白の中で
城の中は、外から見た以上に白かった。
白い石の床。
白い柱。
白い壁。
どれも同じ白ではない。
床は踏み固められ、磨かれて光を返す白。
柱は長い年月を支えてきた、わずかに影を含んだ白。
壁は装飾を削ぎ落とした、冷たく均一な白。
だが、俺の目には、それらの違いを見分ける余裕はなかった。
炭鉱で知っていた色は、黒と茶色だけだ。
煤の黒。
土と岩の茶色。
それに、時々混じる錆びた赤。
白は、なかった。
だから、この城の白は、現実というよりも、目の奥に直接押し付けられる何かのように感じられた。
光が反射するたび、視界がにじみ、距離感が狂う。
足音が、やけに響く。
一歩踏み出すたびに、音が床を伝い、柱に跳ね返り、天井へ吸い込まれていく。
炭鉱では、音はすぐに潰れた。
岩に吸われ、人の声に混ざり、消えていった。
だが、ここでは違う。
自分の足音が、はっきりと「自分のもの」だと分かる。
その事実が、落ち着かなかった。
――俺は、ここにいていいのか。
そんな疑問が、歩くたびに胸の奥から湧き上がる。
女王の、少し後ろ。
俺は黙ったまま、その背中を追って歩いていた。
歩調は速くない。
だが、迷いがない。
長い廊下を進む間、視線は何度も泳いだ。
壁に彫られた模様。
天井の、やけに高い位置に並ぶ梁。
どこまでも続いているように錯覚させる、直線の構造。
どれも、俺には大きすぎる。
広い。
清潔だ。
閉じ込められていた炭鉱とは、正反対のはずなのに、胸の内は逆にざわついていた。
「……白い……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
言葉は、石に反射して、すぐに消えた。
「この城は、白を尊ぶの」
女王は振り返らずに言った。
声は廊下に溶け、余計な響きを残さない。
「血や汚れが目立つ色。だからこそ、ここでは何かが起きればすぐ分かる。王城としては、都合がいいのよ」
その意味を、俺はすぐには理解できなかった。
白いから、分かる。
何が起きたかが、すぐに見える。
それはつまり、隠せないということでもある。
「……」
言葉にできず、ただ頷く。
白いというだけで、こんなにも緊張するものなのか。
炭鉱では、汚れていることが当たり前だった。
汚れは、身を守るものでもあった。
だが、ここでは違う。
廊下を曲がり、さらに奥へ進む。
途中、重厚な扉の前を何度も通り過ぎた。
どれも厚く、重く、簡単には開かなそうだ。
開かれることはない。
中に何があるのかも、分からない。
兵士の数は多くない。
だが、視線は常に感じた。
柱の影。
扉の脇。
廊下の先。
誰かが、どこかで見ている。
炭鉱では、見張られることはあっても、意識されることはなかった。
ここでは違う。
「把握されている」という感覚が、背中に張り付いて離れない。
やがて、女王は立ち止まった。
一つの扉の前。
他の扉よりも装飾は控えめだが、位置が違う。
廊下の最奥に近く、周囲に余計なものがない。
重要な場所だと、説明されなくても分かった。
「ここが、あなたの部屋よ。ハイド」
その言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。
女王の部屋に案内されるのだと思っていた。
だが、そうではない。
それでも、この場所は、城の中でも特別だ。
扉の向こうから感じる静けさが、逆に不安を煽る。
「……ここ、ですか?」
自分でも驚くほど、声が慎重になった。
女王はようやくこちらを見て、真剣な表情で頷いた。
「ええ。私の部屋の、隣よ」
その一言で、胸がざわついた。
女王の隣。
そんな場所に、俺みたいな炭鉱奴隷がいていいはずがない。
言葉が詰まり、何か言おうとした瞬間、女王は先に口を開いた。
「理由を話しておきます」
声音は、冷静だった。
「あなたは、今この国にとって“扱いづらい存在”だから」
扱いづらい。
その言葉が、石のように胸に落ちた。
「あなたが、あの鉄騎を動かしたことは、すでに一部の貴族の耳に入っています。詳細は伏せていますが、それでも勘のいい者は気づくでしょう」
女王の視線は、逸れない。
「――あなたが、王家の切り札になり得る存在だと」
切り札。
そんな言葉を向けられる覚えはない。
俺はただ、怖くて、必死で、訳も分からず動いただけだ。
「だからこそ、あなたは狙われる」
声は静かだが、否定の余地がない。
「他の貴族にあなたの存在が広く知られれば、刺客を送られる可能性がある。毒、刃、事故に見せかけた殺し……方法はいくらでもあるわ」
背中が冷えた。
炭鉱では、殴られることはあっても、こういう死に方はなかった。
死は、もっと単純で、乱暴だった。
「だから、手を出しづらい場所にあなたを置く」
女王は、扉に手をかける。
「私の隣。ここなら、誰も軽々しく近づけない」
守られている。
だが、それは同時に、逃げられない場所でもある。
俺は、何も言えなかった。
扉が開く。
中は、想像以上に質素だった。
白い壁。
白い床。
寝台と机、椅子が一脚。
窓は高い位置にあり、外はほとんど見えない。
それでも――炭鉱の寝床と比べれば、天国だった。
「……広い……」
思ったままが、口をついて出た。
女王は、わずかに笑う。
「最低限よ。あなたが余計なものに気を取られないように」
余計なもの。
その言葉が、胸に引っかかる。
「当面、城の中で過ごしてもらいます。勝手に歩き回ることは許されません。必要なものは用意させるわ」
扉の外を指し示す。
「外には常に兵がいます。あなたを守るためでもあり、見張るためでもある」
守る。
見張る。
その二つが、同時に存在する世界。
「……分かりました」
それしか言えなかった。
女王は、少しだけ俺を見つめた。
同情とも、期待ともつかない視線。
「怖がらなくていい、ハイド」
静かな声。
「ここは檻ではない。あなたが生き延びるための場所よ」
生き延びる。
その言葉が、胸の奥に残る。
女王が出ていき、扉が閉まる。
白い部屋に、一人きり。
静かすぎて、耳鳴りがする。
俺は寝台に腰を下ろし、手を見つめた。
煤で黒かった指は、洗われ、元の色を取り戻しつつある。
それが、少し怖かった。
「……俺、どうなるんだ……」
答えはない。
ただ白い城の奥で、
俺は初めて、
守られる代わりに狙われる世界に足を踏み入れたのだと、
ゆっくりと理解し始めていた。




