屋台の男
市民にとって、貴族の決闘というものは基本的に「噂」でしかない。
許可を得た一部の者が観戦できることはあっても、公式に広く放送されることはなく、ましてや記録映像などが出回ることもない。決闘は名誉の問題であり、政治であり、そして失敗すれば処分が伴う――そんな閉じた行事である。
貴族同士の問題は、基本的に貴族の中で処理される。
市民が知るのは結果だけだ。
どこそこの家が恥をかいた。
誰それが名誉を守った。
どこそこの家が衰えた。
だが、その過程が語られることはほとんどない。
仮に語られたとしても、それは酒場での噂話だ。
聞いた話。
聞いた人から聞いた話。
そしていつの間にか、話は誇張される。
巨大な鉄騎が一撃で敵を吹き飛ばした。
何十機もの敵を倒した。
英雄のような貴族がいた。
そんな話はいくらでもある。
だが、それを実際に見た者は、ほとんどいない。
鉄騎の決闘は、表向きは名誉の問題だが、実際には軍事力の誇示でもある。
だからこそ、管理される。
だからこそ、閉ざされる。
市民が近づくことなど、本来は許されない。
だから自分が、それを最前列で見てしまった側になるなど、この市民は夢にも思っていなかった。
彼は学園外縁の通りで屋台を出す、どこにでもいる食べ物売りだった。
特別な技能があるわけでもない。
名家の出でもない。
ただ、毎日火を起こし、肉を焼き、客に売る。
それだけの人生だ。
朝は早い。
まだ日が昇りきる前に市場へ行き、仕入れをする。
昼前には屋台を出し、夕方まで焼き続ける。
学園の近くという立地は、悪くない。
学生も来る。
兵士も来る。
ときどき貴族の従者も来る。
彼にとって学園とは、客を運んでくる場所だった。
学問の場所。
貴族の子息が学ぶ場所。
そしてときどき、鉄騎の演習が行われる場所。
それ以上の意味はない。
学園の行事がある日は人が集まる。今日は決闘があるらしい、という噂は聞いていたが、どうせ貴族同士の形式ばった儀式だろうと高をくくっていた。剣を構え、鉄騎を向かい合わせ、何発か殴り合って、勝敗が決まる。市民に見せるための“見世物”ではない、だから深入りする気もなかった。
実際、決闘がある日でも屋台の売上は大して変わらない。
むしろ客は減ることもある。
貴族が関わる行事には、兵が多くなる。
兵が増えると、市民は距離を取る。
面倒ごとに巻き込まれたくないからだ。
だから彼も、いつも通りだった。
火を起こし、鉄板を温め、肉を並べる。
客に声をかける。
それだけだ。
だが――始まってしまった。
最初は、確かに「いつもの決闘」だった。
遠くの演習場に、鉄騎が立つ。
巨大な影が、壁の向こうから見える。
鉄騎が動く音は、遠くからでも分かる。
地面を踏みしめる振動。
金属が擦れる音。
それは、この街では珍しいものではない。
学園には鉄騎がある。
訓練も行われる。
市民はそれを、遠くから眺めるだけだ。
学園の訓練機。実戦装備とはいえ、訓練用の鉄騎。相手は貴族の子息、整った所作で、型通りの動き。
対するのは、見慣れない機体だった。色も形も違う。あまりにも異質で、「あれは何だ?」というざわめきが、屋台の客たちの間に広がった。
市民も、それを見た。
形が違う。
それだけで、異様だった。
この国の鉄騎には、ある程度の共通した形がある。
肩の形。
脚の構造。
武装の配置。
だが、あの機体は違った。
どこか、古い。
だが、同時に――妙に無駄がない。
鉄騎というより、道具のような形だった。
その時点で、市民は気づくべきだったのだ。
これは見てはいけないものだと。
だが、人は、違和感のあるものほど見てしまう。
客も、屋台を離れなかった。
誰も帰らない。
ただ、遠くを見ている。
決定的だったのは、乱入だった。
訓練機が、増えた。
一機、二機、三機……数が合わない。
誰かが「七機だ」と言った。
最初の相手と合わせて、八機。
ざわめきは悲鳴に変わり、屋台の前から人が引いていった。
だが、市民は逃げなかった。逃げられなかった。
理由は単純だった。
――目が離せなかった。
八機が、一機を囲む。
常識なら、そこで終わりだ。どんな熟練者でも、数に押し潰される。まして訓練機相手とはいえ、実戦装備だ。
だが、その一機――ハイドの鉄騎は、止まらなかった。
動きが違った。
速い、という言葉では足りない。
迷いがない。次に何が来るかを知っているかのように、攻撃の“前”で動いている。
市民は、ある瞬間に気づいた。
八機が戦っているのではない。
八機が追い立てられている。
武器が弾き飛ばされる。
落ちた武装を、あの機体が拾う。
使う。
壊す。
投げ捨てる。
鉄騎の戦いというより、解体だった。
市民は思った。
あれは戦い方ではない。
処理だ。
奪われた側の鉄騎が、一瞬止まる。その一瞬が、致命的になる。
誰かが呟いた。
「……あれ、殺し合いじゃないよな?」
市民は答えられなかった。
確かに、致命傷は与えていない。だが、やっていることは戦争だった。
鉄騎は壊れていく。
腕が落ちる。
武器が飛ぶ。
装甲が剥がれる。
だが、操縦席は狙われない。
それが逆に、恐ろしかった。
最も恐ろしかったのは、終盤だった。
八機のうち、動けるものはほとんど残っていなかった。
なのに、ハイドの機体は――最初と同じ姿勢で立っていた。
呼吸をしているかのように、静かに。
まるで、戦っていなかったかのように。
その瞬間、市民は理解した。
この決闘は、勝敗を決めるためのものではない。
見せてはいけない力を、うっかり見せてしまった事故なのだと。
決闘が終わると、急に周囲が静かになった。
兵が動き、視界を遮り、人が散らされた。
何事もなかったかのように、学園は“日常”に戻っていった。
だが、市民の中には戻れない者がいた。
彼自身が、その一人だった。
屋台を片付けながら、手が震えていた。
鉄板を洗う。
火を消す。
道具を箱にしまう。
いつもと同じ作業のはずなのに、うまくいかない。
手が、言うことを聞かない。
誰にも話してはいけない。
話せば、消される。
それが分かる程度には、この国の空気を知っている。
それでも、夜になって、家族にだけは言ってしまった。
「……あれは、英雄とかじゃない」
妻は顔を青くした。
子どもは話を理解できず、ただ怯えた。
「じゃあ、何なの?」と問われ、市民は答えに詰まった。
しばらく黙ってから、こう言った。
「……あれは、出てはいけない兵器だ」
翌日、街では何事もなかったように噂が流れた。
貴族の決闘があったらしい。
結果は知らない。
誰が勝ったのかも分からない。
市民は、それを聞き流した。
もう一度あれを思い出すのが、怖かったからだ。
ただ一つ、確信していることがある。
――もし、あの鉄騎が本気で街に向いたら。
守る側は、存在しない。
それを知っている市民は、
この国に、ほんの一握りしかいない。




