第10話 ◆殿下の憂鬱
「今日から、よろしくお願いします!」
底抜けに明るい声。ヴィルフォードは、わずかに目を細めていた。
毒見役を宣言された瞬間は、あれほど狼狽えていたというのに、金貨五枚の一言でこうも変わるとは。現金なやつだと思う。思うが──不思議と、悪い気はしなかった。
「そうと決まれば、じっとなんてしてられません。私、今から働きます!」
「お前は今、療養中だ」
「でも半日寝ましたし、お粥もいただいたので元気です! それに、このまま部屋にいたら今日の分の給金が」
「給金は出る」
「え」
「療養を命じたのは俺だ。お前の責任じゃない」
リゼッタがぱちぱちと瞬きをした。それからまた、あの顔になった。困ったような、でも嬉しそうな、どちらとも取れる顔だ。
「でも、じっとしてるのは苦手で……」
もじもじと指を動かしている。小動物のような落ち着きのなさ。全身から湧き上がる喜びを、持て余しているようでもあった。
ヴィルフォードから小さなため息がもれる。
「……夕方、執務室に来い。毒見役の仕事を説明する。それまでは好きにしろ」
「はい! ありがとうございます!」
勢いよく立ち上がったリゼッタが深々と頭を下げた。
「助けていただいて、お粥もいただいて、毒見役まで。本当に何とお礼を申せばいいか」
「だから、礼はいいと……」
「いえ、ありがとうございます。殿下は命の恩人ですね」
屈託のない笑顔。陽の光をそのまま表したような、眩しいほどの笑みだった。
あれだけの身の上を話しながら、最後まで笑っていた。笑っていたほうが前に進める気がしないか、と言っていた。そして、毒入り紅茶を飲まされたのに、それすらなかったことのように笑っている。
──あれは、強がりでも何でもないようだな。
能天気というべきか、図太いというべきか。だが、彼女の笑顔には嘘がない。作って貼り付けた笑顔でも、愛想笑いでもない。本当に、芯からそういう人間なのだ。
「……もう行け」
「かしこまりました! 失礼します!」
扉が勢いよく閉まったあと、部屋に静寂が戻った。
グレンが振り返らないまま、肩を小刻みに震わせている。
「……何がおかしい」
「いえ」
「どう見ても笑っているじゃないか」
グレンは答える代わりにヴィルフォードへと振り返り、笑みを強めた。床にしゃがみこんで、割れたティーカップの破片を集め始める。
「殿下にあれだけ遠慮なく物を言える人なんて、王宮広しといえどもそういませんよ。初対面の夜に草を食えと勧めてくるメイドなど、なおさら」
「……うるさい」
「殿下が気に留められるのも、無理はないかと」
グレンが微笑む。意味深長に。ヴィルフォードは何も言わなかった。
気にかけている──それは事実だ。理由はうまく言葉にできない。だが、あの夜。月に照らされた中庭で野花を差し出してきた、あの無垢な笑顔。
“──殿下も、食べてみます?”
その一言が、頭から離れなかった。こちらの顔色など気にも留めないように、ためらいもなく差し出された小さな花。場違いなほど無遠慮なそれは、眠れないヴィルフォードへの、彼女なりの心遣いだだったのだ。
困惑だと思っていた。得体の知れない人間への興味だと思っている。今も、その認識は変わらない。
ああいうタイプの人種は、次に何をしでかすかわからない。だから、彼女は目の届く場所に置いておくほうが無難だろう。毒見役も、ちょうど欲しかったところだ。使える人材であることに違いはない。それに、知らない所でまた倒れでもしたら後処理が面倒だ。
それ以上の理由など、ない──はずだ。
「カモミール、彼女からの贈り物だったのですね」
破片を拾い終えたグレンが、立ち上がりながらにこやかに言った。
「贈り物などと言える代物か。庭に生えている野花だ」
「でも殿下、捨てませんでしたね」
「……」
「貧しい育ちで、自分の食事すら削っている彼女からすれば、あれは立派な贈り物だったのではないでしょうか」
ヴィルフォードは黙っていた。
捨てる理由はいくらでもあった。だが、捨てなかった。彼女の言ったとおり、枕元に置いた。眠れない夜に、かすかな香りがした。悪くなかった。ただ、それだけのことだ。
「毒見役に任命されたのも、合理的な判断ですか」
「そうだ」
「では、特別手当に金貨五枚を提示されたのも」
「彼女の事情に見合った額だ」
「彼女の借金の額まで把握した上で、ですね」
「……情報収集なんて、当然のことだろ」
「なるほど」
グレンが穏やかに頷いた。否定でも肯定でもない口調。それがかえって、ヴィルフォードには居心地が悪かった。
「何が言いたい」
「何も」
「言え」
グレンが小首を傾げて、少し間を置いた。
「……殿下が誰かのために走っているところなんて、初めて見ました」
ヴィルフォードの眉がわずかに寄る。
「リゼッタさんを抱えて、ここまで連れてくるまでの間、殿下は一度も立ち止まりませんでしたよね」
「……倒れた人間を放置する主義ではない」
「はい。でも」
少し垂れた赤褐色の瞳が、まっすぐにヴィルフォードを見つめ直す。普段は飄々としているくせに、今だけは妙に鋭い視線だ。
「殿下が合理的な判断と呼ぶものが、今回に限っては少し、様子が違うように見受けられまして」
「……お前も、もう行け」
「かしこまりました」
退室する直前、グレンは小さく笑った。扉が静かに閉まる。
ひとりになった部屋で、ヴィルフォードはしばらく動かなかった。窓から春の風がさらりと流れ込んできた。かすかに感じる、甘い香り。
カモミールに似ている気がした。




