ディランとハンナ
魔法が使える。
私はハンナさんの言葉を頭の中で復唱した。それはとてもつもなく甘やかな響きに思えた。
魔法というのは、魔女にとっての憧れだ。人魚が陸に恋をするように、人が空を夢見るように、魔女は魔法に憧れる。それは生まれたときから、もしくは生まれる前から、本能のなかに嫌というほど刻み込まれている事実だった。
「あ、ちがうの。魔法が使えると言っても、私が使える魔法は一つだけ」
と、暗い顔をしながらハンナさんはそう言った。
「一つだけ?」
私が聞き返すと、ハンナさんはこくりと小さく首を縦に振って、秘密を打ち明ける時のような神聖な雰囲気のなか、『一つだけ』の意味を教えてくれた。
「植物を、生み出せるの。とはいっても、何でもじゃなくて、私が実際に見て、よく観察して、目を閉じてもちゃんと覚えているくらい頭の中に入ってる植物だけ。私が使える魔法は、それだけ」
薄暗い部屋の中で、まるで自分を卑下するみたいな口調で彼女は、彼女が使える魔法のことを話してくれた。
すごい、と思った。羨ましい、とも。彼女は私にないものを持っている。けれど、魔法が使えないすべての魔女の憧れを手にして尚、彼女の表情は暗いままだった。
「……あまり、嬉しそうではありませんね」
ハンナさんの眉根に皺が寄る。今まで抱え込んでいたものが溢れ出すように、彼女は苦しそうに顔を歪めた。
「だって、こんな魔法が使えたって意味がないもの。お花でお腹はいっぱいにならないし、売ったって大したお金にならない。こんな魔法、何の役にも立たない」
小さな手のひらで握りしめられたスカートに、濃い皺ができている。私はそれを黙って見つめていた。
私には、彼女の苦悩が分からない。だって私にはそんな特別な力はないから。だから想像してみたところで、『私だったら中庭で育てている薬草のスペースを、別のものに使えるのになぁ』とか、『わざわざ山や森に薬草を採りに行かなくていいなんて、楽ちんでいいなぁ』とか、そんなことしか考えられない。
だけどそれは、『便利』の壁を越えられないということでもあった。たとえば私が、空を飛ぶ魔法を使えたとして、それが自由に空を高く飛べるものではなく、家の二階くらいの高さを少しの間飛べる魔法だったらどうだろう。それは少し、というよりかなり、がっかりするかもしれない。確かに便利だけど、あんまり役には立たない気がする。ハンナさんの気持ちは分からないけれど、そういうことなら少し分かるような気がした。
「……でも、ハンナさんは植物が好きなのですよね?」
と、私は言った。ハンナさんは足元に落としていた視線を上げて、私とよく似た色をした瞳で、私を見つめ返した。
「うん、好き。でも好きだからこそ、自分に与えられたものが中途半端なもので悲しかった」
「悲しい?」
「そう。私も、お兄ちゃんも、いつかこの孤児院を出て暮らしていかなくてはいけないでしょう。私、この魔法が使えると気付いた時、とても嬉しかったの。何でもできる気がした。この魔法で、お兄ちゃんを助けられる。施設を出たあとも、二人で幸せに暮らしていけるって。でも、後から気づいたの。お花が出せたって何の役にも立たないって。でも私に出来ることなんて、それくらいしか思い浮かばなかった」
私は、なるほど、と思った。ハンナさんは自分のためではなく、誰かのために魔法を使いたかったのだ。
「私に弟子入りしようとしたのは、二人の暮らしを守るためですか?」
頷くハンナさんに、私はようやく色んなことが見えてきた気がした。
「王子様の隣に立てるくらいすごい魔女なら、役立つことをたくさん教えてもらえると思ったの。今まで、お兄ちゃんは私のために色んなことを我慢してくれた。今度は、私がお兄ちゃんを助けたい。もうなんにも我慢しなくていいくらい、幸せになってもらいたいの」
切実な祈りを孕んだ瞳が切なく揺れる。
彼女と出会ってまだ数時間しか経っていないけれど、私はこの時点で彼女のことがけっこう好きだと思った。こういうどこまでも澄んでいて、優しく、あたたかな思いは、どうか報われてほしいと思う。そしてその手助けができるなら、私はとても嬉しい。そういう思いのために、私はたぶん、あの店を開いているのだから。
「やっぱり、弟子にはできません。少なくとも、今は。私もまだまだ未熟で、教えることより、教わることの方がよっぽど多いからです。ですが、これは提案なのですが……」
◯
私たちが話し終えると、部屋の外にはすでにディランさんとノアの姿があった。ディランさんはちょっとムスッとした表情で、ノアは相変わらず軽やかな雰囲気を漂わせながら微笑んでいる。きっとノアがまた自分のペースに相手を巻き込んだんだわ、と私は思ったし、たぶんそれは合っている。
「やぁ。話はできたかい?」
片方の手をあげて、ノアは明るくそう言った。その様子だと、彼の方もちゃんと話ができたらしい。私は少しほっとした。
「そうですね。でもそれは私の口からではなく、できればハンナさんの口から……」
名前を呼ばれたハンナさんは、一度びくりと肩を上げたあと、おずおずとディランさんの前まで出てきた。私とノアは、その様子をただ黙って見つめていた。きっと今、私たちの胸に灯る明かりは同じ温度をしている。
「あのね、やっぱり弟子にはしてもらえなかった」
「……そうか」
「でももっと植物のことを勉強して、色んな薬草を魔法で作ることができるようになったらお姉さんが買ってくれるって。それに、薬草とかお花を取り扱ってるお店にもお願いしてみるって」
ハンナさんの言葉にディランさんはそっけない返事をしながらも、愛のこもった眼差しでしっかりと彼女を見つめていた。それからハンナさんは一度話すのをやめて、ほんの少しの間を置いたあと、再び口を開いた。今までの弱々しい瞳の揺れがなくなって、ただ真っ直ぐに、お兄さんと向き合っている。
「私、ちゃんと勉強するね。もうお荷物になんてならない。今度は私が、お兄ちゃんのこと守ってあげるから」
ハンナさんの小さな手が、ディランさんの荒れた手をそっと包み込む。きっとその手に浮かぶ小さな傷は、今まで彼女を守ってきた優しい勲章だ。
ディランさんはほんの少し顔を歪ませながら、不器用に笑った。私はその妙に固い笑顔が、何だかとても愛おしく思えた。
「俺はずっと、お前に守ってもらってたよ。お前がいなきゃ、俺はもっと駄目なやつになってた。お前がいたから、強いフリができたんだ」
私たち以外誰もいない静かな廊下に、柔らかな光が満ちていく。どうかこの温もりが、いつまでも彼らの胸に残り続けますように。そう祈りながら、私は二人を見つめていた。
「でも俺のそばにいたら、お前は幸せになれないだろう?だからお前が、『あの人の弟子になれたら』って呟いたとき、お前が幸せになれるチャンスだと思ったんだ。……だけど、そいつが」
そう言って、ディランさんは横目でノアを見た。瞬間、私はひゅっと顔色を青くした。いくら子どもとはいえ、相手は王族だ。『そいつ』なんて呼んでいい相手ではない。
私が間に入らなくては、とあたふたしていたら、ノアがにこにことした笑顔のまま「そいつ?」と首を傾げた。するとディランさんは「げっ」と嫌な顔したあと、「王子様が」と言い直した。どうやら先ほどの時間で、ディランさんは嫌というほどノアにしごかれたらしい。
「王子様が、『ちゃんと話せ』って。『たとえいつか離れるとしても、後悔が残るような別れはやめておけ』ってさ。クサいなって思ったけど、まぁ確かにそうだなとも思ったんだ。…‥俺たち、お互いのことばっかり考えたけど、相手の気持ちは考えてなかった。だからさ、今度、ちゃんと話そう。明日でも、今夜でも。それでちゃんと、二人で答えを探そう。せっかく兄妹として生まれたんだ。話もしないまますれ違うなんて、勿体無いしな」
最後に茶化すようにディランさんが笑って、ハンナさんは瞳に涙を溜め込みながら何度も頷いた。
こうして仲のいい兄妹のややこしいすれ違いは丸く収まり、私とノアは夕日に包み込まれるなか、孤児院を後にした。オレンジ色の街を二人並んで歩いていると、ノアが突然「エマ」と口にした。その声につられて、私は彼を見上げた。彼の真っ白の髪に、夕日のオレンジが透けてさらさらと揺れている。
「君も、僕の幸せを願ってとか言って勝手に離れたりしないでくれよ?君はそういうことをしそうなタイプな気がする」
「それを言うならノアだって……」
そう言ったところで、私たちはお互いに顔を見合わせて、笑った。あの兄妹に偉そうなことをしておいて、私たちも同じ土俵の上にいたらしい。
神様。どうか寂しがりやな私たちが、できるだけ長く孤独を忘れていられますように。そんなことを願いながら、私たちは夕ご飯のなめらかな匂いが漂う街の中を歩いていった。




