第24話 いざ、夜会へ
昼前から始まった支度が終わった頃には、すっかり陽が傾きはじめていた。おそらく、十六時くらい。
ヘアメイクの合間に小さな焼き菓子をいただいたりしたが、食事らしい食事はとれていない。空腹になるはずなのに、コルセットに締めつけられているせいか食欲が押さえ込まれているような感覚だ。
これはこれで便利かもしれない、もっと早くに知っていればよかった、などと考えながらリゼッタは回廊を歩いた。
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重厚な扉の前に着いたリゼッタは、一度だけ深呼吸をした。中でヴィルフォードが待っている──そう思うと、少し胸がざわざわとした。
──変なの……。
いつも通り顔を合わせるだけなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
たぶん、ドレスを着て、上品なヘアメイクを施されて、いつもの自分の姿ではないから。だから、変に緊張してしまうのだ。そういうことにしておこう。
リゼッタは背筋を伸ばし、扉をノックした。
扉を叩くと、すぐに「入れ」と声が返ってきた。「失礼します」と扉を開け、やっとヒールが馴染んできた足で一歩、室内へ。
視界に入ったのは──夜会用に仕立てられた衣装に身を包んだヴィルフォード。濃紺の礼服に、金の装飾品や刺繍が西陽を受けて鈍く光っている。長い銀髪は、より丁寧に整えられていた。
純粋に、「かっこいいな」とリゼッタは思った。それは別に好意とかではなくて。美しいものを見たときの、理由もなく、引力に引かれるように目を奪われる感覚に近かった。
いけない、いけない。淑女が立ち尽くしているなんて。気を引き締めるリゼッタ。
「お待たせいたしました。ヴィルフォード殿下」
パトリシア仕込みのカーテシー。スカートの端をふんわりと摘み、膝を折って、視線を床へ流す──も。そのまま、言葉が落ちてこない。
──あれ。
どこか変だったのだろうか。うまくできたと思っていたのだが。リゼッタは内心で首を傾げた。
沈黙が続く。落ち着かない。ほんの数秒程度だったが、体感では野草のブーケを作れてしまうくらい長く思えた。
「……殿下。私、どこか変でした?」
おそるおそる声をかける。
「……いや」
ヴィルフォードはわずかに視線を逸らし、何かを誤魔化すようにひとつ息をついた。
「ちゃんとやれてました? さっきのカーテシー」
「形だけなら問題ない」
「形だけ!?」
「途中から呼吸が乱れていた」
「なんでわかるんですか……!? っていうか、それは殿下が何も反応してくれないからですよ! 不安になるじゃないですか!」
「わざわざ返すまでもないだろ」
言葉に反して、ヴィルフォードの口元はわずかに上がっている。ほんの一瞬、空気がやわらいだ気がした。
「でも、ありがとうございます。こんな綺麗なドレスまでご用意していただいて。別人になったみたいです」
「別人、ね……」
呟いた彼の視線が、改めてリゼッタに向けられる。上から下、また上へと視線が戻って──ばちりと目が合った。綺麗な紫色の瞳。目を逸らせなくて、ほんの一瞬、呼吸が止まった。
「あの、似合ってますか?」
また沈黙。だけど、今度のは短かった。
「まあ……悪くない」
「ありがとうございます」
素っ気ない一言。けれどこの人の「悪くない」は、他の誰よりも「似合っている」と言われた気がした。
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王宮の前には、すでに夜会へ向かうための馬車が用意されていた。ここに来るときに乗った、田舎町から出ている古ぼけた馬車とは雲泥の差だ。同じ「馬車」と呼んでいいのか疑うほどに。
グレンが扉が開き、先にヴィルフォードが乗り込む。続いてリゼッタもスカートの裾を摘み上げながら、慎重に足をかけた。普段ならひょいと軽々乗り上げるのに、今日ばかりは動きひとつにも気を遣う。
なんとか腰を落ち着けると、馬車はゆっくりと動き出した。内装も、知っている馬車とはまるで違った。このまま空へ駆け上がってしまうのではないかと思うほど、車輪の音は静かで、揺れもほとんどない。なんだか、揺籠の中にいるみたいだ。
でも、眠くはならない。リゼッタは背筋を伸ばし、黙っていた。
──淑女らしく、お淑やかに。
リゼッタはひざの上で手を重ねて、人形のようにおとなしく座っていた。だが、それも一分ともたなかった。
「殿下は、緊張してないんですね」
向かいに座っているヴィルフォードは脚を軽く組み、背もたれに身を預けている。窓の外を見ている横顔。絵になる、と思う。場所を選ばない人だ。
「いまさら緊張もなにもない」
「慣れてそうですもんねえ」
「好き好んで行く場所ではないがな」
ふと、彼の視線が窓からリゼッタに移った。
「お前は緊張してそうだな」
「そりゃそうですよ。全部初めてのことですし」
訴えかけるようにぼやいて、リゼッタは少しだけ胸を弾ませながら笑った。
「でも、楽しみでもあります。全部初めてのことですから」
「浮かれるなよ」
ヴィルフォードの紫の瞳が、すっと鋭くなる。いつもと同じ目のはずなのに、温度が少し冷たくなった気がした。
「今夜はただの夜会ではない。気を引き締めておけ」
「……ただの夜会じゃない、というのは?」
「お前が知る必要はない」
ばっさり遮られる。リゼッタは「むむむ」とわざとらしく唇を歪ませて、少し考えてから懲りずに口を開いた。
「夜会にもいろいろあるんですか」
「ある」
「そうなんですね。では、私は何をすれば」
「予定通り、随行者として振る舞えばいい。ただし」
一瞬だけ間を置いて、わずかに低くなった声で続けた。
「余計なことに気づいても、気づかなかったふりをしろ。まちがっても、不用意に自分の役目を口にするな」
釘を刺すような物言いだった。けれど本当に信用していないなら、彼の性格上リゼッタを同行などさせないはずだ。最終確認、といったところだろう。
なんとなく理解していたリゼッタは、素直に頷いた。
「はい、任せてください。私、淑女ですから」
自信満々にリゼッタが言い切ると、ヴィルフォードが小さくため息をついた。
「先が思いやられる」
「ひどい!」
反射的に言い返したときにはもう、彼の目元はわずかに緩められていた。
その一瞬のやわらぎに、リゼッタは少しだけ肩の力を抜く。
──この人がいるなら、きっと大丈夫。
やがて馬車が速度を落とし、ゆっくりと停まった。




