挑発
教室の空気は、静かだが張り詰めていた。
特別クラス――名目上は「将来の中核人材育成」を目的とした編成だが、実態は癖の強い生徒、あるいは扱いに困る存在をまとめて隔離するための器でもある。
ハイドは、自分がその中に含まれている理由を、はっきりとは理解していなかった。
席に座ると、周囲の視線が微妙に集まるのを感じる。
敵意というほど露骨ではないが、好奇と警戒が入り混じった、評価を定めかねている目線だった。
理由は明白だった。
ハイドの体格は、学園の他の生徒と比べて明らかに異質だった。
同年代の少年としては肩幅が広く、首から背中にかけての筋肉の付き方が、訓練を積んだ兵士のそれに近い。制服の上からでも分かるほど、布が張っている。
――自覚は、ない。
女王に保護されてからの生活は、それまでのものとは一変していた。
三食きちんと出る食事。量も質も、過不足なく調整されている。
鉄騎訓練に合わせた栄養設計など、本人が意識する前に環境が整えられていた。
城での姿勢矯正訓練も、結果的に筋肉を「正しく使う」身体を作っていた。
無理な力任せではなく、骨格に沿った動き。
それが、見た目以上の変化をもたらしていた。
ハイド自身は、まだそれを自分の変化として受け止めきれていない。
教科書を開くと、文字が目に入る。
だが、内容が頭に入ってこない。
行を追おうとすると、どこまで読んだのか分からなくなる。
書き写そうとしても、字が歪む。
ペン先に力を入れすぎ、紙を引っかいてしまう。
「……」
小さく息を吐いた。
その隣で、イーリスはまったく違う様子だった。
彼女は教科書を机に置くと、背筋を伸ばし、ページを一枚ずつ、正確に開いていく。
ぴちり、と乾いた音が小さく鳴る。
ページを押さえる指に無駄がなく、一定の間隔で止まる。
その瞬間、彼女の視線がページ上をなぞる。
――スキャン。
視線の動きは速く、しかし規則正しい。
人間が「読む」というより、情報を取り込むための走査動作に近い。
ページを一枚読み終えると、次へ。
同じ動作を繰り返す。
教師の講義と、教科書の内容、黒板の図表。
それらはすでに彼女の中で統合され始めていた。
ハイドは、横目でそれを見て、内心で舌を巻く。
(同じ教科書……だよな)
能力差を感じること自体には、慣れている。
だが、学園という場所で、ここまで露骨に示されると、どうしても気後れする。
その時。
「……ハイド様」
小さな声が、耳元で響いた。
イーリスが、ほんのわずかに顔を近づけていた。
姿勢は崩していない。
ただ、声量だけを落としている。
「今の段落ですが、重要なのは三行目の定義部分です。細部は後回しで構いません」
淡々とした、しかし柔らかい敬語。
指摘は的確で、余計な感情が混じっていない。
ハイドは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
「……あ、ああ」
言われた通り、三行目だけを追う。
確かに、そこを押さえれば全体の意味が見えてくる。
「書き写す必要はありません。後で要点だけまとめますので」
「……助かる」
短く答えると、イーリスはそれ以上何も言わず、元の姿勢に戻った。
周囲の生徒の中には、そのやり取りを見ていた者もいる。
だが、声を上げる者はいない。
彼らは、別の意味で注目していた。
――あの筋肉質な少年と、異質な少女が、自然に並んでいることを。
ハイドは、知らず知らずのうちに、背筋を伸ばしていた。
城で叩き込まれた姿勢が、無意識に出る。
教科書の文字は、まだ難しい。
だが、さっきよりは、読めている。
横には、確実に前へ進む存在がいる。
それだけで、不思議と焦りは薄れていた。
学園生活は、まだ始まったばかりだ。
この場所で、自分が何者になるのか――ハイド自身にも、まだ分からない。
だが少なくとも。
一人ではない、という事実だけは、はっきりと感じていた。
——————
特別クラスという響きとは裏腹に、教室の空気は決して一枚岩ではなかった。
むしろここは、学園という制度が抱え込んだ矛盾を、そのまま濃縮した場所だった。
王権直轄の推薦枠、功績者の被保護者、技術的に特異な存在、そして――保守派貴族の子息。
同じ制服を着ていても、立場も背景もまるで違う。
ハイドは、そのことを痛感し始めていた。
昼前の講義が終わり、短い休憩時間に入った頃だった。
教室内では、生徒たちがそれぞれ小声で話し始める。
机を寄せる者、ノートを確認する者、教師に質問へ向かう者。
ハイドは席を立たず、教科書を閉じて深く息をついた。
文字を追うこと自体に、まだ集中力を使い切ってしまう。
その時だった。
「――おい」
低く、しかしはっきりとした声。
顔を上げると、数人の生徒がこちらを見下ろしていた。
先頭に立つのは、金髪を丁寧に撫で付けた少年。
制服の着こなしは完璧で、姿勢も良い。
だがその目には、隠そうともしない優越と侮蔑が宿っている。
(……来たか)
直感的にそう思った。
「君が、ハイド……だったか?」
名を確認するようでいて、実際には確認など必要としていない口調。
ハイドは立ち上がらず、椅子に座ったまま答えた。
「……そうだ」
「ふぅん」
少年は鼻で笑う。
「随分と、場違いな体格だな。ここは訓練兵舎じゃないんだが?」
周囲の空気が、わずかに張り詰める。
視線が集まるが、誰も止めようとはしない。
ハイドは、言葉を選んだ。
「……必要なら、教師に確認してくれ」
それが、彼なりの精一杯の対応だった。
だが、それが気に入らなかったらしい。
「随分と偉そうだな。保護された身分のくせに」
その一言で、意図ははっきりした。
――保守派貴族。
王権が直接保護した存在。
身分制度の外側から入り込んできた異物。
彼らにとって、ハイドは秩序を乱す象徴のようなものだった。
「聞いたぞ。読み書きも怪しいそうじゃないか」
「鉄騎に乗れるだけの、都合のいい駒、というわけか」
一人が言い、別の一人が笑う。
ハイドの拳が、無意識に強張った。
だが、城で叩き込まれた教えが、身体を縛る。
――ここで手を出すな。
――力で黙らせるのは、最も簡単で、最も愚かな選択だ。
「……用がないなら、戻ってくれ」
声は低く、抑えた。
それでも、相手は引かない。
「用ならあるさ」
少年は、ハイドの机に置かれた教科書に、指先で軽く触れた。
「これ、本当に読めているのか?」
そして、わざとらしくページをめくる。
乱暴ではない。
だが、明確な挑発だった。
その瞬間。
「――その行為に、学習上の意味はありますか?」
静かな声が、割って入った。
イーリスだった。
彼女は立ち上がり、表情を変えないまま、貴族の少年を見ている。
声色は丁寧で、完全に普通の敬語。
しかし、問いの内容は冷静で、逃げ道を塞ぐものだった。
「授業時間内に、他者の教材を操作する合理的理由が見当たりません」
一瞬、場が静まる。
貴族の少年は、イーリスを見て、わずかに眉をひそめた。
「……君は?」
「同じクラスの生徒です」
「ふん……変わった喋り方をするな」
「そうでしょうか」
イーリスは、首を傾げもしない。
「規則に基づいた質問をしているだけです」
その言葉に、周囲の生徒の何人かが息を呑んだ。
直接的な反論でも、感情的な非難でもない。
ただ、正論だけを、静かに突きつけている。
貴族の少年は、舌打ちをし、手を引っ込めた。
「……覚えておけよ」
そう吐き捨てると、取り巻きを連れて席へ戻っていく。
残された空気は、重かった。
ハイドは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとう」
「当然のことをしたまでです」
イーリスは、そう答える。
「ただし、今後も同様の行為は起こり得ます。保守派貴族の一部は、王権の直接介入を快く思っていません」
「……やっぱり、そうか」
「はい」
イーリスは淡々と続ける。
「ですが、学園内での直接的な暴力行為は、彼らにとっても不利益です。嫌がらせは、制度の隙間を突く形になるでしょう」
ハイドは、苦笑した。
「……やりにくいな」
「はい。ただ――」
イーリスは一瞬、言葉を切る。
「それでも、ここは学ぶ場です。ハイド様が退く理由はありません」
その言葉は、慰めでも、激励でもなかった。
事実として、そう述べているだけだ。
だが、それが妙に心強かった。
教室の隅で、保守派貴族の少年は、こちらを睨みつけている。
その視線には、まだ諦めの色はない。
学園という舞台での争いは、始まったばかりだった。
それは剣でも、鉄騎でもなく、
立場と制度と、静かな悪意によって行われる戦いだった。




