第31話 二人の訪問者
「私には、目的などわかりません。ですが……」
ほんの一瞬だけ間を置くリゼッタ。
「“誰が”かは、推測できます」
「……ほう」
「その人物は、右手の人差し指に絆創膏を巻いています。夜会のときには、なかったものです。見たところ、怪我をしてからそう時間は経っていません」
「……思いもよらぬ怪我をすることだってあるでしょう」
「思いもよらぬ……ですか。例えば、オジギソウを摘んだときに棘が刺さった、とかでしょうか」
サイラスは右手の指先を隠すように左手の下に添えた。
「オジギソウは可愛らしい性質がある反面、鋭い棘を持っています。慌てて摘んだため、棘が刺さったんです」
「これはまた、想像力まで豊かでいらっしゃるとは。感服いたしますな」
サイラスが大袈裟に肩をすくめる。笑みの形は残しているようだが、目だけはもう笑っていない。
「この席を設けたのは、今しがたと伺っています。準備をする時間は限られていたはず。その焦りから、思わぬ怪我をしてしまったんです」
「……なるほど」
ふう、と対面に座るリゼッタの前髪が揺れそうなほど深いため息をついた。
「どうやらアレシュタイン嬢は、ワインに細工をしたのはわたくしだと仰りたいらしい。では、なぜわたくしがそのようなことを?」
「申し上げた通り、“誰が“という推測はできても、目的まではわかりません。ですが……」
リゼッタはグラスに視線を配り、わずかに目を伏せる。
「このワインは、お酒ではありません。人の意識を奪うために細工されたもの」
顔を上げ、確固たる瞳をサイラスへ向けた。
「毒です。そして、それを混ぜたのは……サイラス公、あなたです」
顔に貼り付けていたサイラスの笑みが、枯れた花弁のように剥がれた。
「……殿下。いくらなんでも、このような方をお側に置かれるなんて。根拠のない言いがかりをされては、さすがに殿下のお連れとはいえ」
「なら」
短く鋭い一言で、途端に空気が冷たく変わった。
「確かめればいい」
重く、振り払えそうにない圧が深々と場を占めていく。
「俺の前にあるそれを飲め」
「……は?」
「毒など入っていないのなら、問題はないだろう?」
サイラスはグラスに焦点を当てた。同時に、彼の喉が大きく波打つ。眉間には険しい皺。
「殿下にお出ししたものを、わたくしめが飲むなんて……」
「俺が飲めと言ってる」
「しかしですな……」
言葉を濁し続けるサイラス。
「やはり飲めないか」
ヴィルフォードが冷ややかに言い捨てた。
「当然だな。毒が回って意識が曖昧になれば、余計なことまで口にしかねない」
椅子の背にもたれ、サイラスを見据える。
「ちなみに、彼女は『目的はわからない』と言っていたが。俺にはお見通しだ」
「殿下まで……何を……」
「近年のサイラス家の発展。目覚ましい成果の裏に、何があったか」
冷え切った紫の瞳が目の前の男を捉え続ける。その視線に凍てついてしまったように、サイラスは動かない。
「ここ一年くらい、お前と契約を結んだ者たちから同じような訴えが届いている。商談の席で体調を崩した、気づけば不当な条件でサインさせられていた。抗議しても証書があると跳ね除けられた」
ヴィルフォードが淡々と続ける。
「意識が朦朧とした状態となれば、判断も鈍る。都合のいい合意を取り付けるには、うってつけのワインだな」
極限まで張り詰めた空気。リゼッタすら、唾を飲み込むことさえ躊躇うほどだ。
「……そんな……わたくしは、別に……」
「いささか派手に動きすぎたな、サイラス公」
感情のない声がサイラスの弁解を切る。
「慢心は身を滅ぼす。よもや俺にまで手を出すとは。これは、俺に対する害意と見なしてもいい」
サイラスの顔色が目に見えて変わった。萎縮し、わずかに震え上がる肩。蛇──というよりは、龍に睨まれている蛙のように映った。
「……お待ちください、殿下」
明らかに上ずった声。
「これは……そう、誤解です。すべては偶然が重なっただけで……」
言葉を繋げるごとに声が細くなっていく。逃げ道を探すように視線を揺らしだした、そのときだった。
コン、コン──と秒針のようにゆっくりと、そして場違いなほど規則正しい音か苦し紛れの弁解を裂いた。
「入れ」と命じたのは、サイラスではなくヴィルフォード。扉が開くと──先ほど廊下で貴族の看病を頼んだ使用人が一人、かしこまりながら入室した。
黒いマスクの奥から覗く、淡い赤褐色を帯びた瞳がこちらを一瞥する。手には書類の束。
「お持ちいたしました」
抑えた声。だが、確かに聞き覚えがある声色だ。
差し出された書類をヴィルフォードは迷いなく受け取った。
「……誰だ、お前は!? なんの許可があって……!」
サイラスの裏返った声だけが響く中、リゼッタはヴィルフォードの背後で直立している使用人をじっと見つめていた。
──この人……。
ばちっと視線が合った。ほんの一瞬、目元がやわらかく細められる。
口元は隠れている。髪色も違う。だが、少し垂れたその優しい目元は、もう見間違えようがなかった。
その人の前で、ヴィルフォードがぱらぱらと書類をめくっている。しばらく紙の擦れる音が機械的に続き──やがて、ふっと息を吐いた。呆れを含んだ、乾いた吐息。
「……どれもこれも一方的だな。利益はすべて、お前に偏っている」
書類をテーブルへと放り投げた。
「これが“偶然”か?」
「そ、それは……!」
焦りのまま視線を書類へ向けるサイラス。彷徨う瞳。どこをどう見ても、言い訳を探しているとしか思えない。
「契約は合意のもとで結ばれたもの……! そもそも、不満があるのなら、その場で……」
サイラスの言葉が途切れる。コンコン、と再び扉が叩かれたからだ。今度のは、先ほどよりも慌ただしい音。
真っ先に、使用人だと思っていた男が扉へと動く。丁寧に扉を開け、現れたのは──廊下で倒れていた、あの貴族男性だった。顔色はまだ優れないが、背筋を伸ばして立っている。はっきりと意識を取り戻しているのがわかった。
「失礼いたします」
男性はヴィルフォードに頭を下げ、部屋の中を見渡し、やがてサイラスを見つめる。わずかに歪んだ顔で。
「わたくし、名をジョセフ・レイモンドと申します。一時間ほど前に、サイラス公とこちらで商談をしていた者です。お話をさせていただいても構いませんでしょうか」
ヴィルフォードが「許可する」と頷く。ジョセフはもう一度頭を下げた。
「最初は当たり障りのない話でございました。やがて商談に移り、頃合いを見てワインが出されました。飲んでしばらくしてからです。急に頭がぼうっとして……身体が重くなりました」
苦く眉を寄せるジョセフ。
「手が痺れだして、思考も回らなかったんです。なのに、妙に気分だけが浮ついて……その状態で、契約書を差し出されました」
リゼッタの頭の中にあった点と点が、一本の線になっていく。介抱したときに聞いた断片的な言葉。ジョセフは、このことをヴィルフォードに伝えたかったのだろう。
「その途端、サイラス公の口調が変わりました。『先ほど話していたことと何も変わらない』『早く署名を、この話はなかったことになりますぞ』と、脅されるように急かされて……」
唇を噛む。
「今ならわかります。交渉のときとは違う不審な点がいくつもありました。なのに、そのときは正常に判断できなかった。気づけば……署名していたのです」
悔しさと情けなさを押し殺すように、ジョセフは拳を握りしめた。
「そして署名を終えた途端、『もうお疲れでしょう』と、半ば追い立てるように退室を促されました。……用済み、ということだったのでしょう」
「……証拠にならん! 酒に酔っただけだろう!?」
「わたくしは酒には強いほうです。あの程度で意識を失うなど、ありえません」
「そんなもの……! どうとでも言える!」
サイラスの怒声が響く。もう先ほどまでの余裕はない。追い詰められた者特有の、焦りと苛立ちが滲んでいる。
リゼッタはサイラスを見つめていた。沸々と湧き上がるものを抑えながら。
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