第29話 場違いのリゼッタ
「ただいま戻りました」
席に戻ったリゼッタは、努めて淑やかに腰を下ろした。広間はまだ賑やかだ。何も変わっていない。なのに、さっきまでと同じ場所にいるような気がしなかった。
「遅かったな」
「はい……いろいろ、ありまして」
言葉を選びながら答える。あの男性のことを話すべきか、と口を開きかけたとき。
「サイラス公爵と、席を改めて話をすることになった」
ヴィルフォードが淡々と言った。
「え……?」
「お前が席を外している間に交渉した。『十分ほど時間をくれ』と言われて、待っているところだ」
「それはまた、急ですね」
「それが狙いだからな」
ヴィルフォードの口の端が軽く上がる。短い言葉の中には含みがあった。まるで相手の出方を試しているような、そんな響きだ。
胸の奥が、かすかにざわめく。
「あの、殿下……。実は……」
今なら、まだ──そう思って口を開いた、その瞬間。
「ヴィルフォード殿下、サイラス公爵がお待ちでございます」
背後から給仕の声が飛んできた。リゼッタは言いかけた言葉を飲み込む。
「行く、と伝えろ」
立ち上がると、ヴィルフォードは椅子に座ったままのリゼッタを一瞥した。
「何をしている」
「はい?」
「お前も同行するんだ」
「私もですか!?」
思わず声が上がった。一瞬だけ、周囲の視線がこちらへ流れたような気配がする。リゼッタは取り繕った笑顔を浮かべて「こほん」と咳払いをした。
「このために、お前を連れてきたんだからな」
それだけ言って、ヴィルフォードは歩き始めた。当然こように、なんの説明もない。怪訝そうにしながらも、リゼッタは言われた通り席を立った。
ヴィルフォードの後ろを歩きながら、頭の中では男性の言葉が回り続けていた。あの男性は何を伝えたかったのか。そして、彼──ヴィルフォードは何を考えているのか。
二つの疑問はぐちゃりと絡まり合って、解けそうになかった。
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案内された部屋は、広間の喧騒が切り離されたように静かだった。
「お待たせいたしました、ヴィルフォード殿下」
部屋の中央にある重厚なテーブルの端で、先に待機していたサイラスが丁寧に腰を折った。
「急な話で悪いな」
「とんでもない。殿下にこうして足をお運びいただけるとは」
かしこまりながらも、柔らかい微笑みを浮かべるサイラス。「どうぞ、おかけください」とテーブルのほうへと促され、ヴィルフォードが動く。リゼッタも軽くカーテシーを添えて後に続いた。
二人と対面するように、サイラスも腰を下ろす。その瞬間、何かが鼻の奥を掠めた。
お香とも違う。部屋で焚いていたなら、入った瞬間にわかる。鼻にツンとくるバニラの香水とも違う。かすかに青い、ような。知っている匂いに似ている。どこで──。
「改めて、本日はお運びいただきありがとうございます。お食事はお口に合いましたでしょうか」
サイラスの声で思考が途切れた。
「ああ」
「それで……改めてお話とは、いかがなものでございましょう」
「近年のサイラス家の発展は、こちらの耳にも届いている。目覚ましい成果だと」
「なんと過分なお言葉。恐縮ですな」
うやうやしく頭を下げながら、サイラスは満足げに目を細めた。その奥に、わずかな期待の色が滲む。
「その手腕を直に聞いてみたかった。それから、もうひとつ。先ほど話を通した者にも伝えたが、こちらからも話ができればと思ってな」
「なんと、本当に殿下直々に。ありがたき光栄でございます」
深く頭を下げるサイラス。抑えた声音の奥には、隠しきれない弾みが混じっている。まるで、この展開を待ち望んでいたかのようだった。
リゼッタはというと、ヴィルフォードの隣でおとなしく微笑んでいた。口角を控えめに上げた、淑女らしい笑みだ。
だが、その内心では大きく首を傾げていた。
──なんか私、場違いじゃない……?
商談でも始まりそうな雰囲気。もしかして、この場を見届けさせるために呼ばれたのだろうか。しかし──そんな理由で、この人がわざわざ自分を連れてくるものだろうか。
考えながら、リゼッタはなんとなく視線を動かした。
テーブルを挟んで向かいに座るサイラスの手が、自然と目に入る。大振りな指輪がはまった指。その一つ、右手の人差し指の先に、これまでなかったものが巻かれている。
──絆創膏?
ぽつりと、花弁に落ちた一雫の露のように浮かぶ血の跡。おそらく、怪我をしてからそう時間は経っていないはず。
大袈裟なくらい太い指輪に、その簡素な絆創膏はひどく不釣り合いだった。
「アレシュタイン嬢も、そうお感じになりますかな」
不意に名を呼ばれ、リゼッタは我に返る。
「え、ええ。とても興味深いお話だと」
何に同意したのかは不明だったが、リゼッタはとっさに言葉を繕った。表情だけは崩さないように、微笑みを保ち続ける。
話は、リゼッタにはよくわからない方向へ進んでいた。
領地の収益がどうとか、貴族たちとの取引がどうとか。同じ言語のはずなのに、なにかの呪文みたいに聞こえてくる。
──えっと、これ、私は何をしていればいいんだろう。
笑って頷くだけでいいのか。それとも何か役目があるのか。ヴィルフォードはちらりともこちらを見ない。サイラスも、リゼッタの存在を忘れているかのようだった。
「せっかくの機会でございます。ささやかではありますが、一杯いかがでしょう」
一区切りついたのか、サイラスがゆるやかに立ち上がる。止まった先は、部屋の隅にあったサイドテーブル。上には蓋付きの盆が置かれている。
にこやかな表情のまま蓋を開けると、すでに赤ワインの注がれたグラスが三つ並んでいた。
「当家のワインでございます。ぜひご賞味いただきたく」
サイラス自ら盆に手をかけ、リゼッタとヴィルフォードの前にグラスを置く。最後に、自身の前にも同じように置いて、何事もなかったかのように席に着いた。
目の前のグラスに視線を落とすリゼッタ。ほんのりと橙を帯びた深い赤は、おそらく年代物だろう。シャンデリアの光を受けて、ゆらりと揺れている。
ヴィルフォードは、そのグラスに手を伸ばそうとはしなかった。
「さ、どうぞ。お口に合えばいいのですが」
穏やかな口調で促すサイラス。
「そうだな、まずは彼女に見てもらおうか。まだ若いのに、ワインには少々うるさくてな」
軽く言って、ヴィルフォードはあごでリゼッタを示す。
なるほど、ここで自分の出番というわけか──言外の意味をリゼッタは瞬時に汲み取った。
「よろしいでしょうか?」
「ええ。もちろんです」
「では、先に失礼させていただきます」
リゼッタはグラスを手に取り、そっと鼻先へと引き寄せた。




