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あいしてる

 師匠が城に連れて行かれた四日目の朝、私は師匠の訃報を聞いた。

 朝早くに我が家を訪ねて来た王子は、ひどく()()()()()いるように見えた。瞼を赤く腫らして、黄金の瞳は色をくすませて、色んなものに悲しんで、疲れて、絶望している。そんな感じだった。

 きっと優しい師匠なら、この男にお茶の一杯でも淹れてあげるのだろう。悪態をつきながら、それでいて軽やかに、この家で一番お気に入りのあの席へ彼を案内するのだ。……でも、もう師匠はいないらしい。あのテーブルで、お気に入りの紅茶を飲みながら、細めた瞳で窓の外を眺めるあの美しいひとは、もうこの世界のどこにもいないらしい。


「っ……、どうして?師匠は人間を助けたじゃない!人間のために力を尽くしたじゃない!!どうして死なせてしまったの!?あのひとが一体、なんの罪を犯したというの!?」


 ぼろぼろと溢れて来る熱い雫を拭うこともなく、私は目の前の男の体を力いっぱい殴った。何度も何度も殴って、殴って、殴って、それでも彼は私の手を振り払うこともなく、ただ為されるがままに殴られ続けていた。まるで人形を相手にしているみたいだった。虚しくて、悲しくて、彼をいくら罵ったところで、この込み上げるような衝動は収まりそうになかった。


「僕は君に、彼女からの伝言を伝えに来たんだ。それだけ伝えたら、僕は帰るよ。君は僕の顔も見たくないだろうし、何より僕も、疲れた」


 目が合っているのか、合っていないのかすら分からないほどに、男の目は暗かった。けれど私には、気持ちを分かち合うような情も、余裕もない。


「伝言?」


 私の問いに、彼は静かに頷いた。


「君に、『愛してる』と伝えてほしいと。君との日々が、宝物だったそうだよ。すごく、幸せそうに笑ってた。あんなに屈託なく笑う彼女を、僕ははじめて見た」


 私は瞬きの間、言葉という言葉をすべて忘れてしまった。そして次の瞬間、あらゆる感情が波のように押し寄せて来て、私は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。

 愛してる。私も、貴方を愛してる。

 村を追い出された私を拾ってくれたあなた。

 私に魔法を教えてくれたあなた。

 薬の作り方を教えてあげると、子供のように喜んで、力いっぱいに抱きしめて、頭を撫でてくれたあなた。

 

 本当に、もうあの人はいないの?私に笑いかけてはくれないの?頭を撫でては、くれないの?…‥この男のせいだ。すべて、すべてこの男がこの家にやって来たせいだ。私たちの平穏は、この男にぶち壊された。

 このまま、怒りに身を任せてしまいたかった。師匠が教えてくれたありとあらゆる魔法を、この男にかけてやりたかった。だけど、それはできなかった。できるはずが、なかった。


「…‥帰って」


 私はそれだけ言った。彼は何も言わずに背を向けたけど、そのまま踏み出そうとした足を一度止めて、何故だかこちらを振り向いた。


「言い忘れていた。書斎に贈り物を用意したそうだ。詳しいことは教えてもらえなかったけれど、君ならそれだけで分かると。……それと、」


 そこで彼は一度言葉を区切った。それを口にするか迷っている様子だったけれど、やがて心が決まったのか、彼は再び口を開いた。


「彼女の……亡骸は、国境近くの森にある。木に、姿を変えて。彼女は変な言い訳をしてたけど、たぶん、死んでからもこの国を見守りたかったんだと思う」


 それだけ言って、今度こそ彼は帰っていった。

 ……疲れた。何もかも。全てのことが、どうでもいい。だけど私には、どうしてもしなくてはいけないことが残っていた。うまく力が入らない膝を立てて、私はのそのそと熊のようにゆっくりと立ち上がった。それから壁伝いに部屋の奥へと進んでいく。

 廊下の、一番奥にその部屋はある。師匠の書斎にはよく出入りしていた。片付けが苦手な彼女はよく部屋を散らかしていたから、見かねた私がいつも片付けをしていた。扉を開くと、相変わらず部屋は散らかっていた。

 物が散らかっている机。

 描きかけの魔法陣のメモ。

 足元に転がっている骸骨の模型。

 けれど、見慣れた景色の中に、唯一見慣れないものが置かれていた。


「…‥鏡?」


 そこには壁にかけられた大きな鏡があった。

 その鏡にそっと触れてみる。何の変哲もない普通の鏡だ。だけど、ここには何かがあるはずだと私の直感がそう言っている。押しても、何も起こらない。じゃあ引いてみたら……?するとその鏡はあっけなく、扉のように手前に開かれた。師匠のやりそうな悪戯だった。

 私は、奥に続く階段を降りていった。暗くて、少し不気味だったけれど、師匠が私に贈ったものがこの先にあるのなら、何も恐れる必要はなかった。


 そして、一番奥の扉に辿り着いた。扉にはすでに鍵が差してあった。それを捻るとカチッと音が鳴る。私は何の躊躇いもなく扉を開いた。


「…………」


 目の前に広がったのは、美しい緑。

 足元には色とりどりの花が咲いていて、空は穏やかな昼下がりのような薄い青が広がっている。呆然とする私のすぐ横を、青い小鳥が横切るようにして飛んでいった。……これは、師匠の魔法で作られた部屋だ。

 正気に戻ると、私は視線の先に小さな白いテーブルと、二脚の椅子が置いてあるのを見つけた。近寄ってみると、テーブルの上には一つの封筒が置かれていた。中には、数枚の手紙が入っていた。



 ──愛する弟子、ベアトリスへ


 先に謝っておくわ。寂しがりやな貴方を置いていってしまうこと、本当にごめんなさい。

 だけど、ルイスのことは責めないであげて。すべて分かっていながら、彼と関わることを止められなかった私がすべて悪いのだから。

 最初は、本当に気まぐれだったの。この国がなくなってしまう前に、貴方と二人でよその国へ行くつもりだった。魔法さえあれば、どこでだって暮らせるもの。私は貴方さえいればよかった。貴方だけが、私の宝物だった。

 だけどね、彼、馬鹿なところがあるでしょう?国のためだからといって、護衛も付けずに魔女の家にくるなんて呆れたわ。だからちょっとだけ面倒を見てやるつもりだったのに、変なところで真面目だったり、本当は寂しがりやなところが貴方とよく似てたの。そしたら、嫌いになんてなれなかった。

 ねぇ、ベアトリス。私は好きに生きたわ。貴方と共に暮らしたことも、彼と過ごした日々も、私には等しく幸せな時間だった。だから、貴方も好きに生きなさい。そして叶うなら、貴方のこれからがたくさんの愛で満たされることを願っているわ。


 リリー



 私はこの時、一生分の涙を流したと思う。

 師匠。……ねぇ、師匠。私を置いていった残酷な魔女。私を愛してくれた慈悲深い魔女。あなたは本当に、百合のようなひとだったわ。




 それからまた時は流れていった。

 師匠が森の中で息絶えたことを、王子の口から聞かされた王はその死を悼み、隣国との話し合いに決着をつけた後すぐに病に倒れた。王は自分の判断が魔女の命を奪ったのだと気に病み、病床のなか後悔の言葉を漏らしていたそうだ。

 王位を継いだのは、あの優しさだけが取り柄の王子だった。彼はまず傾いた国勢を持ち直すことに尽力した。時間をかけながらも何とか国が活気を取り戻したころ、広場には一本の大木が植えられた。


 その木がどこにあったものなのか、そしてその木がかつて美しい花の名前で呼ばれていたことを、私は知っていた。私だけじゃない。この国のすべての人間が、そしてすべての魔女が、その木の美しい緑に、誰かの面影を重ねていた。けれど、それを誰も口にはしなかった。口にした途端、かの偉大な魔女の献身は、水の泡になってしまうことを理解していたからだ。人々はその木に親しみを込めて『魔女の木』と呼び、まるで友人のように寄り添った。


 その後、立派な王となったかつての優しい王子は、その生涯のほとんどを国のために費やしたあと、長年の無理が祟って体を壊した。王位は弟に譲り、彼は死を待つだけとなったのだ。


「貴方、すっかりおじいさんね」

「そりゃあそうだ。僕は人間だからね」


 私はときどき猫に姿を変えて彼のもとを訪ねた。

 本当は呪ってやるつもりだったし、そのために呪いの本も、そのための道具も山ほど集めたというのに、それを行動に移すことはついぞできなかった。


「貴方はもうすぐ死ぬけれど、何か願いはあるかしら。貴方とも長い腐れ縁になってしまったし、ちょっとした願いくらいなら冥土の土産に叶えてあげてもいいわ」


 彼は笑った。目尻の皺が美しく、眩しかった。


「ありがとう。だけど心配には及ばないよ。僕の願いはたった一つだけ。それが叶うのも時間の問題さ」


 私は「ふぅん」と答えてから、窓辺に飛び乗った。


「……私、もう行くわ。師匠によろしく伝えてちょうだい」


 それだけ言って私は城を後にした。去り際に、「僕は伝言を頼まれてばかりだなぁ」と独り言が聞こえたけれど無視をした。

 それから三日後。先代の王が逝去したと発表された。私はまた一人になった。


 百年が過ぎても、二百年が過ぎても、孤独が埋まることはなかった。中身が空っぽのまま淡々と日々は過ぎていき、四百年が経ったある日の朝、我が家の前に小さな命が眠っていた。

 小さなカゴの中に、ブランケットに包まれた赤ん坊が一人と、手紙が一枚。そこには『この子の名前はエマです。どうかこの子をよろしくお願いします』と、人間らしい身勝手なことが書き記されていた。

 四百年前、一人の魔女と、一人の王子が、あんなに奮闘したにも関わらず、魔女への冷遇はそう簡単には変わらなかった。それでも、体一つで放り出されたあの時代に比べれば、温かなブランケットと手紙は小さな進歩かもしれない。


 私はその子をそっと抱きあげた。さて、この子をどうしてしまおうか。そう思っていたら、眠っていたその子がパチリと目を覚まして、まっすぐな瞳で私を見つめた。目があった途端、緑の目を細めて笑う顔が、大好きなあの人とどこか似ていた。

 たったそれだけのことだった。それだけのことで、溢れてくる熱い涙を、止めることができなくなった。とうに枯れ果てたと思っていたけれど、何かを想う気持ちには終わりはないらしい。


「“エマと言うのね。……じゃあ改めて。はじめまして、エマ。貴方もひとりぼっちなの?よかったら、私と一緒に暮らさない?“」


 かつて師匠が私くれた言葉をなぞってみる。師匠は、どんな気持ちでこの言葉を私にくれたんだろう。そんなことを考えながら、私はエマと共に二人暮らしを始めた。

 それからは試行錯誤の日々だった。赤ん坊を一人育てるというのは、想像よりずっと大変だった。それに、この子が大きくなった時のことも考えなくてはいけない。今はまだいいけれど、この子が成長するにしたがって、私たちは親子から姉妹に変わって、そのうち外見の歳の差は逆転するだろう。それならば、この子が混乱してしまわないようにと老婆へと姿を変えた。

 時間を共にするたびに、愛は深まり、孤独は和らいだ。エマは、私の宝物になった。


 そんな幸せに満ちた日々のことだった。私はふと、自分の死期が近いことを悟った。そうしたら、途端にエマを残していくことが不安になって、彼女の未来を占った。最悪なことに、エマのもとにこの国の王子がやって来るらしい。かつての悪夢が頭をよぎるのと同時に、私は一つ賭けに出ることにした。

 エマと、そして王子に真実を。

 同じ悲しみだけは、決して繰り返さないように。そして、時代が進むにつれて醜い魔女にされてしまった彼女が、本当はとても美しい魔女だったのだと、どうか貴方たちだけでも心に留めておいて。


 そう願いながら、私は師匠が残してくれたあの部屋に日記を置いた。やっと私の願いも叶いそうだというのに、今となっては淋しい気もするわ。


「ねぇ、エマ。愛してる」


 瞼の裏に映る愛しい笑顔に、私はそっと語りかけた。

過去のお話はこれで一度おわります。お付き合いありがとうございました。

エマとノアのお話はまだ続きますので、よければお付き合いください。

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