問い
部屋の中は、異様なほど静かだった。
視線を逃がさない。
どこを向いても、白がこちらを見返してくる。
まるで「逃げ場はない」と言われているみたいだった。
俺は、窓の下に置かれた椅子に腰を下ろし、外を見ていた。
高い位置に設けられた窓から見えるのは、城壁の一部と、その向こうに切り取られた空だけだ。雲の流れすら、ここからだと遅く感じる。
それでも――
炭鉱よりは、ずっとましだった。
暗闇でも、狭さでもない。
「閉じ込められている」と分かる形をしていることが、むしろ救いだった。
俺は、ぼんやりと外を眺め続けていた。
考えようとすると、頭の奥がざわつく。
何を考えればいいのかも、分からない。
――そのとき。
「ハイド」
名前を呼ばれた瞬間、体が跳ねた。
反射的に立ち上がり、椅子が床を擦る音がやけに大きく響く。
扉の方を向くと、そこに“女”が立っていた。
知らない顔だった。
城で見かける侍女とも違う。
貴族の女性とも違う。
装飾も、威圧感もないのに、目が離せない。
白に近い肌。
整いすぎた輪郭。
無駄な動きのない立ち姿。
そして――
こちらを真っ直ぐに捉える、澄み切った視線。
「……誰?」
思わず、声が低くなる。
警戒しているつもりだった。
でも、相手はそれを気にした様子もなく、一歩こちらに近づいてきた。
距離が、近い。
「やっと会えましたね」
柔らかい声だった。
耳に心地いいはずなのに、なぜか背中がぞわりとする。
「ずっと、あなたに会いたかったんです」
心臓が、嫌な音を立てた。
意味が分からない。
会ったこともない。
なのに、最初から俺を知っているみたいな言い方。
「え……?」
戸惑う俺を見て、彼女は少しだけ笑った。
その笑顔は、作られたもののようでいて、どこか自然でもあった。
「こうして見ると……やっぱり素敵です」
視線が、俺の顔をなぞる。
値踏みされている感覚に、喉が詰まる。
「思っていたより、ずっと」
一歩、また一歩。
彼女は躊躇なく距離を詰めてくる。
「ちょ、ちょっと……!」
後ずさる俺に、彼女は首を傾げた。
困惑でも、拒絶でもない、純粋な疑問の仕草。
「おかしいですね」
「この反応は……想定より悪い」
……反応?
言葉の意味が、頭に引っかかる。
彼女は一度立ち止まり、顎に指を当てた。
その仕草すら、計算された動きみたいだった。
「距離が近すぎましたか?」
「それとも、言葉の選択?」
「それとも……表情?」
ぶつぶつと、独り言のように呟く。
俺の存在が、実験対象みたいに扱われている気がして、胸がざわついた。
そして、もう一度、俺を見る。
「ハイド」
今度は、やけに甘い声だった。
意図的に変えられたと、はっきり分かる。
「あなたのことが――」
「待ってください!」
思わず、遮っていた。
「意味が分かりません!」
「あなた、誰なんですか!」
声が、少し裏返る。
それでも言わずにはいられなかった。
その言葉に、彼女は目を瞬かせた。
ほんの一瞬の沈黙。
そして――
はっきりと、“切り替わる”。
「……理解しました」
声が変わった。
感情の揺れが消え、均一で、澄んだ響きになる。
「先ほどの対話パターンは不適切でした」
「感情的親和性を重視しすぎました」
彼女は一歩下がり、背筋を伸ばした。
姿勢が整う。それだけで、別人のように見える。
「改めまして」
「私は、イーリスです」
その名前を聞いた瞬間、胸がざわついた。
理由は分からない。
でも、聞いたことがある気がした。
「私は、あなたの鉄騎に搭載された人工知能です」
「先ほどの振る舞いは、対人接触最適化の試行でした」
……人工、知能?
頭が、追いつかない。
「……人、じゃない?」
恐る恐る聞くと、イーリスは迷いなく頷いた。
「はい」
「私は道具です」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
誇りも、卑下もない。
「あなたが望めば、力がそれを叶えます」
「それが、私の役割です」
道具。
力。
望めば叶える。
炭鉱で、鞭を振るわれていた俺には、どれも現実味のない言葉だった。
そのとき――
部屋の中に、影が落ちた。
窓の方を見ると、外が暗くなっている。
いや、違う。
立っている。
窓の外に、白い巨体があった。
思わず、息を呑む。
白を基調にした装甲。
だが、関節や縁には、かつて見た緑の色が残っている。
騎士のように直立し、巨人はゆっくりとこちらを向いた。
俺の、鉄騎。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
炭鉱で、無理やり掴まれ、押し込まれ、走った記憶。
怖かった。
逃げたかった。
なのに――
今は、なぜか懐かしい。
イーリスは、窓の外の鉄騎を一瞥し、再び俺を見た。
「再塗装および最低限の調整は完了しています」
「現在、あなたの指示待ち状態です」
指示?
俺が?
「……どう、するんですか」
震える声で聞くと、イーリスは少しだけ首を傾げた。
「それを決めるのは、あなたです」
そして、はっきりと告げた。
「乗りますか」
「それとも――ここに、留まりますか」
窓の外で、白と緑の騎士が黙って立っている。
城の中の白。
守られた檻。
鉄の白。
外へ繋がる力。
俺は、まだ何者でもない。
主体性も、覚悟も、きっと足りない。
それでも――
あの鉄の巨人が、俺を見ている。
答えを、待っている。
城内は、目に見えない形ではっきりとざわつき始めていた。
原因は一つしかない。
白と緑の鉄騎が、城の外――それも、王の居室に隣接する区画の窓の向こうに立っている。
それだけで十分だった。
鐘が鳴ったわけでも、命令が下ったわけでもない。
だが、城という閉じた空間の中で、「異変」は瞬く間に共有される。
騎士たちが歩みを止める。
工房の人間が気まずそうに視線を逸らしながらも、確かめずにはいられない。
近衛は槍の位置をわずかに修正し、使用人たちは息を潜める。
誰も声を上げない。
だが、全員が同じものを見ていた。
王家の色。
白を基調にしながら、緑――
旧来の系譜を否定せず、同時に塗り替えている色。
ハイドは、その中心にいた。
だが、彼自身は何も言えない。
何も分からないまま、ただ窓の向こうを見ている。
あの巨体が、自分のものだという実感はまだ薄い。
だが、炭鉱で触れた冷たさと重さが、確かに記憶として残っている。
視線を外すことができなかった。
その横に、イーリスが立っている。
人混みの中でも、彼女は不思議と目立たない。
動かず、喋らず、主張しない。
だが、気づけば必ずそこにいる。
「判断は未確定」
「了解しました。保留ですね」
あまりにも淡々とした声だった。
少し前まで見せていた、感情を模倣するような口調は消えている。
抑揚は最小限。
情報伝達に最適化された、初期状態の音声。
イーリスは一歩、ハイドに近づく。
距離は、近すぎず、遠すぎず。
肩が触れないぎりぎりの位置。
「私は質問を撤回します」
「決断が必要になった時、再度お伺いします」
それだけ言って、彼女はもう鉄騎の方を見ない。
ハイドではなく、周囲でもなく、
“今は見る必要がない”と判断した対象から、完全に意識を切り離した動きだった。
周囲の視線が、二人に集中しているのがはっきり分かる。
好奇でも、警戒でも、畏怖でもある。
それらが混ざり合った、扱いづらい視線。
だがイーリスは、まるで存在しないかのように振る舞い、
自然にハイドの隣に立ち続けた。
まるで――
そこが最初から決められていた“定位置”であるかのように。
誰かが、声をかけようとした。
だが、近衛騎士が一歩前に出ただけで、その動きは止まった。
理由は単純だ。
王の隣の部屋。
王家の鉄騎。
そして、その横に立つ「人ではない存在」。
この組み合わせは、軽々しく触れていいものではない。
誰もが、直感的に理解してしまったのだ。
ここで踏み込めば、取り返しのつかない線を越える、と。
だから誰も、何も言わなかった。
⸻———
夜。
城は、昼とは別の顔を見せていた。
白い壁は月光を反射し、昼よりも冷たく見える。
照明の光は最小限に抑えられ、足音はさらに響く。
ハイドの部屋も例外ではない。
白を基調とした、簡素な部屋。
だが、簡素であることと、安全であることは別だ。
扉は厚く、内側からも外側からも開閉記録が残る。
外には常に二名の近衛が配置され、交代の時間すら厳密に管理されている。
窓は強化ガラス。
逃げ場はない。
だが、侵入もまた困難だ。
その部屋の中に――
イーリスもいる。
椅子に座るでもなく。
壁にもたれるでもなく。
ハイドから数歩離れた位置に、まっすぐ立ったまま動かない。
「……出ないのか?」
ハイドがそう言うと、
イーリスは間髪入れずに首を横に振った。
「必要性がありません」
「現在、あなたが安全な確率が最も高い位置はここです」
即答だった。
迷いも、検討の余地もない。
「俺が寝る間も?」
「はい」
言い切り。
当然の事実を述べるだけの口調。
ハイドはベッドに腰掛け、長く息を吐いた。
炭鉱では、寝るという行為は“気を失う”ことに近かった。
疲労が限界に達した時、倒れるように眠るだけ。
だがここでは、
眠る前に考えてしまう時間がある。
イーリスは、その様子をじっと見ている。
「不快であれば、視線を外します」
「……いや、いい」
ハイド自身、理由は分からない。
ただ――
この部屋で完全に一人になるよりも、
この無機質な存在がいる方が、心が静まる気がした。
イーリスは小さく、ほんのわずかに首を傾ける。
「了解しました」
それきり、沈黙。
だがその沈黙は、
重くもなく、空虚でもない。
城の夜の中でハイドとイーリスは、
誰にも踏み込めない距離を保ったまま、同じ部屋に存在していた。
守る者と、守られる者。
道具と、使い手。
だが、まだどちらとも言い切れない関係。
その夜、城は静かだった。
だが確実に、
何かが動き始めている気配だけが、白い壁の奥に残っていた。




