第28話 病人? それとも
「……殿下、少し席を外してもよろしいでしょうか」
赤ワインを飲み終えた頃。リゼッタは声を落とし、淑やかに告げた。「ああ」という短い許可をもらって、席を立つ。
「失礼いたします」
丁寧に腰を折り、下から向けられる視線を意識しないようにヴィルフォードから離れた。
──ドレスだし、早めに行っておかないと。
いつものメイド服と違って、何かと手間がかかる。コルセットの締め付けもある。面倒──ではなく、着飾るのさ大変なんだなと改めて実感した。
賑やかな広間を抜け、人気の少ない廊下へと出る。広間とは打って変わって、ひやりとした空気が肌を撫でた。
落ち着く。賑やかな場所は苦手ではないが、あそこは“自分を見せるための華やかさ”というか──楽しんでいる笑顔の奥で、誰もがさりげなく競い合っているような、そんな空気がある。ふつふつと煮え立つような自尊心や矜持が、笑顔の下でひしめき合っているような。
厨房やメイドたちの間にある賑やかさとは、まるで別物だった。
.。゜:*:✼.。
──やっぱり早めに席を立って正解だったな。
鏡の前で前髪を直して、リゼッタは満足げに廊下へ出る。
少し進んだ先で、長椅子に浅く腰掛けている人影が目に入った。
──あの人……。
前のめりに、ぐったりと座っている五十代くらいの男性。酔いつぶれでもしたのだろうか。歩幅を緩めながら近づき、じっと様子を観察する。
どうにもおかしい。酔った人間特有の顔の赤みは見当たらない。呼吸は浅く、肩で息をしている。指先もかすかに震えていた。
「大丈夫ですか?」
見るからにつらそうで、放ってなどおけない。リゼッタは距離を詰め、穏やかに声をかけた。
男性がゆっくりと顔を上げる。焦点の定まらない目。顔色は蒼白としていて、血の気が感じられない。
──酔ってるっていうより、これは……。
出かけた言葉を飲み込む。似たような症状をリゼッタは知っていた。
「あなたは……ヴィルフォード殿下の……」
「はい。随行者です」
男性の目がわずかに焦点を結んだ。何かを求めるようにリゼッタの顔を見ている。
「サイラス公に……」
掠れた声で言いかけた途端、男性の息が乱れ始めた。
「契約を……いや、あれは……」
途切れ途切れの呟きは、何かを必死に訴えているような気配を孕んでいる。
口を挟まず、耳を傾け続けるリゼッタ。
「どうか、殿下に……」
そう言った途端、男性はえずき、激しく咳き込んだ。肩と胸部が大きく揺れて、さらに呼吸が乱れる。
──この人、中毒症状に近い。
食中毒か。だが、食中毒なら他にも体調を崩している人間がいてもおかしくない。広間はあれだけの人数がいた。この人だけ、というのは妙だ。
では急性アルコール中毒か。たしかに顔色や症状はそれに近い。だが、男性から酒の匂いはほとんどしない。極度の下戸だとして、果たしてこうなるまで飲むものだろうか。
「とりあえず、横になってください」
即座に判断したリゼッタは、男性の肩を支えた。長椅子に左半身を下にして横たわらせる。
子どもの頃、強い毒を持つ野草を食べてしまったときに祖母がしてくれた対処法の一つだ。万が一嘔吐したとき、仰向けだと喉に異物が詰まってしまう。そのため横向きにして、気道を確保する。左半身を下にするのは胃酸の逆流を防ぎ、接種したものの吸収を遅らせるためだ。
ほどなくして、男性の呼吸が少しだけ落ち着いた。胸を撫で下ろしたリゼッタは、彼の言葉を思い出す。
“──どうか、殿下に……”
自分に何かを伝えてほしかったのだろうか。
サイラス、契約、ヴィルフォードに──断片が頭の中でぐるぐると回るが、繋がらない。
ふと、影が落ちてきた。
見上げれば、先ほどヴィルフォードと話していた黒髪に黒マスクをつけた男。柔らかな目元が心配そうにこちらを見ている。
「恐れ入りますが、あなたはこの屋敷の使用人とかですか?」
問いかけると、男は無言のまま小さく頷いた。
「でしたら、調理場から蜂蜜と生姜を溶かしたお湯をいただけますか。そこにミント……あればセージを一緒に」
また頷く。
「私はこの方のそばを離れられません。どうか、急ぎでお願いできますか」
男は一礼して、音もなく廊下の奥へ消えた。
リゼッタは男性の傍らにしゃがみ込み、呼吸を確かめながら待つ。どうやら嘔吐する様子はなさそうだ。それに、全体的に落ち着きを取り戻しつつある。
リゼッタは安堵しながら男性の様子を伺った。よくよく見れば、男性の状態は酩酊というよりは、傾眠に近い気がする。意識は薄いが、酔っているというより、無理やり眠らされているような──そんな違和感がある。
ほどなくして、厨房に向かった男がマグカップを片手に戻ってきた。リゼッタは礼を言って受け取ると、香りを確認する。甘い蜂蜜、鼻に抜ける生姜。それから、ほんのりと春の青い味を思い出させる香り──セージ。
よし、と頷いたリゼッタは男に目配せした。男はすぐに察して、男性の上半身をそっと支え起こす。リゼッタはマグカップを口元へ運んだ。
「ゆっくりで大丈夫です。少しずつ飲んでください」
慎重に様子を見ながら、ひとすすりずつ含ませる。
──少しはマシになるといいけど。
数口飲ませたところで、男性の呼吸が少し深くなった。手の震えも止まっている。まだ完全ではないが、さっきよりはいい。
「すみませんが、しばらくこのまま様子を見ていただけますか」
男は頷いた。任せろ、と言うように。
リゼッタは立ち上がり、深く礼をすると裾を整えた。掛け出すように、広間へ向かいヒールを蹴る。頭の中では、さっきの断片が回っていた。
サイラス公、契約、殿下に──急がなければ、という気がした。
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