城門の騎士たち
馬車の揺れに身を任せながら、俺は窓の外を見つめていた。
視界に流れ込んでくる光が、痛い。
炭鉱の暗闇しか知らなかった目には、外の世界はあまりにも明るすぎた。影が薄く、境界がはっきりしていて、ものの輪郭がくっきりと見える。それだけで、頭の奥がじんと痺れるような感覚がある。
空がある。
それは、天井の代わりに押し付けられてきた岩肌とはまるで違った。
灰色の雲の切れ間を突き抜けるように、青が広がっている。
あれが空だと、誰かに教えられた覚えはない。それでも、見た瞬間に「これが外なのだ」と分かってしまうほど、圧倒的だった。
風が吹く。
馬車の窓から入り込んできた冷たい空気が、頬を撫でる。
煤と汗が染みついた皮膚を洗い流すようで、思わず目を細めた。
炭鉱の空気は、常に重かった。
肺に溜まり、吐き出しても残る。
だがこの風は、触れたあと、すぐに通り抜けていく。
「……外って、こうだったんだな……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
独り言のつもりだったが、向かいに座る人物は、それを聞き逃さなかったらしい。
馬車の中は暖かく、静かだった。
布張りの座席は柔らかく、腰を下ろしても痛みがこない。
その正面に、女王シャルロットが座っている。
鎧ではない。
武具もない。
派手すぎない、落ち着いた色合いのドレスを身にまとい、背筋を伸ばして腰掛けている。その姿は、俺が炭鉱で見てきた荒々しい世界とは、まるで繋がらないものだった。
――この人が、王。
そう理解しているはずなのに、どこか現実味が薄い。
炭鉱で聞かされてきた「上にいる存在」と、今、目の前にいる人物が、どうしても結びつかなかった。
女王は、俺の呟きを聞くと、わずかに微笑み、同じように窓の外へ視線を向けた。
「ハイド。初めて見る外の景色は、どうかしら」
声は穏やかだった。
だが、柔らかいだけではない。
逆らえない重さが、言葉の奥に確かにある。
俺は一瞬、言葉を探し、それから正直に答えた。
「……まぶしいです。全部……」
嘘は言えなかった。
眩しくて、恐ろしくて、それでも目を逸らせない。
女王の青い瞳が、静かに俺を見つめている。
威圧されているはずなのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。
馬車は荒野の道を進んでいく。
土色の地面が続き、ところどころに草が生えている。
遠くには丘が連なり、その向こうに、小さな建物の集まりが見えた。
あれが、集落なのだろうか。
人が、炭鉱以外で暮らす場所。
知識はない。
ただ、初めて見るものばかりが、視界に流れ込んでくる。
やがて、馬車は坂を登り始めた。
前方に、巨大な石造りの門が見える。
城だ。
厚い城壁。
高く積まれた石。
門の前には、人影が整然と並んでいる。
そして――その奥。
門前の広場に、巨大な影が立ち並んでいた。
俺は息を呑んだ。
鉄騎だ。
数は多くないが、はっきりと分かる違いがある。
赤と白に塗り分けられた機体が一体。
金色の機体が一体。
それらは、明らかに特別な存在として、間隔を空けて立っている。
そして、それ以外に、複数の機体が並んでいる。
白い機体。
土色の機体。
色以外の違いは、俺には分からない。
そもそも、比べるための知識がない。
ただ、どれも巨大で、硬く、動かないままそこに立っている。
昼の光を受け、鈍く輝くその姿は、まるで石像のようだった。
俺は、無意識に馬車の窓へ身を乗り出していた。
探してしまう。
理由は分からない。
だが、探さずにはいられなかった。
(……いない)
俺の鉄騎――デュークの姿は、どこにもない。
胸の奥が、すっと冷える。
穴が開いたような感覚だった。
「……あれ、俺の……?」
思わず、声が出た。
女王は、少し間を置いてから、穏やかだがはっきりとした声で告げる。
「ハイド。あなたの騎士は、今、我が工房にあります」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「……え……?」
視線を女王に向ける。
疑問しか浮かばない。
女王は、揺れる馬車の中で姿勢を崩さず、微笑んだまま答えた。
「あなたの騎士は、現在、改修を受けています。城に並ぶ他の騎士たちと同じ姿で現れるのは、まだ先ですわ」
改修。
その言葉は理解できても、意味は掴めない。
「ですが、心配はいりません」
女王は続ける。
「あなたに相応しい姿となって、必ず戻ってきます」
色。
姿。
戻る。
言葉は、頭に入ってくる。
だが、炭鉱で触れた鉄の冷たさ、重さ、あの狭い座席に押し込まれた感覚だけが、強く残っている。
馬車は城門をくぐり、中庭へ入った。
整えられた石畳。
広い空間。
並ぶ鉄騎たちは、静かに待機している。
その存在感に、心臓が早鐘を打つ。
自分が、あの巨人たちの足元に立つ存在でしかないことを、嫌というほど思い知らされる。
女王が、俺の肩にそっと手を置いた。
「恐れることはありません、ハイド」
その声は、命令ではなく、断定だった。
「あなたの騎士は戻ってきます。そして、あなたは、この国で生きるのです」
俺は、もう一度、鉄騎たちに視線を向けた。
赤と白の機体。
金色の機体。
白い機体。
土色の機体。
そのどれにも、今の俺は触れられない。
だが、確かに、この世界の一部なのだと、無言で語っている。
「……分かりました……」
小さく答え、背もたれに身を預ける。
光も、城も、鉄騎も、すべてがまだ眩しい。
理解できないことばかりだ。
それでも――
俺の騎士は戻ってくる。
そう言われた。
その言葉だけが、胸の奥で、かすかな熱を持って残っていた。
馬車は中庭を抜け、城の奥へと進んでいく。
外の世界は、まだ遠い。
だが、俺の物語は、確かにここから動き始めている。
城の中は、外から見た以上に白かった。
白い石の床。
白い柱。
白い壁。
どれも同じ白ではない。
床は踏み固められ、磨かれて光を返す白。
柱は長い年月を支えてきた、わずかに影を含んだ白。
壁は装飾を削ぎ落とした、冷たく均一な白。
だが、俺の目には、それらの違いを見分ける余裕はなかった。
炭鉱で知っていた色は、黒と茶色だけだ。
煤の黒。
土と岩の茶色。
それに、時々混じる錆びた赤。
白は、なかった。
だから、この城の白は、現実というよりも、目の奥に直接押し付けられる何かのように感じられた。
光が反射するたび、視界がにじみ、距離感が狂う。
足音が、やけに響く。
一歩踏み出すたびに、音が床を伝い、柱に跳ね返り、天井へ吸い込まれていく。
炭鉱では、音はすぐに潰れた。
岩に吸われ、人の声に混ざり、消えていった。
だが、ここでは違う。
自分の足音が、はっきりと「自分のもの」だと分かる。
その事実が、落ち着かなかった。
――俺は、ここにいていいのか。
そんな疑問が、歩くたびに胸の奥から湧き上がる。
女王の、少し後ろ。
俺は黙ったまま、その背中を追って歩いていた。
歩調は速くない。
だが、迷いがない。
長い廊下を進む間、視線は何度も泳いだ。
壁に彫られた模様。
天井の、やけに高い位置に並ぶ梁。
どこまでも続いているように錯覚させる、直線の構造。
どれも、俺には大きすぎる。
広い。
清潔だ。
閉じ込められていた炭鉱とは、正反対のはずなのに、胸の内は逆にざわついていた。
「……白い……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
言葉は、石に反射して、すぐに消えた。
「この城は、白を尊ぶの」
女王は振り返らずに言った。
声は廊下に溶け、余計な響きを残さない。
「血や汚れが目立つ色。だからこそ、ここでは何かが起きればすぐ分かる。王城としては、都合がいいのよ」
その意味を、俺はすぐには理解できなかった。
白いから、分かる。
何が起きたかが、すぐに見える。
それはつまり、隠せないということでもある。
「……」
言葉にできず、ただ頷く。
白いというだけで、こんなにも緊張するものなのか。
炭鉱では、汚れていることが当たり前だった。
汚れは、身を守るものでもあった。
だが、ここでは違う。
廊下を曲がり、さらに奥へ進む。
途中、重厚な扉の前を何度も通り過ぎた。
どれも厚く、重く、簡単には開かなそうだ。
開かれることはない。
中に何があるのかも、分からない。
兵士の数は多くない。
だが、視線は常に感じた。
柱の影。
扉の脇。
廊下の先。
誰かが、どこかで見ている。
炭鉱では、見張られることはあっても、意識されることはなかった。
ここでは違う。
「把握されている」という感覚が、背中に張り付いて離れない。
やがて、女王は立ち止まった。
一つの扉の前。
他の扉よりも装飾は控えめだが、位置が違う。
廊下の最奥に近く、周囲に余計なものがない。
重要な場所だと、説明されなくても分かった。
「ここが、あなたの部屋よ。ハイド」
その言葉に、俺は一瞬、言葉を失った。
女王の部屋に案内されるのだと思っていた。
だが、そうではない。
それでも、この場所は、城の中でも特別だ。
扉の向こうから感じる静けさが、逆に不安を煽る。
「……ここ、ですか?」
自分でも驚くほど、声が慎重になった。
女王はようやくこちらを見て、真剣な表情で頷いた。
「ええ。私の部屋の、隣よ」
その一言で、胸がざわついた。
女王の隣。
そんな場所に、俺みたいな炭鉱奴隷がいていいはずがない。
言葉が詰まり、何か言おうとした瞬間、女王は先に口を開いた。
「理由を話しておきます」
声音は、冷静だった。
「あなたは、今この国にとって“扱いづらい存在”だから」
扱いづらい。
その言葉が、石のように胸に落ちた。
「あなたが、あの鉄騎を動かしたことは、すでに一部の貴族の耳に入っています。詳細は伏せていますが、それでも勘のいい者は気づくでしょう」
女王の視線は、逸れない。
「――あなたが、王家の切り札になり得る存在だと」
切り札。
そんな言葉を向けられる覚えはない。
俺はただ、怖くて、必死で、訳も分からず動いただけだ。
「だからこそ、あなたは狙われる」
声は静かだが、否定の余地がない。
「他の貴族にあなたの存在が広く知られれば、刺客を送られる可能性がある。毒、刃、事故に見せかけた殺し……方法はいくらでもあるわ」
背中が冷えた。
炭鉱では、殴られることはあっても、こういう死に方はなかった。
死は、もっと単純で、乱暴だった。
「だから、手を出しづらい場所にあなたを置く」
女王は、扉に手をかける。
「私の隣。ここなら、誰も軽々しく近づけない」
守られている。
だが、それは同時に、逃げられない場所でもある。
俺は、何も言えなかった。
扉が開く。
中は、想像以上に質素だった。
白い壁。
白い床。
寝台と机、椅子が一脚。
窓は高い位置にあり、外はほとんど見えない。
それでも――炭鉱の寝床と比べれば、天国だった。
「……広い……」
思ったままが、口をついて出た。
女王は、わずかに笑う。
「最低限よ。あなたが余計なものに気を取られないように」
余計なもの。
その言葉が、胸に引っかかる。
「当面、城の中で過ごしてもらいます。勝手に歩き回ることは許されません。必要なものは用意させるわ」
扉の外を指し示す。
「外には常に兵がいます。あなたを守るためでもあり、見張るためでもある」
守る。
見張る。
その二つが、同時に存在する世界。
「……分かりました」
それしか言えなかった。
女王は、少しだけ俺を見つめた。
同情とも、期待ともつかない視線。
「怖がらなくていい、ハイド」
静かな声。
「ここは檻ではない。あなたが生き延びるための場所よ」
生き延びる。
その言葉が、胸の奥に残る。
女王が出ていき、扉が閉まる。
白い部屋に、一人きり。
静かすぎて、耳鳴りがする。
俺は寝台に腰を下ろし、手を見つめた。
煤で黒かった指は、洗われ、元の色を取り戻しつつある。
それが、少し怖かった。
「……俺、どうなるんだ……」
答えはない。
ただ白い城の奥で、
俺は初めて、
守られる代わりに狙われる世界に足を踏み入れたのだと、
ゆっくりと理解し始めていた。




