約束
「まずはお茶を用意しよう。話はそれからだ」
そう言ってからノアはメイドを呼び、部屋にティーセットを運ばせた。彼はそれを受け取ってからメイドを帰し、今は手ずからお茶を淹れてくれている。
白い陶器のティーカップの中が夕日のような柔らかな橙色で満たされて、白い湯気がふわふわと上って空気の中へ溶けていく。彼は「どうぞ」と言ってそれを私の前へ置き、私は「ありがとうございます」とお礼を言ってからカップを手に取った。すっきりとしたさわやかな香りがふんわりと香る。
「それで、僕が怒っているっていう話だったね」
私がカップに口をつけると同時にノアが話し始めた。普通なら不快に思うであろう話題なのに、彼は相変わらず穏やかに努めている。
「怒っていないというのも、感謝しているというのも本当だよ。ただ……複雑な気持ちがあるのも本当だけどね」
「複雑?」
私の問いにノアは自嘲気味に薄く笑ってから、一度視線を手元のカップに落した。それからそっとを瞼を閉じたかと思うと、彼はすぐに顔を上げてまたいつものように優しげな表情で微笑んだ。
「……いや、気にしないで。それよりも重要なのは君のことだよ、エマ」
「私?どうして?」
「そうくると思った。君は賢い魔女だけど、ときどき愚かな魔女にもなるね」
ひどい言われようだ。形ばかりの褒め言葉も含まれていたようだけど、彼が一番言いたかったのはおそらく最後の言葉の方だろう。愚か。その言葉はけっこうな鋭さをもって、私の胸にグサリと突き刺さった。
傷心する私をよそに、ノアは平然とした顔でお茶に口をつけた。本当に、美しいのは顔だけで、心はけっこう捻くれていると思う。
「──僕はね、君の他者に対して誠実であろうとするところが好きだよ。そんなこと言うと、偽善だとか言う人もいるかもしれないけど。だけどそんなつまらないことで悩んでいるより、行動できる人のほうがかっこいいに決まってるだろう?」
ゆらゆら揺れる紅茶の水面を、ノアは穏やかなまなざしで見つめている。返す言葉が見つからない私は、ただ彼の続きの言葉を待っていた。するとノアはほんの少しの間を置いて、それから再び口を開いた。
「でも君は、他者に対して誠実に振る舞うのに、自分に対しては不誠実だよね」
怒っているわけでも、呆れた様子でもなく、ただ事実を述べているだけのように、彼は淡々と言った。それに対して私は否定も肯定もしなかった。
「君はリロイのために、大切な物を手放した。あの時君はあくまでも友人のためを装っていたけど、本当は少し違うだろう?君は相手が友人であれ、他人であれ、手放すことを選んだはずだ。手放す覚悟が早いか、遅いかの違いだけでね」
「……そんなの、その状況じゃないと分かりません」
「そうかな。僕は、君がいつも損をする方を選ぶと思うよ。自己犠牲とまでは言わなくても、自分が多少我慢すれば円満に解決できるなら、それがいいと考えるんじゃないかな」
叱られているわけではないのに、心臓にチクチクと針を刺されているような感覚と、居心地の悪さを覚える。ノアの言っていることは、たぶん、正しかった。今振り返ってみると、私の考える『円満に解決する』の中には、私はいつも含まれていなかったように思う。
「人間はいい人ばかりじゃないからね、小さい要求が通ると、少しずつ大きな要求に変える人間だっている。相手の感覚も麻痺していくんだよ。『こんなことを頼んでも、相手は平気そうだ』ってね。そんなわけないのに」
ノアにもそんな経験があるのだろうか。
彼の言葉を聞きながら、私はそんなことを考えていたけれど、口にすることは憚られた。
「それに、いくら小さな損だとしても、積み重なれば簡単に人を押し潰せる重さになる。心がダメになっていくんだ。だから僕は、君のその“癖“をよく思わない」
まじめな顔で、ノアが私を見つめる。彼が私を心から心配してくれているのだと痛いほどに伝わって、私はすぐに言葉を返す事ができなかった。
大丈夫。これくらい、何ともないわ。
自分が我慢すればみんな幸せになれるなら、そっちの方がいいに決まってる。
そんな言葉が、頭の中で浮かんでは消えていった。その言葉は“壁“だ。それ以上、私に踏み込まないでという壁。ここで素直にならなければ、きっとこの先私たちがどんなにいい関係を続けられても、目に見えない透明な壁が永遠に私たちの邪魔をするだろう。
「……約束します、ノア。私は、私のことも大事にすると。私のことを心配してくれた、あなたのためにも」
私がそういう言うと、ノアはやっと優しい笑顔に戻って微笑んだ。
「うん。ありがとう。……あぁでも、勘違いしないで。リロイのことは本当に感謝してるし、約束で君のことを縛りたいわけでもない。君はこれからも、君がしたいと思ったことをしてほしいんだ」
「分かっています。たとえノアが怒っても、私は私のために我慢をするし、何かを手に入れるために別の大切な物を手放したりもします。だけど、あなたが悲しむような選択はしません」
ノアは笑って、小さく「……うん」とだけ返事をした。さっきまで居心地の悪かったこの部屋も、今は少しだけ居心地が良くなった気がする。私がやっと和らいだ雰囲気にホッと胸を撫で下ろしていると、ノアが何かを思い出したようにソファから立ち上がった。そして机の方にまわって、引き出しから何かを取り出した。
「次に会う時に渡そうと思ってたんだ。何だか色々考えてしまって会いに行けなかったんだけど……。だから君の方から会いに来てくれて驚いたけど、本当に嬉しかった」
そう言って彼はソファに戻り、テーブルの上に一つの小さな箱を置いた。それに対して私が
「これは?」
と尋ねると、ノアは答えずに「開けてみて」とだけ言った。
彼がそれ以上何も答えないことを悟って、私は彼の言う通りに箱を手に取りそっと開いた。中に入っていたのは耳飾りだった。私が付けていたものとよく似たデザインのもので、けれど先端についている宝石が以前のものとは違っていた。瑞々しく、ホッとするような緑ではなくて、思わずうっとりしてしまいそうな蕩けるような蜂蜜色の輝きだ。
「君の耳が淋しそうだったから」
なんて可愛い言い訳だろう。そう思いながら、私は微笑んだ。
「よかったらノアが付けてください」
そう言うと、ノアは一瞬顔をぎょっとさせたけれど、すぐにコホンと小さく咳払いをしてから立ち上がった。
私の髪に彼の細くて美しい指が触れる。少し緊張しているのか、ぎこちなく髪を耳にかける仕草が面白くて、くすぐったかった。それからイヤリングを手に取って、そっと私の耳にそれを付ける。彼の真剣な顔にとうとう耐えきれなくなって、私が思わず声をだして笑うと、ノアは少しムッとしながら
「もう一つは自分で付けるといい」
と言った。
私は緩む頬に耐えながら、もう一つのイヤリングを取り付ける。けれどこの殺風景な部屋には鏡の一つすら置いていなかった。代わりに「どうでしょう。似合っていますか?」とノアに尋ねると、やっと機嫌を取り戻した彼はうんと柔らかく微笑んで、とびきりに優しい声でこう言った。
「うん。エマにすごく似合ってる」




