公然の秘密
決闘が終わってから、学園は奇妙な静けさに包まれていた。
表向きは、何事もなかったかのように。
授業は再開され、訓練は予定通り行われ、教官たちはいつもと同じ厳しさで生徒を叱る。
廊下では笑い声があり、食堂では席の取り合いがあり、女子寮では恋バナが続いている。
朝の点呼。
講義棟へ向かう生徒たちの列。
訓練場での整列。
どれも昨日までと同じ光景だった。
――それでも、マリーには分かっていた。
これは“戻った”のではなく、“無理やり被せた”日常だということが。
何かが起きた後の空気だった。
誰もそれを口にしないが、全員が知っている。
見てしまったからだ。
あの決闘を。
マリーは地方の貴族の長女だ。
王都から遠い小領地を持つ、小さな家。
家は古いが、力は弱い。
王国の中では、貴族ではあるが上位とは言えない。
父は領地の管理に追われ、母は家計のやりくりに頭を悩ませている。
豪奢な宮廷生活など、遠い世界の話だった。
だからこそ、マリーはこの学園に送られた。
家の格を少しでも上げるため。
将来、良い縁談を得るため。
貴族の子としては、ごく普通の理由だった。
この学園には、王族や公爵家の子息もいる。
侯爵家、伯爵家、子爵家。
名の知れた家柄が並ぶ。
その中でマリーは、決して目立つ存在ではない。
むしろ目立たないようにしている。
地方の小貴族が目立つのは、だいたい良いことではないからだ。
だから普段のマリーは、静かに授業を受け、訓練をこなし、友人と過ごす。
それだけの学園生活を送っていた。
だが昨日は違った。
決闘の日。
朝から学園の空気が違っていた。
警備の兵が増え、教官の声が硬く、整備班の人間が忙しなく動いていた。
そして昼前。
全生徒に召集がかかった。
講義棟から訓練場へ。
整列したまま、観覧席へ誘導される。
貴族の決闘は本来、簡単に公開されるものではない。
だが今回は違った。
全生徒が、見ていた。
貴族の子も。
地方の子も。
平民出身の特待生も。
誰一人として、そこから逃げることはできなかった。
マリーも、その一人だった。
観覧席の石の段に座りながら、隣の友人と顔を見合わせたのを覚えている。
「全員呼び出しって、珍しくない?」
友人が小声で言った。
彼女も貴族の娘だ。
マリーと同じく地方の子爵家の出で、格としてはほぼ同格だった。
「普通は、ここまでしないよね」
マリーも同じ声量で答える。
決闘は貴族の問題だ。
見せるとしても一部の関係者だけ。
それを生徒全員に見せる理由が、分からなかった。
その疑問は、決闘が始まるとすぐに消えた。
最初は、確かに普通だった。
鉄騎が向かい合う。
決闘の形式。
教官の合図。
観覧席は静かだった。
誰もが、ただ見ていた。
だが途中で、空気が変わった。
乱入だった。
鉄騎が増えた。
一機。
二機。
三機。
最初は理解できなかった。
訓練機が追加されたのだと思った。
何かの演習なのかと。
だが違った。
誰かが小さく言った。
「七機……」
最初の機体を含めて、八機。
観覧席がざわついた。
マリーも、友人も、言葉を失った。
決闘の形ではない。
囲んでいる。
あれは決闘ではなく、制圧だった。
「え……」
友人の声が震えた。
「これ……大丈夫なの?」
マリーは答えられなかった。
ただ、目の前の光景を見ていた。
八機が、一機を囲む。
常識なら、終わりだ。
鉄騎戦は数だ。
それは訓練で何度も教えられてきた。
だが――。
終わらなかった。
囲まれた機体が、動いた。
速かった。
いや、速いというより。
迷いがなかった。
武器が弾かれる。
鉄騎が崩れる。
武装が落ちる。
そして落ちた武器を、あの機体が拾う。
使う。
壊す。
投げる。
観覧席は、完全に静まり返っていた。
誰も声を出さない。
出せなかった。
マリーは、途中で気づいた。
戦っているのではない。
追い立てている。
八機が攻めているはずなのに、押されている。
それが分かった瞬間、背筋が冷たくなった。
隣の友人が、震えた声で言った。
「ねえ……」
マリーは答えない。
友人は続けた。
「これ……決闘なの?」
答えられなかった。
最後に残った光景だけが、強く記憶に残っている。
壊れた鉄騎。
動けない機体。
そして――。
一機だけ、最初と同じ姿勢で立っている鉄騎。
それが終わりだった。
決闘が終わると、すぐに兵が動いた。
観覧席の視界が遮られ、生徒は順番に退場させられた。
説明は何もない。
何も言われない。
ただ「解散」の一言だけだった。
それ以来、学園は妙に静かだった。
昼休み。
食堂で、友人が言った。
「ねえ、マリー」
「うん」
友人は声を潜める。
「昨日の決闘」
マリーは即座に答えた。
「見てない」
友人が、少しだけ目を細める。
「全員見てたでしょ」
「……見てない」
マリーは繰り返した。
友人は、しばらく黙った。
それから小さく息を吐く。
「……そうね」
同じように声を落とす。
「私も、見てない」
二人は、少しだけ笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
午後の訓練場。
鉄騎の模擬戦。
いつもなら、機体の動きや操縦技術に意識が向くはずなのに、今日は違った。
比べてしまう。
あの機体だったら、どう動くだろう。
あの距離。
あの角度。
あの数。
訓練機が三機で囲んだ程度で、止まるだろうか。
――止まらない。
その確信が、背筋を冷やす。
訓練が終わり、機体を降りた時、マリーはふと視線を感じた。
ハイドが、少し離れた場所に立っていた。
目が合った。
ほんの一瞬。
彼は何も言わず、すぐに視線を逸らした。
それだけなのに、胸がざわつく。
「……何なのよ」
誰にも聞こえない声で、呟く。
彼は、怖い。
でも、恐ろしい“振る舞い”をしているわけじゃない。
乱暴でもない。
威張らない。
誰かを見下すこともない。
ただ、そこにいるだけ。
それが、いちばん厄介だった。
夜、女子寮の部屋で、マリーは一人ベッドに座っていた。
灯りを落とし、窓の外を見る。
遠くに、整備ハンガーの明かりが見える。
あの奥に、あの機体がある。
デューク。
名前を知ったのは、つい最近だ。
誰かが小声でそう呼んでいた。
「兵器……」
言葉にした瞬間、喉が詰まった。
違う。
あれは“物”じゃない。
でも、“人”でもない。
そして、それを扱えるハイドは――何なのだろう。
英雄。
怪物。
それとも、ただの被害者。
答えは出ない。
出してはいけない気もする。
翌朝、マリーはいつも通り制服に袖を通し、髪を整え、廊下を歩いた。
学園は、完全に日常に戻ったように見える。
だが、彼女は知っている。
この学園には、
もう一つの“基準”が生まれてしまった。
強さの基準。
戦いの現実。
そして、決して表に出してはいけない真実。
マリーは、それを胸の奥に押し込み、歩き続ける。
見なかったことにする。
考えなかったことにする。
それが、この学園で生き残るための、
唯一の正解だと――今は、信じるしかなかった。
—————————
翌日になっても、学園の空気は変わらなかった。
いや、正確には違う。
変わっていないように振る舞っているだけで、確実にどこかが変わっていた。
朝の点呼。
講義棟へ向かう列。
訓練場への移動。
すべてが昨日までと同じように進む。
だが、声が小さい。
生徒たちは普段よりも静かだった。
誰も大きな話題を口にしない。
そして、その「話題」を誰も口にしないこと自体が、逆に不自然だった。
マリーはそれを感じながら、講義棟の廊下を歩いていた。
隣には、いつもの友人がいる。
「ねえ」
小声で呼ばれる。
「何?」
友人は周囲をちらりと見てから、さらに声を落とした。
「今日の朝、整備棟の前通ったんだけど」
「うん」
「整備科の子たち、すごい顔してた」
マリーは足を止めかけて、すぐに歩調を戻した。
「すごいって?」
「怖い顔」
友人は肩をすくめる。
「怒ってるとかじゃなくて」
少し考えてから言う。
「理解できないもの見た顔」
その言葉に、マリーの胸がざわついた。
友人は続ける。
「機体の被害、調べてるらしいよ」
マリーは何も言わない。
友人が、さらに声を潜める。
「訓練機、あんな壊れ方しないって」
「……」
「普通の戦闘じゃありえないって」
廊下を他の生徒が通り過ぎる。
二人は会話を止める。
少し距離を歩いてから、友人がぽつりと言った。
「まあ」
小さく息を吐く。
「私たち、見てないけど」
マリーは頷く。
「見てないね」
二人はそれ以上話さなかった。
講義室に入ると、いつもの席に座る。
教官はいつも通りの講義を始めた。
戦術論。
鉄騎の集団運用。
包囲戦の基本。
黒板に図が描かれる。
三機が一機を囲む配置。
退路の遮断。
射線の重複。
教官は言う。
「数は絶対だ」
チョークが黒板を叩く。
「鉄騎戦において、包囲された側は基本的に敗北する」
マリーの視線が、黒板から離れる。
頭の中に、昨日の光景が浮かぶ。
八機。
一機。
包囲。
そして――。
教官の声が続く。
「だからこそ、包囲を成立させることが重要だ」
マリーは、ゆっくりと息を吐いた。
成立していた。
はずだった。
それでも。
講義が終わると、生徒たちは教室を出ていく。
廊下で、別の生徒たちの会話が聞こえた。
「昨日の決闘さ」
マリーの体がわずかに硬くなる。
だが、続いた言葉は違った。
「上級貴族の連中、顔やばくなかった?」
「なってた」
「侯爵家のあの人、青かったよな」
「見た見た」
マリーは視線を落としたまま歩く。
聞こえないふりをする。
だが耳は拾ってしまう。
「普通の決闘じゃないよな」
「さあ」
少し間があく。
「……まあ」
誰かが言う。
「俺たち、見てないけど」
笑いが起きる。
だが、その笑いはすぐに消えた。
午後の訓練場。
鉄騎の模擬戦。
整列した機体の列の向こうに、ハイドの機体がある。
デューク。
その名前は、すでに生徒たちの間に広がっていた。
誰が最初に言い出したのかは分からない。
だが、今では誰もが知っている。
訓練が始まる。
機体が動く。
だが、どこかぎこちない。
普段ならもっと荒っぽくぶつかり合うはずなのに、今日は距離がある。
慎重すぎる。
マリーはそれに気づいた。
皆、比べている。
昨日の戦いと。
模擬戦が終わり、機体を降りる。
整備員が近づき、点検を始める。
その中に、整備科の生徒も混ざっていた。
工具を持った少年が、小声で言う。
「昨日の機体さ」
隣の整備生徒が答える。
「言うな」
「でも」
「言うなって」
それだけで会話は終わった。
マリーはその様子を見て、胸の奥が重くなる。
言えない。
誰も。
その時、ふと視線を感じた。
顔を上げる。
遠くに、ルートヴィヒがいた。
彼は整列したまま、こちらを見ていない。
だが視線の先は分かる。
ハイドだった。
ルートヴィヒの表情は読めない。
怒っているのか。
悔しいのか。
それとも別の感情なのか。
ただ、視線だけが動かない。
ハイドはそれに気づいていないのか、気づいていても気にしていないのか。
いつも通りだった。
機体の点検を受け、短く整備員に礼を言い、その場を離れる。
ただ、それだけ。
マリーは思った。
何も変わっていないのは、彼だけだ。
周りは全部変わったのに。
夜。
女子寮の部屋。
マリーは窓の外を見ていた。
遠くの整備ハンガーの灯りが、今日もついている。
あの中に、あの機体がある。
デューク。
そして、それを動かす少年。
マリーは小さく息を吐く。
学園の全員が見た。
そして、誰も口にしない。
それでも。
全員が知っている。
この学園の「強さの基準」が、昨日変わったことを。
今まで教えられてきた戦術も。
包囲戦も。
数の優位も。
全部。
一度、壊された。
マリーはカーテンを閉める。
考えるのをやめる。
見なかったことにする。
それが正しい。
この学園で生き残るためには。
だが一つだけ、どうしても消えない疑問があった。
もし。
もしあの鉄騎が。
決闘ではなく。
本当に敵として現れたら。
――誰が止めるのだろう。
マリーには、その答えがどうしても思いつかなかった。




