師匠と弟子
「違う。あの子はクロエじゃないわ」
庭先に立つ少女を見て、レイチェルさんは呟くようにそう言った。それからもと来た道を引き返そうとする彼女の手を、私がつかんだ。レイチェルさんの瞳が揺れる。何かに怯えているようだった。
「本当は、とっくに気がついていたんですよね。クロエさんが人間だということも、あの手紙を書いた人がクロエさんではないことも」
「え?手紙を書いたのはクロエじゃなかったのかい?」
隣でノアが目を丸くする。それはそうだ。わたしもすっかり騙されていた。だけどレイチェルさんは特に驚く様子もなく、ただ静かに俯いている。
「クロエさんは子どもの頃から不器用で、綺麗な字を書くのが苦手だったそうですね。届いた手紙の字の丁寧さに、あなたは違和感を覚えたのではないでしょうか」
レイチェルさんは何も言わない。私は言葉を続けた。
「それに薬を作る才能も、占いや呪いの才能も、どんなに頑張ってもクロエさんが人間の範疇を越えることはなかった。少なくとも“魔女ではないのかもしれない“と疑う機会はいくらでもあったはずです」
そう。クロエさんを人間だと証明することも、いつまでも魔女として成長しない彼女を追い出すことも、レイチェルさんはいつでもできたはずだった。それなのに、彼女はクロエさんを弟子にした。何も聞かず、何も言わず、ただクロエさんの師匠としてそばにいた。私はこれを、愛と呼ぶのだと思う。
「──あなたが、おばあ様の……クロエのお師匠様ですか?」
庭先で待っていた少女が、たまらずにレイチェルさんに駆け寄った。レイチェルさんは半歩下がって、それから少し気まずそうに、
「……えぇ。そうよ」
と答えた。
すると少女は嬉しそうにぱっと笑顔を見せ、それからレイチェルさんの手を掴んだ。彼女はとても驚いていたようだったが、その細い手を振り払うことはしなかった。
「おばあ様があなたを待ってるんです!さぁ早くいらっしゃって!」
少女が強引にレイチェルさんを引っ張って家の中へ入っていく。私とノアはその後ろをそっと着いていくことにした。
◯
クロエさんの部屋は薄暗かった。
その代わりに、大きな窓から入る庭先のバラの光が、部屋の中を淡い光で満たしている。その柔らかな光に包まれた部屋の中で、彼女はベッドの上で上半身だけを起こしていた。遠いまなざしで庭先を見つめる彼女の横顔は、歳を重ねて皺が寄り、髪もすっかり白くなっているけれど、眩しいほどに美しかった。
幸福も、苦難も、平穏も、そのまなざしは全てを知っている。そういうふしぎな説得力を、彼女の瞳は持っていた。
「……クロエ」
静かな部屋のなかで、レイチェルさんの声はよく響いた。その瞬間、クロエさんの瞳が滑るように向けられる。
目を開く。灰色の瞳がきらりと光った。
「師匠……」
漏れるような声だった。
それから細く震える手を口元へ持っていき、瞳は次第に濡れていく。慌ててベッドから降りようとするものの、あたふたするばかりで上手く降りられないクロエさんに、足早に駆け寄ったのは孫娘ではなく、もちろん私やノアでもなく、レイチェルさんだった。誰よりも早く彼女の元へ駆け寄り、
「師匠を走らせるなんて、弟子失格ね」
と言った。震える声だった。
二人は眉を下げて少しの間見つめ合い、やがてどちらからともなく「ふふふ」と笑った。
「何も変わっていないのね。あなたはいつも私を困らせてばかりだった」
「あら。……そんなことはなかったでしょう?私はいつもいい子で、師匠の言いつけを守っていましたもの」
「馬鹿言わないで。薬の調合ばかりに夢中になって、占いや呪いも学びなさいと言ったのに聞きやしなかった。それに字が下手くそすぎて、魔法陣を書かせた時は悪魔を召喚しそうになったこともあった。甘いものばかり好きで、野菜は嫌いで、本を読むのが好きだけど、読んだ本は片付けない。……あなたは本当に困った子だった」
皺が寄る骨ばった手を、柔らかな手が包み込む。レイチェルさんの目尻に光る粒を、この部屋の誰もが見ないふりをした。
「……師匠は、私が人間だということを知っていたのですか?」
クロエさんが尋ねた。尋ねられたレイチェルさんは一度視線を逸らし、呟くような声で「分からないわ」と答えた。
「分からないのよ、私にも。気づいていたような気もするし、気づいていなかったような気もする。……だけど今は、曖昧にしておきたかったんだと思うわ。人間であろうと、魔女であろうと、知ってしまえば何かが変わる。それがいい方向に変わるのか悪い方向に変わるのかは分からないけれど、……たぶん、どっちにも変わりたくなかったんでしょうね。あの頃の私は」
まだ人生経験の浅い私では、彼女の言葉の意味を半分くらいしか理解できなかった。私は、すべてのことがいい方向に変わればいいなと思うし、知らないことは知りたいと思ってしまう。……だけど、うん。ほんの少しだけ、分かるような気もした。おばあさんとの別れが近づくのを肌で感じるたびに、私は思っていたような気がする。
どうかこのまま何も変わらず、平穏な日々が続きますように。
別れの日なんて、永遠に分からないままでありますように。
その時、無意識に思っていた気持ちと、今のレイチェルさんの言葉は、どこか重なるような気がした。
「師匠。私、ずっとあなたに会いたかったんです。会って謝りたかった。やり直したかった。……だけど一番したかったのは、話をすること。あの頃、私が何を思っていたか、何を言いたかったのか、あなたの元を去ってからの嵐のような悲しみも、花が咲くような喜びも、すべて聞いてほしかった。そして聞きたかった。あなたの悲しみも、喜びも」
レイチェルさんはベッドの縁に腰掛けて、クロエさんの手を握りながら静かに話を聞いていた。その顔があんまりにも優しいものだから、私は、私のたった一人の愛すべき師匠を思い出さずにはいられなかった。
「……話くらい、いつでも、いくらでも聞くわよ。家を出て行っても、血なんて繋がっていなくても、人間でも、魔女でも。あなたは私の弟子で、私はあなたの師匠なんだもの。当たり前でしょう」
クロエさんが大粒の涙をこぼしながら微笑む。うん、うんと何度も頷いて、泣いて、泣いて、笑う。
どうか、祝福を。
今までの二人に、これからの二人に、どうか愛の祝福を。




