第30話 ワイングラスの中に
大ぶりのグラスの中から、ふわりと香りが立ちのぼる。程よく熟成された赤ワインの香りだ。
だが、それだけではない気がした。
リゼッタはグラスを数回ほど回し、再度鼻先を近づけた。
──やっぱり……。
かすかに感じる青い匂い。それは、先ほどサイラスと対面したときに感じたものと同じ匂いだった。
直に触れ、浮遊していた記憶が引き上げられたように動き出す。やはり、嗅いだことがあった。それも、何度も。
──これ……もしかして……。
脳裏にエマの顔が浮かんだ。子どもの頃、一緒に遊んだ野原。それから、ひどく咳き込んだエマに──。
「どうした?」
ヴィルフォードの声が落ちてきて、ハッと現実へ引き戻される。
「あ、いえ」
笑みを取り繕いながら、リゼッタは小さく首を傾げた。
気のせい、かもしれない。いや、気のせいであってほしい。
「いただきます」
小さく告げて、ひと口含んだ。熟れた果実のような甘みが広がる。そのあとに、赤ワイン独特の渋み。
けれど。それだけでは、なかった。
──気のせい、じゃない……。
甘さに紛れて、青い何かが溶け込んでいる。それは、ワインからは感じるはずのない──草の味。
一度覚えてしまった違和感は、もう拭えない。むしろ意識するほどに輪郭がはっきりしてくる。
グラスを持つリゼッタの手がぴたりと止まった。
「味は?」
隣から聞こえた低い声。視線を向けると、ヴィルフォードがこちらを見ていた。口調は淡々としているのに、紫の瞳はこちらの違和感を見透かしたかのように細められている。
「……あ、はい。えと……」
信じたくはなかった。だって、本当にそうならば、このワインには──。
「リゼッタ」
静かな声で名を呼ばれ、ぴくりと肩が上がる。ヴィルフォードは変わらぬ表情のまま、わずかにあごを引いた。
彼は気づいている。リゼッタの様子が普段とは違うことに。そして、その原因がこのグラスの中にあるかもしれない、ということにも。
名を呼んだきり、ヴィルフォードは何も言わない。だが、こちらを見つめる瞳は「試し」でも「確認」でもなく──お前にはわかっているはずだ、という「確信」の色を滲ませていた。
ふうと息を整え、迷いを胸に押し込んだリゼッタは背筋を伸ばす。
任されている。なら、応えるだけだ。
「サイラス公。恐れ入りますが、このワインはどちらのものでしょうか。少し、変わった香りがしまして」
一瞬、サイラスの目が宙を泳いだ。
「はて……どちらでしたかな」
軽く笑いながら、曖昧に言葉を濁した。
「先ほど、『当家のワイン』だと仰っておりましたよね。産地も、銘柄も、ご存じないのでしょうか」
「ええ、まあ。お恥ずかしいことに、ワインの管理は使用人に任せておりまして。細かいところまでは、なかなか」
「この国の第一王子であるヴィルフォード殿下に振る舞うワインを、ご自身では把握されていない、と」
穏やかな声のまま、リゼッタの茶色の瞳はサイラスを逃さないように見据えていた。
「それは少々、不用意ではないでしょうか」
わずかに室内の空気が張りつめる。
その空気を吹き消すように短く息をついたサイラスは、たまらないな、とでも言いたげに困り顔で肩をすくめてみせた。
「これはまた手厳しい。殿下が仰っていた通り、アレシュタイン嬢はワインに並ならぬこだわりがあるようですな」
「いいえ、そういうわけでは」
首を振るリゼッタ。
「ただ、このワイン……果実の香りに混じって、わずかに青い味と香りがします。本来、このようなワインには現れないはずのものです」
はっきりと言い切ると、サイラスの左頬がぴくっと跳ねた。だが、すぐに公爵らしい微笑みを浮かべ、口元の前で太い指を組む。その奥にある瞳が妖しく細められた。
「……ほう。それはつまり、“何かが混ざっている”と?」
「ええ。青いものの正体、それは……草によるものです」
リゼッタは、グラスの中でもったりとした濁りを抱え込んでいる液体を見つめた。
鼻腔に残る青い匂い。舌にまとわりつく苦み。そして──廊下で見た貴族の症状と、断片的な言葉。
「このワインには、本来でしたら入っていないものが加えられています。例えば、人体に影響を及ぼすもの……とか」
一拍、深い沈黙が落ちる。
「……言いがかりもいいところですな」
サイラスが「はっはっ」とわざとらしく笑った。
「証拠もなく、そのようなことを口にされるとは」
「そうですね、証拠はないかもしれません。ですが……確信はあります」
変わらず、リゼッタははっきりと言い切る。サイラスは「なるほど……」と呟くと、わざとらしいため息を落とした。
「アレシュタイン嬢……。あなたは、自分の発言に責任が持てますかな? これが虚言となれば、あなただけではなく、殿下の御名にも傷をつけることになるんですよ」
サイラスの口の端が歪に歪んでいた。脅し──と受け取ってもいいだろう。
「はい。もちろんです」
脅しには乗らない。リゼッタはさらに強く言葉を重ねた。
「では、お聞かせ願いましょうか。このワインにいったい何が入っているのか、を。産地や銘柄を答えられないからと根拠のない言いがかりを並べられは、こちらとしても──」
「オジギソウ」
リゼッタの一言で、サイラスの言葉がぴたりと断ち切られた。一緒に、空気までもが切り替わっていく。
「庭園も生えていますよね。綺麗に整えられた花々の中に、ひとつだけ場違いのように紛れ込んだ野草が」
「……それが、何だと?」
「オジギソウは鎮静作用を持つ一方で、量によっては意識を曖昧にする性質があります。場合によっては、昏睡に近い状態に陥ることも」
廊下で会った貴族の姿が脳裏をよぎる。蒼白な顔、ぐったりと傾いた身体。アルコール臭のしなかったあの症状は──やはり、酩酊からくるものではなかった。
「青い味と匂い。それは、オジギソウによるもの。意図的に、このワインに混ぜられたものです」
室内がしんと重く沈んだ。グラスの中で揺れていた赤い液体に、澱が沈み込むように。
「……はっはっは」
サイラスが肩を揺らながら笑いだした。
「なるほど、実に興味深いお話だ。野草の知識もおありとは、さすがは殿下のお連れだ」
賛辞めいた声音。だが、その目は少しも笑っていない。あごに手を添え、ふと考え込むような仕草を見せる。
「しかし、そうとなれば一大事ですな。いったい誰が、何のために、そんなものを仕込んだのか。いやはや、このような席で起きてよいことではないですな。すぐに人を呼びましょう」
視線を扉に移したサイラスが、腰を浮かせようとした瞬間。
「サイラス公」
リゼッタの静かな呼びかけが、サイラスの動きを縫い止めた。




