最終話 メイドと殿下
夜。すでに隣からは、ナンシーの寝息が聞こえてくる。
リゼッタはなかなか眠れずにいた。月明かりが差し込む部屋の中で、ぼんやりと天井を見つめる。
胸が弾みっぱなしで、全然落ち着かない。嬉しくて眠れないなんて、いつぶりだろう。
思い返せば、実家への仕送りが銀貨二枚増えた日の夜以来かもしれない。あの日も、興奮してなかなか寝つけなかった。
そして、初めて中庭の存在を知った夜でもあった。
手入れの届いていない、自由な庭。澄んだ空気の中に溶ける月光。それから──不機嫌そうな顔をした、あの人。
ちょうど今日みたいな、満月の夜だった。
リゼッタはそっと身を起こす。ナンシーを起こさないよう気をつけながらベッドを抜け出し、薄いショールを肩にかけると静かに靴を履いた。
少しだけ。本当に、少しだけ。夜風に当たりたくなったのだ。
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中庭は月明かりの下で穏やかに息づいていた。昼間の熱気が嘘のように、涼しい夜風がさらりと肌を撫でる。足元ではエノコログサやミソハギといった野草が、一足早く秋の訪れを教えてくれていた。
「やっぱり好きだなあ、ここ」
声に出すと、余計にそう思った。王宮の中で、ここだけが少し違う空気をしている。草の匂いがして、虫の音がして、空が広い。
「……あ」
視界に入ったのは、オジギソウ。まだ鞠のような花を咲かせているけれど、もうすぐ種を実らせる時期だ。
──なんか、いろいろあったなあ。
リゼッタはしゃがみ込み、そっと葉に指を伸ばす。触れた瞬間、いくつもの小さな葉がきゅっと身を縮めるように閉じた。
それを見て、ほんの少しだけ口元が緩む。葉を一枚ぴっと摘み取り、ぱくりと軽く口に放り込むと──青くて、独特の苦味が口に広がった。
──ありがとうね。
ヴィルフォードとの約束の証として持っていたオジギソウが、まさかあの夜の切り札になるとは思っていなかった。
「何をしている」
背後から落ちた、聞き馴染みのある低い声。
振り返れば──月明かりを受けたヴィルフォードが、不機嫌そうに佇んでいた。
「殿下こそ、眠れないとかですか?」
「聞いているのは俺だ」
即座に返されて、リゼッタは「あ、そうでした」と苦笑いを返す。
──そういえば、最初もこんな会話をしたっけ。
あのときも、突然現れて、突然問いただしてきて。
最初は「冷酷な人だな」なんて思ったけれど、今はその印象もだいぶ薄れている。
「眠れなくて、つい」
「それでまた野草を食べてたのか」
「……つい?」
あはは、と小さく笑うリゼッタ。
「殿下も、眠れないからここへ?」
少し間があった。
「……ああ」
「落ち着きますよね、ここ。空は広くて静かだし、それから草の匂いも。なんだが、王宮じゃないみたいです」
「そうかもな」
言葉はそれ以上続かなかった。
月明かりの下、二人並んで過ごす時間。けれど、不思議と気まずさもなかった。
「ありがとうございます、殿下」
「何が」
「エマのこと」
「別に、たいしたことはしていない」
「たいしたことですよ」
いつもの勢いは控えめに、けれどリゼッタの顔には隠しきれない嬉しさが浮かんでいた。
少しだけ静かな時間が流れたあと、リゼッタは夜空を見上げて小さく息をつく。満月の光が落ち着いた茶色の瞳に宿り、彼女の横顔をいつもより少しだけ大人びて見せていた。
「それから、殿下……私を毒見役にするために、わざと意地悪を言ったんですよね」
ヴィルフォードから、わずかに息を止めた気配がした。
「三つ」
リゼッタは月を見上げたまま指を折る。
「一つ目は、王宮の野草を無断で食べたこと。でも、あれから何度か摘んでいるの知っていますよね。実際、今も食べてましたし。それから二つ目は、西棟への立ち入り。今もこうして、勤務時間外に中庭に立ち寄っています」
ちらりと視線を向ける。ヴィルフォードは何も言わず、目を細めていた。
「三つ目は、殿下への無礼な態度。私、相当失礼な態度を取ってきたと思うんです」
「自覚はあるのか」
「まあ、多少は」
えへへ、といたずらに笑い、花びらを揺らすような柔らかい吐息をこぼす。下ろしたままの亜麻色の髪が、夜風にふわりとなびいた。
「でも……殿下、どれも本気では怒りませんでした。咎めもしませんでした」
隣に立つヴィルフォードの銀髪も、月明かりを受けて淡く輝いていた。
「私のこと、最初から追い出すつもりなんてなかったんですよね。だから、ありがとうございます」
返事はない。でも、それが否定の沈黙だとは思えなかった。
二人の間を埋めるように、夜風がやさしく通り抜けた。
「どうしてここまで、私に気をかけてくれるんですか?」
まっすぐに、茶色い瞳をヴィルフォードに向ける。驚いたように見開かれた彼の瞳が、純粋に問いかける少女の姿を映した。
草の揺れる音が、いっそう大きく響く。世界に二人きりになったみたいに、時間の流れが少しだけ遅くなった気がした。
ヴィルフォードが唇を開きかけて、閉ざす。それから観念したように、低く息を吐いた。
「……お前が気にさせるからだろ」
「私、が?」
「破天荒で図太い。無駄に丈夫だ。それから、妙なところで勘もいい」
「それ、褒めてます?」
「半分くらいは」
珍しい。いつも「さあな」と煙に巻くのに、今夜は半分とはいえ認めた。「褒めてるんだが」と皮肉げに笑うこともない。
少しだけ嬉しくなったリゼッタは、頬を緩めながらヴィルフォードの顔を覗き込むように距離を詰めた。
「それだけですか?」
「……図々しいな」
「そんなの最初から知ってるじゃないですか。現に、今さっき『図太い』って言ったばかりですし」
けろりと言い返すリゼッタ。
無垢な瞳に見つめれ、ヴィルフォードはぐっと息を詰めた。
「……お前だから」
月明かりを弾いた紫の瞳が、今は逃げずにリゼッタだけを見つめていた。
「信用していない人間を、毒見役に置く阿呆がいると思うか?」
「いないと、思います」
「そういうことだ。……満足したか?」
素っ気なく言って、ヴィルフォードがふいと視線を外す。
リゼッタはしばらく彼の横顔を見つめた。月明かりの中、ヴィルフォードはいつも通りの無表情──のつもりなのだろうけれど、その耳の先だけはほんのりと赤かった。
「……はい。ありがとうございます」
あの日、毒見役に任命されたときにも聞いた言葉。同じはずなのに──その言葉の意味が、あのときよりずっと色濃く、はっきりと胸に届いた。
夜風が草を揺らしていく。その隙間から、かすかに夏の終わりの匂いがした。
初めてこの中庭へ迷い込んだ夜には、想像もしなかった。借金がなくなることも、毒見役になることも。こうして──彼の隣に立っていることも。
リゼッタは大きく息を吸って、夜空を見上げた。
空に浮かぶ満ちた月の光が、並んだ二つの影をやさしく包み込むように降り注いでいる。
草花の香りとともに、二人きりの夜を満たしていた。
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「異常は?」
「もちろん、ありません」
リゼッタはシルバーを置いて、いつも通り毒見の結果を告げる。
「特にスープは牛骨の出汁がよく出ていて、美味しかったです!」
「……最近、感想が更に具体的になってきたな」
「それはもう。おかげさまで舌が鍛えられましたので」
胸を張るリゼッタに、ヴィルフォードは呆れたように息を吐きながら椅子の背にもたれかかった。けれど彼の口元は、ほんのわずかに緩んでいる。
リゼッタもつられるように少しだけ得意げに笑って、顔の前で丁寧に手を合わせた。
「ごちそうさまでした!」
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またいつか、他の物語でお会いできたら幸いです。
ありがとうございました。
葉南子




