食わず嫌い
今日は朝から雪が降っていた。
薄暗い工房の中では薬草をすり潰す重い音だけが響いて、まるでこの部屋が世界から切り離されたような気さえする。時々、悴む手に息をかけたり、擦り合わせながらなんとか暖を繋いできたけれど、それが焼け石に水であることは誰の目にも明白の事実だ。苦笑いを浮かべつつもう一度すりこぎ棒を手にした時、コンコン、と控えめな音で工房の扉がノックされた。
「エマ、入ってもいい?」
ケイトさんの声だった。
「もちろんです。どうぞ」
私が返事をすると、扉は遠慮がちにゆっくりと開いた。扉の側に立っていたのは案の定ケイトさんで、けれど彼女は俯いたきり中に入って来る様子はないようだった。ケイトさんの様子を不思議に思いながら名前を呼ぶと、彼女はやっと顔を持ち上げて小さな歩幅でよたよたと私の近くまでやって来た。
「隣に座ってもいい?」
珍しく遠慮がちに言うものだから、私は笑って「どうぞ」と答えた。ケイトさんはそのまま丸椅子に腰掛けて、膝のうえでギュッと拳を握りしめる。その様子に、私は内心どきどきしていた。今から私は大事な告白を受けるのではないか。それは少なからず、私にショックを与えるものではないか、と、嫌な予感が胸の中でひっそりと息づいていた。
「あのね、エマ」
「……はい、ケイトさん。どうしました?もし鎮まり草のお世話が嫌になったのでしたら、」
「え?鎮まり草?ち、ちがうわ。そうじゃなくて、私が言いたかったのはあなたのことよ、エマ。あなた、顔色がどんどん悪くなってる。ご飯もあまり食べてないし、こんな寒い場所に一日中いたら死んじゃうわ。ねぇお願い。少し休んで」
切実な瞳が私を見つめながら揺れている。私は彼女の頼みにすぐに返事をすることができなかった。
「それは……」
私が言葉を濁すと、ケイトさんは眉間に皺を寄せて顔を曇らせた。自分の言葉が、行動が、誰かを傷つけていることに胸が苦しくなる。
「分かってる。魔女の作る薬が一番効果が高いし、人間に協力的な変わり者の魔女はエマくらい。私だって、エマの頼みじゃなきゃこんなことに協力なんてするつもりなかったもの」
ケイトさんの言う通りだった。国は魔女に協力を求めてはいるものの、挙手する魔女は現れなかった。そもそもほとんどの魔女は、瞳の色を変えて人間のなかに紛れているか、森の中でひっそりと暮らしている。そしてそれは自分から選んだ暮らしではない。人間の視線や、言葉や、態度が、魔女たちを追い込んだのだ。
「でもねエマ、今なら分かるわ。リロイは私の友達になってくれたし、ウィリアムだっていい人だった。人間を助けたいという気持ちが分からないわけではないの。……だから、ね。大事な人だけを助けてはいけない?あなたを傷つけた他の人間なんて見捨ててしまってもいいんじゃないの?それは、そんなに酷いことなの?」
そんなこと考えたことなかったわ。と、心から言えるような魔女なら、きっと私はもっと自分のことを好きになれた。けれど私は言えなかった。そんな邪な考えを、たったの一度もしたことがないと神に誓って言うことができなかったからだ。
「…‥ケイトさんには、私が店を開いた時のことをお話ししたことはありませんね。少し、聞いていただけますか?」
話を変えようとしたわけではない。その気持ちが伝わったのか、単に興味が湧いたのか、ケイトさんは静かに頷いた。
「私はもともと人間に好意的ではありませんでした。嫌い、というよりは、うーん……食わず嫌いに近いかもしれません」
「食わず嫌い?」
人間を食べ物に喩えられて、ケイトさんは首をかしげた。私はそっと微笑みながら言葉を続ける。
「はい。幼い頃に口にした苦味だとか食感をいつも薄らと覚えていて、いつまでも食べようとしなかったものってありませんか?」
「……あるわ。今でもチェリーパイが食べられない」
「私にとっては人間がチェリーパイでした。だけど一緒に暮らしていたおばあさんが亡くなって、私はおばあさんの名前すら知らないままお別れしたことをとても後悔したんです。大好きだったのに、私はおばあさんのことを何も知らなかった」
そんな簡単なことに気づくのが、私はあまりにも遅すぎた。いつまでも側にいられるわけではないと分かっていたはずなのに、その別れは今日ではないと楽観していた。もっと先の、永遠に来ない先の話だと、馬鹿みたいに安心していた。
「だから私は人間のことを知りたいと思いました。何も知らないまま最期の日を迎えたら、きっと私は後悔すると思ったからです。人間のことを嫌いだと思うなら、私はちゃんと人間を知ったうえで自信を持って嫌いだと思いたい。やっぱり人間は酷い生き物だったと、ちゃんと確かめたい。だけどもし違うのなら、馬鹿な私の勘違いだったなら、私は人間と友人になってみたい。そう思って、店を開きました」
真面目な顔で話を聞いていたケイトさんは、慎重な素振りで口を開いた。
「……それで、どうだったの?人間のことを、エマはどう思ったの?」
私は静かに首を振った。
「誰かの思いや考えは、簡単に心に入り込んでくるものです。魔女が人間に負い目を感じたように、人間が魔女を恐れたように。子どもが周りの大人から感じ取ったものが、今のこの国を作り上げました。私がケイトさんに願うのは、あなた自身の目で確かめてほしいということです。これからゆっくりと人間と関わって、そのうえでどうか考えてほしい。ケイトさんにとって、人間はどういった存在なのか、心を許せるのか、距離を置くべきなのか、それとももっと別の気持ちが生まれたのか──」
私の答えにケイトさんはちょっと拗ねたように唇の先を尖らせながら、「エマは意地悪ね」と言った。それから立ち上がり、工房の中をゆっくりと歩き出す。私への説得は諦めたようだった。
「残念だけどエマには負けちゃったみたい。だけどあんまり悪い気分じゃ……って、あれ?これってもしかして魔女の木?」
窓際の側で小さな植木鉢を指差すケイトさんに、私は頷いた。
「はい。冬でも葉が枯れないので分かりますよね」
「え?……うーん、そうね。だけどそれだけじゃないわ」
「それだけじゃない?」
「そう。なんて言うのかな。ほら、エマも感じない?魔女の木の近くにいると胸のあたりがポカポカするような、あったかくなるような感じがするの。前にリロイとこの話をした時は分かってもらえなかったけど、ハンナに話した時は分かってもらえたの。だから魔女特有の感覚なんだと思うけど」
そう言われてみるとそう思えてくるから単純だ。けれどこの枝は私が生まれる前からすでにこの家に置いてあったようなので、共に生活しているうちにその感覚が鈍くなっているのかもしれない。
「魔女と人間の詳しい違いについてはまだ分からないことが多いのでその感覚は正しいかもしれません、ね………あっ」
その時、ふと先日ノアと話していたことを思い出した。
『王都は変わらず賑やかで、王都から離れた地域ばかり感染者が増えているのは気になります』
『今朝通った広場も、近くの市場も変わりないようだった』
そう、広場だ。広場には魔女の木があるのだ。




