かつての魔女
──ひとりの女の子が、とある孤児院の前に立っていた。歳は6、7歳といったところだろうか。元気がありあまる年頃だというのに、少女は頬にまつ毛の影を落としながら、手を胸の前で組んでそわそわと落ち着かない様子だった。その隣には初老の女性が立っていて、少女とは対照的に朗らかに微笑んでいる。
「不安?」
その言葉に、少女は無言のまま小さく頷く。
まだ警戒心を解けきれていない、猫のようなまなざしだった。
「そうよね。初めての場所で、初めての人に出会うのだもの。不安にならないはずがないわ」
穏やかな春の昼下がり。こんな心地のいい春の日なのだから、彼女だってこんな回りくどいことはやめて、庭でお茶でもしたい気分だろう。
けれど女は少女との会話をやめなかった。目尻の皺を美しく刻んで、少女に語り続ける。
「そうねぇ……。いっそのこと、不安を楽しんじゃえばいいんじゃないかしら」
「そんなの、できっこない。今だってこんなに、心臓が口から出てきちゃいそうなのに」
「そう?でも、考えてみて。今日、ここで出会う人のほとんどは、十年もすれば二度と会わなくなる人ばかり。今、この時でさえ彼ら、彼女らとのお別れは近づいてる。緊張している暇なんてあるかしら?」
そう言って女は、人差し指をピンと伸ばして意地の悪い魔女のように笑って見せた。その様子がなんだかおかしくて、少女はくすくすと笑いながら、
「そうかも」
と言った。
女は少女のその様子を優しいまなざしで見つめてから、そっと少女の手を握った。少女は驚いて目を丸くしたが、しばらくしてぎこちなく手を握り返した。
「さぁ、フィオナ。あなたの人生の第二幕のはじまりよ。楽しんで」
◯
少女──フィオナの人生の第一幕は、それなりに楽しく、それなり大変で、それなりに退屈な日々だった。つまり、よくある平和な家庭で彼女は生まれ、そして育った。
彼女の両親は少し呑気な性格だったが、その代わりに優しさと、芯のある強さは人一倍持ち合わせていた。二人はまるで運命のように出会い、恋に落ち、愛を育んだ。そのおかげで、二人の間に生まれた女の子が魔女であっても、彼らは当然のように生まれてきた子どもを深く深く愛し、そして祝福した。
けれど彼らはどうしたって人間だ。
一年前の秋、フィオナの父が流行病に倒れ、そのまま帰らぬ人に。その看病をしていた母も、春を迎えることなく……。そうしてフィオナはこの春、この孤児院で引き取られることになった。
「あ、あの。私、フィオナっていうの。よかったら友達になって」
フィオナはがんばった。一人残される自分を最後まで心配していた母のために、自分の中にある勇気をありったけ振り絞り、友人をつくるためにあれこれと試行錯誤した。
朝起きたときと、夜眠る前は、笑顔の練習を欠かさなかったし、困っている子がいれば進んで人助けをした。もちろん、話題作りのために本だってたくさん読んだ。
けれど返ってくる返事はいつも、
「ごめんね」
やり切れない気持ちで胸がいっぱいになっても、フィオナは不貞腐れたりしなかった。きっといつかは友人になれるはずだと信じていたのだ。それでも結局、彼女に気安く話しかけてくれるのは、施設に来たときに優しく手を握ってくれた院長先生だけ。
「本当は、あなたにも楽しく過ごして欲しいんだけど、だからといって他の子たちの気持ちを無視することもできないの。淋しい思いをさせてしまっているわよね。本当にごめんなさい」
院長先生はよくフィオナに本を読んでくれた。本を読みながら、時々、他愛のない話を挟むことはあったけれど、大抵は「好きな食べ物は?」とか、「行きたい場所はある?」とかそんな質問ばかりで、こんな悲しい顔をしながら何かを言ってくることなんて今までにないことだった。
フィオナは首を左右に振った。これ以上、院長に悲しい顔をしてほしくないと思ったことも本当だけど、何より、これはフィオナの本心でもあった。
「私、ひとりがすき。誰かとお話しするよりも、一人で本を読んでる時の方がたのしいの。でもこれって、いけないこと?かわいそう?」
院長は静かに首を振って、「いいえ」と答えた。それから、フィオナの頭をそっと撫でる。
「ちっとも可哀想なんかじゃないわ。それに、どうせ皆、心の中ではひとりぼっちよ」
「でもパパもママも、私に友達ができるのを期待してた気がする。そんなこと、言われたことなんてなかったけど」
「そうね……友人というのは決して美しいだけのものではないけれど、きっとあなたの人生を豊かにしたり、世界を広げる助けをしてくれるわ。でもね、友情というものは、築くことよりも、続けることのほうがうんと難しいものよ。だから形ばかりの友情に、あまり囚われすぎない方が利口ね」
院長の言葉は、幼いフィオナにはまだ少し難しかった。フィオナが困った顔をしていると、院長はそっと微笑んで、「いつかきっと分かるわ」と言った。
それからまた暫く過ぎた。話しかければ返事をしてくれるし、嫌がらせだってされたことはない。ただ相変わらず、フィオナには友人と呼べる人が一人もいなかった。
そんなある日のこと、フィオナはとある一冊の本を見つけた。それは物置になっている部屋で見つけたもので、表紙には埃がかぶっている。フィオナはふーっと息を吹きかけて埃を払い、表紙をめくった。中身は子ども向けの絵本のようだった。
「(『とある森に、ひとりの魔女が暮らしていました……』)」
──とある森に、ひとりの魔女が暮らしていました。
魔女は生まれた時からひとりぼっちで、家族と呼べる人も、友と呼べる人もいません。なので魔女は、気まぐれに遊びに来る小鳥を友と、棚を飾る本を家族として、平和に暮らしていました。
けれどある日、親しそうに寄り添う二匹の小鳥を眺めて、魔女は友という存在に強く憧れるようになりました。その日から魔女は街へ繰り出し、困っている人々を魔法の力で救ってあげました。人々は驚きながらも、おそるおそる言いました。
『私にはお礼に値するような、お金も、宝石もありません。どうか命だけはお助けください』
すると魔女はこう答えました。
『お友達になって。私があなたに求めるものは、それだけよ』
人々は静かに首を振りました。
『人間と魔女は友にはなれません。あなたが、空飛ぶ鳥と友にはなれないように。物言わぬ本と、家族になれないように』
魔女はひどく落ち込みました。魔女と人間は友になれないなんて、魔女は考えたこともなかったのです。
それからしばらく過ぎました。一人の男が、友を探している魔女がいると噂を聞きつけて、森へやってきました。男も自分と友になってくれる人を探していたのです。けれどいくら森を探しても魔女の家はありませんでした。
友を求める魔女はもういません。家があった場所には一本の木が立っていて、その枝に止まった小鳥は静かに涙を流しました。




