静かな遭遇
夕方。
学園から城下へ続く石畳の道は、昼の喧騒が嘘のように落ち着いていた。
決闘の余韻はまだ空気に残っているが、人の流れはすでに日常へ戻りつつある。
広場から続く坂道の両側には、古い街路樹が並んでいた。
昼間は学生たちが騒ぎながら行き来する道だが、今は静かだ。
葉が揺れる音。
遠くで荷車の車輪が石畳を鳴らす音。
屋台の火を起こす、ぱちぱちという小さな音。
そういう、街の夜が始まる前の音だけが、ゆっくりと流れている。
ハイドとイーリスは、並んで歩いていた。
歩幅は自然に揃っている。
ハイドは、学園の制服の襟元を少し気にしている。
動きやすいとは言え、まだ身体に馴染んでいない。
首元に触れる布が、どうにも落ち着かない。
何度か指で引っ張り、少し緩めてみる。
だが結局、また元に戻る。
イーリスは、同じ制服を着ている。
だが背筋が伸び、無駄な動きがない。
歩き方も静かだった。
靴音もほとんど立たない。
まるで、訓練された兵士のような歩き方だ。
「今日は、疲れたな……」
ハイドが、独り言のように言う。
声は小さい。
だが、周囲が静かなため、はっきり聞こえる。
「はい、精神的負荷が高い一日でした」
イーリスは、淡々と答える。
声音に変化はない。
「精神的、って言う割には、全然疲れてなさそうだな」
ハイドは、半分冗談で言った。
イーリスは、少しだけ考えてから答える。
「私は機械ですので比喩表現です」
「機械って言うなよ……」
ハイドは、小さく笑う。
「普通に言えないのか。
その言い方」
「努力します」
「ほんとか?」
「努力する予定です」
「予定ってなんだよ」
そんなやり取りをしながら、二人は坂道を下っていく。
城下の入り口が、少しずつ近づいてきた。
石造りの門。
その向こうに、城下町の灯りが見える。
夕方の光は、すでに薄くなり始めていた。
屋台の煙が、ところどころに上がっている。
香ばしい匂いが、風に乗って流れてくる。
肉の焼ける匂い。
香草の匂い。
油の匂い。
ハイドの腹が、小さく鳴った。
「……腹減ったな」
ぽつりと漏らす。
イーリスは、即座に反応する。
「栄養補給は重要です」
「言い方が、なんか作業みたい」
「事実です」
ハイドは、肩をすくめる。
「まあ、そうだけどさ」
そんなやり取りをしていた、その時。
「すまない」
低く、よく通る声。
二人の前方、少し横から、声がかけられた。
ハイドは、反射的に足を止める。
イーリスも、同時に止まる。
視線を向ける。
そこに立っていたのは、見覚えのある男だった。
長い黒髪。
背中まで流れる髪を、一本の紐で長く束ねている。
異国風の装束。
鎧でもなく、貴族服でもない。
腰には、長い刀のようなものが差してある。
決闘を観察していた人物。
だが、今の彼は、肩の力を抜き、穏やかな表情をしている。
まるで、ただの旅人のようだった。
「観光で来ていてな。
この辺りで、評判の良い屋台を知らないか?」
あまりにも、普通の問いだった。
ハイドは、一瞬、言葉を失う。
観光。
その言葉が、頭の中で引っかかる。
観光客。
そう言われれば、そう見えなくもない。
だが、何かがおかしい。
イーリスは、男の背後に立つ女へ、ちらりと視線を向ける。
女は、静かに立っている。
白磁のような肌。
優雅な装い。
だが、その姿勢は、完全に戦闘者のものだった。
視線は泳がない。
呼吸も乱れない。
周囲の人間の動き。
逃走経路。
遮蔽物。
それらを、無意識に確認している。
護衛。
イーリスは、即座にそう判断する。
「……えっと」
ハイドが、少し戸惑いながら口を開く。
「屋台、ですか?」
「ああ」
男は、頷く。
「酒と、肉。
できれば、地元の者が通う場所がいい」
ハイドは、思わずイーリスを見る。
イーリスは、一瞬考え、答えた。
「城下南区画に、露店が密集する通りがあります。
日没後に開く串焼きの屋台は、評判が良いです」
男は、目を細める。
「ほう。
随分と詳しいな」
「資料として、把握しております」
「観光案内の資料か?」
「生活圏のデータです」
ハイドは、小さくため息をついた。
「……あの、俺から説明します」
男は、楽しそうに頷く。
「頼む」
ハイドは、城下の方角を指しながら説明を始める。
「この坂を下って、門を抜けて、
まっすぐ南に行きます」
男は、黙って聞いている。
視線は真剣だ。
「それで、石橋があるんです。
川を渡る橋」
「川か」
「はい」
ハイドは、思い出しながら言う。
「夕方になると、煙がいっぱい上がる通りがあるんです。
串焼きの屋台が並ぶ場所」
男は、頷く。
「なるほど」
「そこです」
男は、少し考えたあと、言った。
「助かった」
軽く頭を下げる。
「礼を言う」
その仕草は、自然だった。
旅人としては、何もおかしくない。
だが、どこか隙がない。
「君たちは、学園の生徒か?」
男は、そう続けた。
ハイドは、少し迷ってから答える。
「はい」
「そうか」
男は、どこか含みのある笑みを浮かべる。
「この国は、面白い」
その言葉に、イーリスが反応する。
「どの点がでしょうか」
男は、すぐには答えない。
少しだけ、夜空を見上げる。
空は、すでに群青色になり始めていた。
最初の星が、一つだけ見えている。
「強き者が、前に出る」
男は、ゆっくり言った。
「それを、王が止めぬ」
イーリスは、静かに言う。
「女王陛下は、合理性を重んじます」
「知っている」
男は、あっさり言った。
ハイドは、違和感を覚える。
知っている。
観光客が言う言葉ではない。
男は、二人を見て、穏やかに言った。
「君たちのような存在が許される国は、
長くは続かないか」
一瞬、言葉を切る。
風が、少し強く吹いた。
「あるいは」
男は、続ける。
「大きく変わるかだ」
背後の女が、低く言う。
「お戯れを」
男は、軽く手を上げる。
「すまない」
小さく笑う。
「観光客にしては、話が過ぎたな」
そう言って、改めてハイドを見る。
「君」
「は、はい」
「今日の決闘を、どう思った?」
唐突な質問だった。
ハイドは、少し考えた。
頭の中に、決闘の映像が浮かぶ。
クラウンの動き。
女王の操作。
敵機の崩れ方。
「……正直」
ハイドは言う。
「凄かったです」
男は、黙っている。
「それだけか?」
ハイドは、少し考える。
「……俺には、できない戦い方だと思いました」
男の目が、少し細くなる。
「ほう」
「でも」
ハイドは、続ける。
「俺は、俺のやり方で、前に立ちます」
その瞬間。
空気が、わずかに変わった。
男は、静かに笑った。
「いい答えだ」
背後の女が、わずかに目を見開く。
男は、ゆっくり頷いた。
「若いな」
「はい」
イーリスが、自然に会話に入る。
「ですが、成長余地があります」
男は、愉快そうに言う。
「それが一番厄介だ」
少しの沈黙。
男は、ふと思い出したように言う。
「名乗るのを忘れていたな」
胸に手を当てる。
「名は、すぐに分かる」
軽く笑う。
「今はただの旅人だ」
イーリスは、即座に理解する。
偽名すら名乗らない。
それは、身分を隠す者の態度だ。
男は、踵を返す。
「教えてもらった屋台、行ってみる」
「はい」
ハイドが答える。
男は、歩き出す前に、振り返った。
「少年」
「?」
「次に会う時は」
一拍置く。
「もう少し、重い話をしよう」
それだけ言って、去っていった。
女は、最後まで二人から目を離さなかった。
警戒心を解くことなく、男の半歩後ろを歩く。
足音は静かだ。
人混みの中へ、二人の姿が溶けていく。
やがて、完全に見えなくなった。
しばらく、沈黙。
「……なんだったんだ、今の」
ハイドが言う。
イーリスは、すぐには答えない。
数秒、考えてから言った。
「観光客です」
「観光客じゃないよな」
「はい?」
「敵?」
「現時点では、判断不能です」
ハイドは、息を吐いた。
「厄介そうだな……」
イーリスは、わずかに頷く。
「ですが」
一拍置いて。
「ハイド様の返答に、
興味を示していました」
「それ、良いことか?」
「はい」
イーリスは、はっきり言う。
「無視できない存在として、
認識された可能性が高いです」
ハイドは、苦笑した。
「嬉しくねぇ……」
二人は、再び歩き出す。
坂を下る。
城下の灯りが、少しずつ近づいてくる。
屋台の煙。
人の声。
夜の匂い。
その背後で。
静かに。
別の歯車が、確実に噛み合い始めていた。
まだ誰も知らない形で。




