」
短い相槌。それ以上は踏み込まないヴィルフォード。リゼッタもそれ以上は語らない。
しばらく、紅茶を飲む音だけが落ちる。
「腕のいい医師を紹介できる、と言ったら?」
不意に、ヴィルフォードがぽつりとこぼした。
「……え?」
「伝手がある。王都でも有数の医師だ」
あまりにも淡々とした言い方。以前、「夜会に行くから同席しろ」と言われたときみたいに、さも当たり前のような口ぶりだった。
リゼッタは言葉の意味をうまく飲み込めないまま、唖然として固まる。
「……いえ、そんな……そこまで……」
慌てて言葉を探すが、うまく繋がらない。
借金の返済も終わっている。前以上に仕送りもできている。早くエマを楽にしてやりたい気持ちはあるが、ヴィルフォードからこれ以上の恩を受け取る理由が見つからない。
「借金までなくしてもらったのに、今度は妹の病気なんて……」
そこまで言いかけて、リゼッタは言葉を切る。いくらなんでも、過剰だ。
「勘違いするな」
リゼッタの戸惑いを断ち切るような、静かで凛とした声が落ちた。
「施しではない。貸しだ」
「……貸し?」
「そうだ」
ヴィルフォードがゆっくりとティーカップを置く。
「返し方は、一つ」
紫の瞳が、リゼッタを射抜くようにまっすぐ捉えた。
「どこにも行くな。何があっても、ずっと俺の毒見役でいろ」
一瞬、言葉を失うリゼッタ。
制約というほど強くはない。契約というには、あまりにも個人的な──。
「それは、つまり……」
「働いて返せ、ということだ」
言うだけで言って、ふいとリゼッタから視線を外す。たまに見せる、不器用に揺れる瞳。拗ねているような横顔。紅茶の湯気が、彼の表情を曖昧に溶かしていく。
リゼッタはほんの少しだけその横顔を見つめて、それから、おもむろに口を開いた。
「……殿下」
きょとんと首を傾げる。
「金貨五枚いただいてますし、もともとそのつもりでしたけど」
沈黙が落ちたと同時に、ぴしゃりと空気が固まった。
ゆっくりとリゼッタに視線を戻すヴィルフォード。その目に、じわじわと呆れの色が滲んでいく。
「……お前、本当にそういうところだぞ」
「えっ?」
何が悪かったのか分からず、リゼッタは首を傾げたまま目をぱちぱちと瞬かせる。
遠目から見ていたグレンはくすくすと笑い、ヴィルフォードは深く息を吐いた。
「相変わらず、だな」
「……と、言いますと?」
「もういい。すぐには紹介できないかもしれないが、医師には話を通しておく」
「……本当に、ですか?」
「ああ」
「……ほんとに?」
「ああ。だから、働け」
呆れた声色だったけれど、口元はやさしい微笑みが浮かんでいた。
リゼッタはしばらく呆然としていたが、やがて野草が日差しに向かうようにピンと背筋を伸ばした。
「……はい! 何があろうとも、このリゼッタ・アレシュタイン、殿下の毒見役として精いっぱい働かせていただきます!」




