第17話 誕生日
六月になった。
風に湿り気が混ざりだす。庭園で咲き誇っていた薔薇の旬が過ぎて、代わりに雨露を乗せて潤う頃。
毒見役になって、二ヶ月が経った。
食事も、今では少しだけ余裕を持って向き合えるようになっている。とはいえ、相変わらず美味しさに驚かされているのだけれど。
日々過ごしていく内に、ヴィルフォードの食事の好み、グレンの気の回し方、キースの機嫌がいい日のスープはほんのちょっぴり具が多い、ということまで把握しはじめていた。
エプロンの件は、あれきりだった。ジェシカの処分が広まったのか、あからさまな嫌がらせはぴたりとやんだ。
すれ違いざまの視線には、以前とは少し違う種類のものも混じっているような気がしていた。同期のメイドに「リゼッタってすごいよね」と言われたときは、何がすごいのかよくわからなくて首を傾げたものだが。その視線には、ナンシーに近いような温度感があった。
そして今日は、六月十四日。
リゼッタの十八回目の誕生日だった。
といっても、特別なことは何もない。王宮にいる人たちに、わざわざ自分の誕生日を伝える必要なんてないだろう。それがまだ入って半年程度の新人メイドなら、なおさらだ。
いつも通り朝の清掃を終えて、朝昼の毒見をこなして、午後の業務を片付ける。何も変わらない一日。
でも、せっかくの誕生日だ。
隙間時間にこっそりと庭園へ出たリゼッタは、隅のほうでしゃがみ込んだ。目当ては、青い小さな花。見慣れた、けれどこの季節にしか咲かない──ツユクサだった。
状態のいいものを一本摘み取って、軽く指先で整える。ぱくりと口に運んだ。
柔らかい。やっぱり他の野草よりクセもなくて、野草を食べたことがない人でも、きっと受け入れられると思う。実家でも、この時期はよく食卓に並んでいた。
葉を飲み込んで、リゼッタはほろりと思う。
──誕生日、かあ。
この日は、祖母とエマが「おめでとう」と言ってくれた。いつもより夕飯の量が少しだけ多かった。エマがツユクサの花で染めた、青い手作りのリボンをプレゼントしてくれた。
はたから見れば質素で、人からしたら満たされない誕生日になるのかもしれない。でもリゼッタにとっては、これ以上ないほどの誕生日だった。
──エマ、元気かな。
今ごろ、どんな顔をしているのだろうか。借金もほとんどなくなったし、少しは安心して過ごせているだろうか。
だったら嬉しい。不安がなくなれば、その分エマの体調もよくなる気がする。
──よし! お姉ちゃん、まだまだ頑張るからね!
慎ましいくらいの誕生日。だけど、悲しくはなかった。リゼッタは一人、庭園の隅で成人になった自分を祝った。
そうして、いつものような一日が終わる──と思っていた。夜の毒見までは。
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「ごちそうさまでした」
手を合わせて、いつも通りの報告をする。
「今日も、問題ありません」
「そうか」
短い返事。これもいつも通り。
だけど今日は、食後の甘味がなかった。ほんの少しだけ物足りなさを感じてしまう。唇をわずかにとがらせてすぐ、我に返った。
──いけない、いけない。
自分の役目は、あくまで毒見だ。味を楽しむことではない。なのに、いつの間にか“あるのが当たり前”になっていたらしい。なんて贅沢になってしまったのだろう。あのとき投げられた「身の程知らず」という言葉が、少しだけ胸を刺した。
リゼッタは小さく苦笑して、紅茶に口をつけた。温かく、さらりとした液体が喉を通り過ぎる。胸の奥に引っかかった小さな棘まで、溶かして流すように。
向かいでは、ヴィルフォードがまだ食事を続けている。その手元をさりげなく視界に入れながら、リゼッタはカップを傾け続けた。
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「今日はやけに静かだったな」
食事を終え、紅茶を飲むヴィルフォードからぽつりと落ちた言葉に、リゼッタは顔を上げた。
「え?」
「いつもより、口数が少ない」
「そ、そうですかね」
淡々とした指摘に、一瞬言葉が詰まる。
リゼッタはカップを置いて、少し考えてから笑った。
「すみません。今日は食後の甘味がなくて、少し残念だなって思っちゃって。ダメですよね、ただの毒見役がこんなに贅沢になっちゃ」
少し言い淀んでから、視線を落とす。
「それに……おばあちゃんやエマを差し置いて、自分だけこんなに美味しいものを食べていいのかなって、ちょっと後ろめたくなっちゃいまして」
言ってから、リゼッタは「あ」と思った。こんなこと、わざわざ口にする必要はなかったのに。しかも相手は殿下だ。
「なんて、変なこと言ってすみません。忘れてください」
「後ろめたい、か」
カップをソーサーに置いて、まっすぐにリゼッタを見る。
「お前が毒見役として健康でいることが、妹の薬代になる。お前が食べることと、妹が薬を飲めることは、繋がっている」
淡々とした声だった。だけど、胸の中に温かく広がっていくものがある。
「後ろめたく思う必要はない。胸を張れ」
リゼッタは何も言えなかった。
──そっか。繋がってるんだ。
自分が食べることと、エマが生きることが。それを繋げてくれたのは、他でもないヴィルフォードだ。この人がいなければ、リゼッタは今も出汁がらスープを啜っていただろう。一人で倒れて、誰にも気づかれないままエマへの仕送りも途絶えていたかもしれない。
目頭が、じんと熱くなった。泣きはしなかったけれど。でも、紅茶では流しきれなかった、胸の奥に引っかかっていた棘がすうっと抜けていく気がした。
「……ありがとうございます、殿下!」
「大げさだな」
ひと息ついたヴィルフォードが、視線をグレンに向ける。グレンが心得たように扉の外へ消えていった。
しばらくして戻ってきたグレンの手には、小ぶりなケーキが乗ったトレイがあった。整った丸い形に、真っ白なクリーム。ぷくりと膨らんだ赤々しい苺。
グレンが丁寧に、それをリゼッタの前に差し出した。
「……えと、これは」
「誕生日だろう」
目を丸くしてるリゼッタに、ヴィルフォードがさも当然のように言った。
「おめでとうございます」
「え、あ、はい……。ありがとう、ございます?」
戸惑いながら言葉を返すリゼッタに、グレンが柔らかく微笑んだ。
「で、殿下、これってもしかして、私の誕生日、ですか?」
「他に誰がいる」
「どうして、私の誕生日を」
「報告書に書いてあった」
そういえば、毒見役に任命される前に身辺調査されていたのだっけ。
「わざわざ? 私のために?」
問いかけても、ヴィルフォードは何も言わない。代わりに、グレンが「殿下のご指示で、俺が準備させていただきました」とにこやかに補足した。
──あの、殿下が?
リゼッタはたまらず視線をヴィルフォードへと向け直す。
ばつが悪そうに、ふいっと視線を逸らした。気のせいだろうか、耳の先がほんのわずかに赤く見える。
「私の……誕生日ケーキ」
リゼッタは改めてケーキと向き合った。小さくてシンプルで、でもとびきり丁寧に作られた一人分の──彼が用意してくれた、自分だけのケーキ。
「いただきます」
フォークを入れる。クリームとスポンジの柔らかさと、苺の果肉の感触が指先に伝わる。抵抗なくフォークに乗ったそれを、そっと口へ運んだ。
──美味しい……。
クリームとスポンジがしゅわりと溶けて、苺の酸味がふわりと後を追いかけてきた。甘いだけじゃない。だからその分、とびりき甘さが際立っているみたいな。
もうひと口。
頬と胸が、きゅっと縮む感覚がした。美味しい──でも、それ以上に。
こんなふうに、誰かに用意してもらったものだからだろうか。エマと祖母と囲んだ、あの小さな食卓を思い出す。あのときと今とでは、何もかもが違う。場所も、器も、一緒にいる人も。
それなのに。胸に広がる温かさだけは、あのときとどこか似ているものだった。




