黒
そもそも、どうして彼は呪われたのだろう。
呪いに関する本をテーブルの上に山積みにしながら、私はそんなことを考えていた。
ページを捲るたびに、古い紙の匂いが鼻先を掠める。昔、おばあさんが集めたきり、結局使われないまま本棚にしまわれた本たち。活躍することのなかった本が幸せなのか、それとも不幸せなのか、私には知る由もない。
「これじゃあ埒があかない。リロイ、他に心当たりはないかな」
本の山から顔を出して、ノアがため息混じりにそう言った。
正直にいってしまうと、ノアが協力してくれたのは意外だった。あまり興味がない素振りを見せていたから、てっきり関わるつもりはないのだと思っていたのだ。
「いえ、特には。……あぁ、でも」
「でも?」
「関係はないと思いますが、最近、『呪われた』と言っていた知り合いがいました」
今思い出したという口ぶりで、リロイさんは言った。
それを聞いた私とノアは同時に本から顔を上げた。
「どうしてそれを先に言わなかったんですか」
「どうしてそれを先に言わなかったんだ」
◯
リロイさんの話はこうだ。
リロイさんには芸術家の友人がいる。
彼は型にはまったような芸術よりも、常に新しい芸術を追い求めるいわゆる“変わり者”で、権威ある他の芸術家たちからはあまり良く思われてはいないらしい。
そんな彼が先日、呪われた。
いつものように彼がアトリエで作業していると、首のあたりに痒みを感じた。暫くして次第に痒みは広がり、手や顔、お腹に発疹が現れ、赤く腫れ上がった。
幸いなことに三日もすれば症状は完全に治まったらしいのだけど、彼はそれを自分の作品をよく思わない人物が、魔女に頼んで呪ったのだと言っていたそうだ。
「関係がない、と言ったのは俺のかけられた呪いとは全然違うものだったからだよ。それに、」
「それが呪いかどうかはっきりしませんね」
私が言うと、リロイさんは頷いて、
「そういうことだ」
と言った。
「あくまでも俺の友人が『呪いだ』と言っただけなんだよ」
「確かに呪いじゃない可能性は十分にあるだろうね。第一、効果がイマイチだ。芸術家を相手にするなら、作品を壊したり、手に怪我を負わせた方がよっぽど堪えるだろうし」
美しい顔でさらりと毒を吐くノアに、私もリロイさんも顔を渋くした。ノアはそんな私たちを気にすることもなく、相変わらず優雅な所作でお茶を一口飲んでいる。
「そうだ。もしエマが気になるなら、友人に声をかけようか?というより、ぜひ会ってみてほしい。友人はその日以来、呪いを恐れてアトリエに行けてないんだ。呪いじゃないなら彼も安心するだろうし」
リロイさんの提案に、私は「ぜひ」と返事をした。
◯
「べつに俺は怖くねぇよ。ただアトリエに行くのが嫌なだけだ」
紹介されたのは、テオさんという青年だった。
テオさんはむすっとした表情でリロイさんを睨み、続いて値踏みするように私とノアを眺めた。
「リロイが連れてきたってことは、お前は俺に呪いをかけた魔女じゃないんだろ?それから……ん?お前、どこかで見たことがある気が、」
そう言って訝しげにノアを見つめるテオさんに、私とリロイさんは顔を青くした。
「テ、テオ!この方は……」
「ノエルだ。魔女殿の友人で、今日は付き添いに来た。よろしく頼む」
私たちとは対照的に、ノアは涼しい顔でそう言った。肝を冷やすとはこのことだ。
「ふぅん。ノエルね。……あぁ、悪い。リロイの友人なら、あんた達が悪いやつじゃないっていうのは分かってるんだ。ただ、暫く作品に手をかけられてないから気が立っちまった。気分を悪くしたならすまない」
あっさりと謝るテオさんが少し意外だった。
粗野な言葉遣いとは裏腹に、テオさん自身は思っていたよりもずっと素直なひとなのかもしれない。改めて考えると、彼はリロイさんの友人なのだ。彼が私たちを信じてくれたように、リロイさんの友人なら、私も彼のことを信じられるような気がした。
「よければアトリエを見せていただいてもいいですか?力になれることがあるかもしれません」
私の言葉に、テオさんは束の間顔を曇らせたけれど、最後には渋々といったように首を縦に振ってくれた。
「あぁ、分かったよ。せっかく来てくれたんだしな」
彼のアトリエは、彼の家から2、3軒離れたすぐ近くにあった。何でも彼を支援する人が、空いている家を好きに使っていいと貸してくれているらしい。
彼は薄い水色の扉をそっと開けて、「どうぞ」と言って私を招き入れた。ノアは「少し調べ物をしてくる」と言って席を外し、リロイさんはそれに付き添ったため、アトリエに入るのは私だけになった。
中は少しごちゃごちゃとしていて、私の工房と少し似ている感じがした。
作業台のようなテーブルが部屋の真ん中にドンと置かれて、その上には絵の具やら筆やらが乱雑に散らばっている。テーブルの横にはイーゼルと、原色を多く使った風景画とも人物画とも言えないような絵が制作途中で掛けられていて、絵の具なのか油なのか、ツンと鼻を刺激するような強い匂いが部屋にはこもっていた。
テオさんはアトリエに入ってすぐに部屋の窓をあけた。
淀んだ空気が風に流されて、少しだけ息がしやすくなったような気がする。
「あれ。奥にあるのは風景画に、人物画……彫刻もあるんですね」
目がチカチカするような、頭がぐるぐるするような、テオさんの世界が全面に押し出されるような作品とは別に、素朴な作品が部屋の奥の方でまとめられていた。
花瓶に生けられた花、たくさんの果物、美しい女性の微笑み。それから逞しい顔つきの男性の彫刻や、柔らかな曲線の女性の彫刻。手前にある鮮やかな色遣いの抽象的な絵や、不思議な形をしたオブジェと同じ空間に存在していることが、何だかちぐはぐのように思えた。
「おかしいだろ?普通の作品だって作れるのに、どうしてヘンテコな作品ばっかり作ってんだって思うよな」
「え?いえ、そんなことは」
ないとは言い切れなかった。
私は芸術に明るくない。だからどうしたって無難なものを美しいと感じる。実際、素朴な絵や彫刻は、素人の私から見ても美しかった。癖のないタッチや色遣いは目に馴染むし、見ていてホッとするような安心感がある。
どちらの作品が優れていると言う話ではなく、ただ素朴な絵の作品の方が万人には評価が高くなるのだろうなという感想だった。
「あっちは仕事、こっちは趣味って感じだな。仕事用の絵の方が需要があるし、何より才能がある。そっちの腕を磨き続けた方がいいって分かってるんだ。……だけどさ、」
テオさんが頭の後ろを掻く。言いにくそうな、照れくさいような雰囲気だった。
「これは芸術家としての性なんだろうな。自分にしか作れない作品を作りたいんだ。過去にも、未来にも誰にも真似なんてできっこない何かをさ」
目を伏せていても、その言葉の輝きは隠しきれない。
夢を語る人の言葉はどうしてこうも力強く感じるのだろうと、私は胸が高鳴るのを感じながら静かに聞いていた。
「それで最近は外国の美術品を参考にしてるんだ。それをどこで知ったのか、このアトリエを貸してくれている人がこんなものを贈ってくれてさ」
そう言ってテオさんは棚の中からひとつの器を取り出した。
薄い紙のようなものできっちりと蓋がされていて、テオさんはお気に入りのおもちゃを見せてくれる子供のような顔をしながら、その蓋の下を私に見せてくれた。
中にあったのは、黒だった。
絵の具でも、ペンキでもない、どろりとした黒。




