優しい魔女
教会での治療はまさに地獄みたいな心地がした。
案内された部屋にいた患者は大体30人くらい。みんな私の瞳を見て怯えていたし、暴れる患者までいたから時間は予定よりずっと遅れていた。額に滲む汗を拭いながら、ほんの束の間、教会の窓から外を眺めると、さっき治したばかりの子どもがもう外に出て教会の前を走っていた。
一日は安静にしなさいと言っておいたのに。これだから言うことを聞かない子どもは苦手だ。そんなことを思いつつもう少し眺めていたら、子どもの走る先に、男女の大人が二人立っていることに気がついた。それが子どもの両親だと気づいたのは、子どもの顔があんまりにも明るかったのと、元気な子どもの姿を見て涙する両親の姿が、いつか本で読んで想像していた『家族』のイメージとぴったりと重なったからだ。
……そうか。あの子どもには、自分が元気でいることを素直に喜んでくれる家族がいたのか。それは、よかった。心からそう思った。人間がどれだけ嫌いであっても、こういう素肌に触れたときのような、柔らかなぬくもりのある光景に、私はどうしようもなく弱い魔女だった。
「……リリー。君に謝らなくてはいけないことができてしまった」
そんな時だった。しばらく席を外していたルイスがやっと戻ってきたかと思えば、申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ていた。私はなんだか嫌な予感がして、「聞きたくないわ。喋らないで」と答えた。こういう時の私の直感はよく当たる。
「ごめん、そういうわけにもいかないんだ。……あのね、患者はこの部屋だけだと思っていたんだけど、まだ二つ部屋があるらしいんだ」
「それってつまり、この教会には100人ほどの患者がいて、それを治療できるのは私だけってこと?」
「そういうことになる。それに、教会を訪ねる患者は後を絶たない。まだ増え続けることになると思う」
そんな……。
絶望するって、きっとこういうことだわ。目の前が真っ暗になって、足元がぐらぐら揺れている気がする。長い道のりを何とか歩いたその先で、急に行き止まりの看板を突きつけられた気分だった。
この人数を、私一人で治療するの?それも、まだ増えるというのに?……そんなのって、絶対に無理だわ。今でさえ立っているのがやっとだというのに、体力も、心も、どんどんすり減ってる。これ以上は、限界だ。
「…‥私、帰るわ」
私は独り言のように呟いた。
我儘だと言われようが、非情だと蔑まれようが、どうでもよかった。とにかく今は帰って、あたたかいシーツに包まれて眠りたい。それだけだった。
私がよたよたとした足取りで扉へ向かって行くのを、その場にいる誰も止めなかった。ルイスだけが、一度私のほうへ手を伸ばしかけたのを視界の端で見たけれど、結局その手が私に触れることはなかった。代わりに、「送るよ」と背中に声がかかったけれど、私はそれを手のひらを振って断り、教会を後にした。
◯
それから数日が経った。
私は家の中に転がっている本を魔法で片付けながら、ひっそりとため息を漏らした。教会を去って数日、ルイスはこの家を訪ねてこない。それはつまり、もう彼がこの家を訪ねることはないということだろう。……別にいい。私にとって、彼に関わらない方が正しい選択なのだ。面倒な役目からも解放されたし、嫌なことなんてひとつもない。
そんなことを考えている時だった。控えめな音で、久しぶりに扉がノックされた。今日は占いをする気分じゃないけど、まぁ退屈凌ぎにはなるかもしれない。私は返事をするよりも先に扉を開いた。
「わぁっ、びっくりした。ちゃんと相手を確認してから扉を開かないと駄目だよリリー」
「……なぜ、ここに貴方がいるの?」
「あぁ、うん。そうだよね。……あのさ、あの後、僕も何とかならないかって町中の医者に呼びかけたんだ。だけど医者も手一杯で、どうにもならなかった。それでね、リリー。君をまた困らせてしまうのを承知で言うんだけど、やっぱり手を貸してもらうことはできないかな?」
いつも憎らしいほどに歯切れのいい彼が、珍しく口をもごもごさせながら言いにくそうに言葉を発していた。それが何だか面白くて、何もかもどうでも良くなって、私は笑いながら「まずは家に上がったらどう?」と声をかけた。彼はまだ少し気まずそうにおずおずと家の中に上がると、今度は床やらテーブルやらを見て目を丸くした。まったく、ころころと表情が変わる男だ。
「何だい、これ。家の中がめちゃくちゃだ。テーブルの上にあるのは、秤?それにすり鉢……?これは、薬草の本?」
ルイスは一つ一つ手にとって、まじまじと見つめた。今度は私の歯切れが悪くなる番だった。
「仕方がないでしょう。私、薬の調合みたいな細々とした作業が苦手なの。本当はぜんぶ魔法で解決できたらいいんだけど、それじゃあ体力がもたないわ。それに知識も必要だったから勉強しなくてはいけなかったし。結局、薬の調合が得意な魔女を知っていたから、その子に助けてもらって何とか患者のための薬を用意したんだけど……って。えっ、なに。泣いてるの?」
急に目頭を押さえながら屈むルイスを見て、私は驚いた。
えぇ?これって謝った方がいいのかしら。でも私は何に対して謝ればいいの?そもそも彼は、どうして泣いているの?
おどおどする私を前に、ルイスは吹き出すようにして笑った。私は意味が分からなかった。彼って魔女よりもよっぽど変だわ。
「僕はてっきり、もう二度と教会には来てくれないんだと思ってたよ。我儘ばかり言う僕に嫌気がさしたんだと」
「もちろん嫌よ。でも私、約束を違えるような不誠実な魔女ではないわ」
「あぁ、……うん。そうだね。リリーは最初から誠実な魔女だった。貴方はいつだって僕を傷つけることができたのに、そうしなかった。人間を助ける義理なんてないのに、貴方は助けた。今だって、貴方は僕らのために目の下にクマまで作ってる。君は名前の通り、美しい魔女だ。僕は、リリーが大好きだよ」
ふっと笑うルイスに、私は「あっそう」とだけ返事をして、それから一度工房の奥に引っ込んだ。
少し気恥ずかしい気がしたし、威厳ある魔女にしては今の私の顔は情けないものになっている気がしたからだ。それにもう一つ、目的があった。私は自分の顔が戻ったことを確認したあと、それを手にとって部屋に戻った。
「おかえりリリー。その手に持ってるものは何だい?」
「薬のレシピが書いてあるの。これを教会側にも手伝ってもらえれば、私の負担はだいぶ減るわ。と言っても、ただ人が作っても効果は薄いから、最後の仕上げは私がするんだけどね」
「なるほど。じゃあそれは僕が責任を持って教会に依頼するよ」
「えぇ、助かるわ。これまで水をかけられたら、今度こそ投げ出してやろうと思ってたから」
冗談のつもりで口にしたのに、ルイスはまた難しい顔をしてしまった。
まだあの時のことを気にしているのだろうか。あんなことをいつまでも気にしていたら辛いだけだろうに。本当に、馬鹿な男だ。馬鹿で、どうしようもなく優しい男。
「僕は、貴方にずいぶん酷なことをお願いしてしまったね」
「あら。今さらそんなこと言うのね」
「うん。本当に、そうだね。魔女に頼むことではないと、ちゃんと分かってたはずなんだけどなぁ」
情けない顔をして、へらりと力なく笑う彼は何だか痛々しかった。私は黙って、彼の瞳を見つめていた。二つの黄金の瞳が、悲しく揺れている。
「……僕はさ、表面だけを見て、全てを知った気になっていたんだと思うんだ。僕にとって『嫌われ者の魔女』というのは、本の中の話と同じだった。どこか遠い、身近ではない場所の話だと。だけどこの間、目の前で水をかけられたのを見たとき、一気に夢から醒めたような気がした。あんなことを受け入れてしまう貴方が、今まで受けてきた傷はいったいどんなものだろうと、その時やっとはじめて想像した。だけど想像はつかなかったよ。当たり前だよね、今まで考えたこともなかったんだ。分かるはずがない」
そう言って目を伏せた彼のおでこを、私は思いっきり指で弾いた。彼は目を丸くして、おでこを手で押さえながら私を見ている。「何をするんだ」と顔に書いてある気がした。
「そんなもの、分かるはずがないでしょう。人間も、魔女も、他人の表面しか見ることはできない。中身を見れるのは、自分のことだけ。……だから、貴方がもし、よい王になりたいなら、他人の気持ちを分かってあげられる王になりなさい。言葉や行動にはその人なりの理由があることを、常に心に置いておくといいわ」
私がそう言うと、ルイスはもう一度目を伏せた。今度は落ち込んでいるのではなく、何かを考えているような、そんな表情だった。
「──たとえば、村の人間が魔女を追い出すのは、脅威から家族や生活圏を守るため。教会の人間が魔女に水をかけるのは、教会の神聖さを保つため、とか?」
「そうね。あとは優位さを示したいのかも。教会は威厳で保っている面があるでしょう。魔女に下手に出る教会に、祈りに来る人も、寄付をする人もいないでしょうね。将来、王になるなら、相手を持ち上げる場面とこちらの威厳を示す場面を上手く使い分けるといいわ」
ルイスは笑って、「僕より政治向きなんじゃない?」と言った。政治に関わるなんて、絶対にお断りよ。
「じゃあさ、貴方が僕に手を貸してくれるのにも理由があるの?」
ルイスの目が私を見つめる。私は笑ってこう答えた。
「ただの気まぐれよ」




