家の名誉
キョウ城。
降伏から数日後。
城の空気は、以前とはまるで違っていた。
戦が終わったという安堵は確かにある。
だが、それ以上に――妙な静けさがあった。
城内の廊下を、役人たちが小声で歩く。
兵士たちも、どこかぎこちない。
誰も大きな声を出さない。
理由は一つだった。
城主が、部屋から出てこない。
城主の居室の前には、家臣が二人立っていた。
だが、扉は閉じたままだ。
中から時々聞こえるのは、物音だけ。
「……まだですか」
若い家臣が小声で言う。
隣の年長の家臣がため息をつく。
「三日だ」
「三日……」
「部屋から出ていない」
城主は、降伏したその日の夜に帰城してから、ほとんど姿を見せていなかった。
食事は部屋の前に置かれる。
だが、家臣の前では決して扉を開けない。
夜中に皿だけが下げられている。
完全に、引きこもっている状態だった。
若い家臣が言う。
「……やっぱり」
「なんだ」
「町の噂」
年長の家臣は顔をしかめた。
「……あれか」
若い家臣は小さく頷く。
城下町では、もうすでに広まっている。
あの出来事。
巨大な鉄騎。
町中に響いた声。
そして。
「腰抜け城主」
という言葉。
あの声は、町のほとんどの人間が聞いていた。
兵も。
商人も。
子供も。
当然、城に戻った兵たちもそれを知っている。
そして――
人間というのは、こういう話を忘れない。
若い家臣が言う。
「城下の子供が……」
「やめろ」
年長の家臣が止める。
だが若い家臣は言ってしまう。
「城の前で」
「やめろと言った」
「腰抜け城主ーって」
年長の家臣は顔を覆った。
「……最悪だ」
城主に聞こえていないことを祈るしかない。
その時だった。
扉の向こうから、声がした。
「……聞こえている」
二人は凍りついた。
扉の向こうの声は、力がない。
「全部……聞こえている……」
静かな沈黙。
若い家臣の顔が青くなる。
「も、申し訳ありません!」
慌てて頭を下げる。
だが扉は開かない。
中から、ため息のような声が聞こえる。
「……私は」
城主は呟いた。
「城主なのだ」
その言葉には、まだ少しだけ意地が残っている。
「城主が……」
小さく続く。
「腰抜けとは……」
沈黙。
そして、ぼそりと言った。
「……あいつのせいだ」
もちろん、あの鉄騎乗りのことだ。
巨大な鉄騎。
町中に流れる声。
そして盾でコクピットを小突かれたあの瞬間。
思い出すだけで、胃が痛くなる。
城主は、頭を抱えていた。
「……あれは卑怯だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「町中に……あんなことを」
確かにそうだ。
普通、城主にあんなことを言う人間はいない。
だが。
町の人間は、もう知ってしまった。
城主が、鉄騎に踏まれて動けなくなり。
盾でコクピットを小突かれただけで。
「降伏する!!」
と叫んだことを。
城主は机に突っ伏した。
「……終わった」
完全に落ち込んでいる。
――その時。
廊下に、静かな足音が近づいてきた。
家臣たちが振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
城主の娘だ。
まだ若い。
だが、その背筋は真っ直ぐで、目に迷いはない。
「……父上は、中に」
年長の家臣が言う。
娘は小さく頷く。
「下がってください」
その一言に、二人は顔を見合わせた。
だが、逆らうことはできない。
静かに、その場を離れる。
娘は扉の前に立つ。
一瞬だけ、目を閉じる。
そして――
「父上」
声をかけた。
中で、わずかに物音がする。
「……なんだ」
弱い声。
娘は、ためらわなかった。
「お話があります」
沈黙。
やがて、城主が答える。
「今は……」
「今です」
遮る。
はっきりとした声だった。
部屋の中で、空気が変わる。
「……入れ」
扉が、ゆっくりと開いた。
部屋の中は、暗かった。
城主は机に座り、顔を上げる。
娘を見る。
そして――目を逸らした。
「……何の用だ」
娘は、一歩進む。
「父上」
その声は、静かで。
冷静だった。
「家の名誉について、お話しに来ました」
城主の肩が、わずかに震える。
「……やめろ」
娘は続ける。
「城下では、“腰抜け城主”と呼ばれています」
「やめろと言っている!」
机を叩く。
だが、その声には力がない。
娘は止まらない。
「兵も知っています」
「家臣も知っています」
「民も知っています」
一歩、さらに近づく。
「このままでは――」
短く、区切る。
「ミツノの名は、地に落ちます」
沈黙。
城主は何も言えない。
娘は、深く息を吸い。
そして。
はっきりと告げた。
「父上」
その目は、揺れていない。
「切腹なさってください」
時間が止まった。
城主の顔が、ゆっくりと上がる。
信じられないものを見る目。
「……何を、言っている」
「家の名誉を守るためです」
即答だった。
「城主としての責任を、示してください」
「私は……!」
言葉が詰まる。
娘は続ける。
「降伏自体は、誤りではありません」
「だが、その過程が問題です」
静かに、しかし容赦なく。
「誇りを失ったまま生きるよりも」
一瞬、言葉を区切る。
「誇りを示して死ぬ方が、名は残ります」
城主の手が震える。
「……お前は」
かすれた声。
「私に死ねと言うのか」
娘は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
「はい」
迷いなく。
「それが、キョウのためです」
長い沈黙。
城主は、何も言えなかった。
ただ、椅子に座ったまま、動けない。
娘は頭を下げた。
「ご決断を」
それだけ言って、部屋を出る。
扉が閉まる。
静寂。
城主は、動かない。
ただ――
机の上に置かれた短刀に、ゆっくりと視線を落とした。
手は、まだ震えている。
その頃。
城下町では――
酒場が賑わっていた。
「聞いたか」
商人が言う。
「聞いた聞いた」
兵が笑う。
「町中で呼び出されたんだろ」
「そうそう」
別の男が言う。
「腰抜け城主って」
「三回言ったらしいぞ」
「もっとだろ」
笑いが広がる。
誰かが真似をする。
「もし誇りがあるなら出てこい!」
酒場が爆笑に包まれる。
そして誰かが言う。
「でもよ」
少し真面目な声だ。
「戦は終わったんだろ」
「ああ」
「降伏した」
「なら、まあ……」
酒を飲みながら頷く。
「結果はいいんじゃねえか」
城主の評価は散々だ。
だが。
町としては、戦が終わった。
それだけでも意味はあった。
そして。
その頃。
ヒノクニ城では。
クニヒトが報告書を読みながら、少し笑っていた。
「……腰抜け城主か」
横に立つハナコが言う。
「完全に定着しましたね」
クニヒトは巻物を閉じる。
「まあいい」
静かな声だった。
「これであいつも、少しは変わるだろう」
ハナコが言う。
「変わりますかね」
クニヒトは少し考えた。
「……さあな」
そして小さく言った。
「だが少なくとも」
遠くの城下町を見る。
「もう逃げられない」
キョウ城主。
かつて何度も決闘を避けた男。
そして今。
国中でこう呼ばれている。
腰抜け城主、と。




