第16話 感謝の贈り物
西棟へと近づくごとに回廊は広くなっていく。リゼッタが普段働く区画よりも天井が高く、大理石に弾かれる光の粒子もそれより強い。王族専用の区画付近だけあって、装飾は控えめながら、どれも質が違っていた。
最初は緊張で足がすくんだものだが、今ではすっかり見慣れた景色になっている。
──時間もいつも通り、っと。
今日もリゼッタは、いつもと同じ時間にいつもの回廊を歩いていた──はずだったのだが。
角を曲がったところで、足の速度がわずかに下がる。回廊の中程に上級メイドが一人、腕を組んで立っていたからだ。青みがかった髪を綺麗に結い上げた、目元の鋭い三十代後半くらいの女性。たしか、ジェシカといい名前だったはず。
すれ違いざまに「お疲れ様です」と会釈をすると、ジェシカが鼻を鳴らした。
「雑草メイドのくせに、ずいぶんと堂々と歩くものね」
足を止め、ジェシカへと顔を向けるリゼッタ。普段なら気にしない陰口の一種だったが、今回は明らかに足を止めさせるような意図が感じられた。
「何かご用ですか?」
「別に」
「じゃあ、私に何か問題があったとかですか?」
「……問題?」
「はい。わざわざここで待っていらっしゃったくらいですし、何かあるのかなって」
ジェシカの眉がぴくりと動く。
「……生意気ね」
「え、そんなつもりないですよ!? 問題があるなら治さなきゃですし、素直に聞いただけなんですが」
リゼッタは申し訳なさげに首を傾げた。本当に、ただそう思っただけだ。
「下級の分際で、どこまで増長すれば気が済むのかしら」
「増長……?」
さらに首を傾げるリゼッタ。少しだけ考えてから
「どこがですか? 私、ちゃんと仕事をしているつもりですよ」
と、かすかな疑問を抱きつつも自信ありげに続ける。
「殿下の毒見役にも任命されて、これまで以上に張り合いを持って働けていますし」
「……あなたの全部が生意気だって言ってるの」
ジェシカの鋭い目つきが、さらに細くなった。敵意と憎悪──品のある顔を溶かすように滲み出るドロドロとした負の感情が、隠しきれずに表へ出てきていた。
「サマンサはやけにあなたの肩を持つし、雑草を食べてたのも、どうせ殿下の気を引きたかっただけでしょう? うまく取り入ったものよね。これだから貧乏人は」
肩をすくめながら嘲笑するジェシカ。
彼女の言葉で、リゼッタの目の色が変わった。
「うちが貧乏なのは否定しません」
リゼッタの声から、いつもの柔らかさが少し消えた。
「ですが、雑草を食べていたのは、そんな浅はかな気持ちからではありません」
「……じゃあ、なんだって言うのよ」
「生きるためです。自分のためだけじゃなく、守らなければならない人のために。ジェシカさんには私がどんな思いで野草を食べていたのか、わからないと思います」
ジェシカの表情が歪んだまま固まった。目だけが、せわしなく動いている。
「だから……それが気に食わないって言ってるのよ! そういう無頓着で無神経なところ! エプロンだって、普通あんなことされたら辞めるでしょう!?」
言い切ったジェシカの目が、はっと見開いた。かすかに口が開いたが、動いただけで何も言葉は出てこない。動揺しているのは一目瞭然だ。
「私のエプロンを切ったの、ジェシカさんなんですね」
断定だった。ジェシカからの否定もない。
「気に障ったのならすみません。だけど……私、辞めませんよ。守るべきものが増えましたから」
一歩、前へ踏み込む。
「殿下の命を守るのが、私の役目です」
凛と、揺るぎのない声。どんなに風に吹かれても、どれだけ雨に打たれても、野に咲く草花のように折れない強さがあった。
「……はっ。あなたが、殿下を?」
ジェシカが嗤った。
「その辺の雑草が、薔薇を守れるわけないじゃない。身の程を知りなさい!」
「そうですか? 雑草って結構しぶといですし、何度だってよみがえりますよ」
にこりと、いつも通りの調子で返す。
「それに雑草って、綺麗な花を守るために引っこ抜かれたり、刈り取られしちゃう存在なんですよね」
ジェシカの口元がひくりと動いた。
それに気づく様子もなく、リゼッタは微笑んだまま曇りない瞳をジェシカに向け直した。
「私は、殿下を守れるなら、そうなっても構わないんです」
「減らず口も、いい加減に……!」
ジェシカの手が上がりかかった、その瞬間。
「そこまでだ」
低い声が回廊に落ちた。
ジェシカの動きが止まる。リゼッタも、反射的に振り返った。彼女たちの視線の先にいたのは──銀色の長い髪をはらりと揺らしたヴィルフォード。
いつからそこにいたのだろうか。切れ長のアメジストの目は、二人のメイドをまっすぐに捉えていた。
「時間になっても来ないから、どうしたかと思えば。さて、これはどういう状況だ?」
「で、殿下……! これは、その……!」
先に口を開いたのはジェシカだった。
「リゼッタの態度に問題がありまして! 少し、教育を……」
「教育、ね」
ヴィルフォードの目が、すうっと細くなった。
「王宮からの支給品に細工をし、毒見役の妨害をした。加えて今の行為。それが、教育だと?」
静かで、鋭い声。抑揚のないそれは、大喝よりも回廊に重く響く。
ジェシカから、ぐっと息を詰まらせる音が聞こえた。見えない刃の鋒が、彼女の喉元にじりっと迫るようだった。
「ジェシカ、だったか。今日付けで上級メイドの地位を剥奪する。当然、西棟への立ち入りも、だ」
「そ、そんな……! 私はただ秩序を守ろうとしただけで……! 身の程をわきまえてないメイドに注意を……!」
「三つ」
ヴィルフォードがジェシカの訴えを押しつぶす。
「細工、妨害、暴行。処分の理由には十分すぎる。弁解の余地はない」
言うだけ言って、彼は視線を外す。もはや、これ以上言葉を交わす価値はないと言わんばかりの振る舞い。向けられていた刃に貫かれたように、ジェシカはその場に膝から崩れ落ちた。
一人のメイドの人生が終わった──いや、終わらせた瞬間だったのに。ヴィルフォードは、そんなことは最初から存在しなかったかのように、リゼッタの手首をつかんで歩き出した。
「いくぞ」
「え、あ、はい……!」
引かれるままに足を動かしながら、リゼッタはちらりと後ろを振り返った。
「さすがに重すぎませんか? 厳重注意とかで……」
「黙って歩け」
短く遮られる。その手は、回廊の角を曲がるまで離れなかった。
.。゜:*:✼.。
昼の毒見を終えたリゼッタは、また普段の業務に戻っていた。
廊下を拭いて、洗濯物を取り込んで、アイロンをかけて。いつも通りの仕事を、いつも通りこなしていく。
だけど業務中、今日はなんとなく手首のあたりが熱を持っている気がして、何度かそこに視線が落ちた。
窓の外が淡く宵に染まりだした頃。
リゼッタは真っ黒なワンピースのポケットをそっと確かめた。小さな包みが、ちゃんとある。
よし、と軽く頷いて西棟へ向かった。
.。゜:*:✼.。
「ごちそうさまでした」
役目を終えたリゼッタが手を合わせる。今日の夕食のメニュー──ではなく、毒見は仔羊のロースト。ハーブの香りと、にんにくの香ばしさがじわりと染み込んだ肉は、噛むほどに旨みが広がった。
「『ごちそうさま』を言う毒見役なんて、お前くらいだろうな」
「食べ物への感謝は大事ですから」
えへん、と胸を張るリゼッタに、ヴィルフォードが小さく息をついた。
ヴィルフォードが食事の間、リゼッタは小皿に盛られた焼き菓子を口にしていた。
彼は食後の甘味には興味がないらしく、手をつけることはほとんどない。だからというわけでもないのだろうが、毒見を終えたリゼッタの前には、いつの間にかそれが用意されるようになっていた。
今日のはスライスアーモンドが乗った、薄くてさくさくしたやつだ。歯にキャラメルがくっつくけど、それが溶けていく感覚も新鮮だった。たしか、フローラルみたいな名前。いつかちゃんと、全部覚えてやろう──と、ひそかに思っている。
ヴィルフォードが食事を終え、グレンが食器を下げはじめる。退室前、リゼッタはワンピースのポケットに手を入れた。
「あの、殿下」
「何だ」
「これ、よかったら」
差し出したのは、小さな白い包みだった。
「最近、またクマが目立ってきましたので。よく眠れるといいなって思って、カモミールの入った香り袋を作ってみました」
ヴィルフォードは包みを見て、それからリゼッタを見た。何も言わない。
「……あ、もちろん『食べて』なんて言いませんよ! 枕元に置いてもらえれば」
「わかっている」
短く言って、ヴィルフォードは包みを受け取った。
「余計なことを」
「すみません」
口では謝っているものの、リゼッタの声色と表情は反省しているそれではなかった。
「あとは、今日のお礼も兼ねて、ですかね」
少し改まって頭を下げるリゼッタ。
「今日は、助けてくださってありがとうございました」
「助けたつもりはない。処分すべき案件だっただけだ」
「でも、殿下、全部聞いてましたよね」
ヴィルフォードの瞳が、わずかに揺らいだ。
「細工、妨害、暴行って口にしてましたし。つまり、最初からその場にいたってことですよね。叩かれる前に、来てくださったんですよね」
「……」
「ですよね?」
沈黙が答えだった。リゼッタはそれ以上追及しなかった。
「ありがとうございます。あの処分は、さすがにちょっと重い気がしてますけど」
「当然の処分だ」
「だから『冷酷』なんて言われちゃうんですよ」
「ほっとけ、雑草メイド」
少しだけ拗ねたような、つんとした言い方。思わず笑ってしまう。
「殿下にまで『雑草メイド』って言われるなんて、思ってませんでした」
ヴィルフォードの視線が、目のやり場に困ったようにリゼッタから逸れる。それきり口を閉じた。
「今日もお世話になりました。殿下がよく眠れますように」
三つ編みが地面に引かれているくらい深く一礼して、扉を閉める。閉まりきる直前、ヴィルフォードの手が白い包みを確かめるように握っているのが一瞬だけ見えた気がした。
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