FILE No.077 背負わされる者
洛耀第での大茶会より、五ヶ月余り……。
世に対しては、太閤•照羽徳臣が重い病に伏し、いかなる者との拝謁も叶わぬ状態にあるとだけ公にされていた。
それは、洛耀第で起きた太閤の身に関する事実を覆い隠すための表向きの形。
だがその裏では、太閤がいずれ政へ戻るかのように装いつつ、帝族、公家衆、諸大名、そして照羽家の重臣達が事実を天下へ広めぬよう、昼夜を分かたず照羽の天下を支え続けていた。
その中枢を担ったのは、五大老である。
内大臣•豊川家吉ーー東国250万石を束ねる五大老筆頭。
大納言•金樫利親ーー嘉賀100万石を治める北陸随一の大大名。
中納言•八握景元ーー中国一帯に広大な版図を有する西国の雄。
中納言•上江輝勝ーー悦後•藍津を束ねる名門上江家当主。
中納言•富治多秀宗ーー飛前•深作を治める若き名将。
五大老は、各々広大な領国を治める身でありながらも、天下の均衡を守るという唯一の目的のため、太閤の御座所たる藤御城に集い、政の方策を諮り続けていた。
一方、実務を司ったのは五奉行である。
政務奉行•磐岐継成ーー天下の政務を統べる五奉行筆頭。
朝儀奉行•麻城長継ーー朝廷、公家衆との折衝を担う。
勘定奉行•桝倉盛景ーー財政、年貢、蔵入地を預かる。
寺社奉行•永瀬正家ーー寺社勢力と都の統制を司る。
軍役奉行•前崎厳澄――軍役、兵站、諸将の動員を掌る。
朝廷への奏上、諸大名への触れ、財政の管理、城中の統制。
そして徳臣名義で発給される朱印状の処理に至るまで……。
五奉行は日々の政務を滞りなく執り行い、五大老はその上に立って天下の均衡を支えた。
各々異なる役目を担いながらも、太閤の御名の下に照羽の天下を繋ぎ止めるという一点においてのみ、彼等の思惑は一致していた。
だが、その胸中までもが一つであった訳ではない。
紗々と、その腹に宿る御子こそが、照羽の未来であると信じ、その命を守ろうとする者。
生まれ来る後継を旗印として掲げ、天下の均衡を保たねばならぬと考える者。
そして……。
やがて訪れる時代の変化を、静かに見据える者。
忠義の形も、守るべきモノも異なりながら、この五ヶ月の間、誰一人として、その均衡を崩そうとはしなかった。
全ては、照羽の血を継ぐ後継が生まれる、その時まで……。
--京洛•藤御城--
景長三年(西暦1598年)八月初旬。
五ヶ月に及ぶ沈黙の果て、ついにその時は訪れた。
この日、藤御城は重苦しい静寂に包まれていた。
側室•紗々が、突如として産気に襲われたのである。
懐妊の報が齎されてから、僅か五ヶ月余り……。
産月を迎えるのは遥か先であり、本来ならば、胎内で静かに命を育むべき時期である。
「まさか……。」
産婆達の顔色が一斉に変わる。
「は、早過ぎます……!」
誰もが狼狽し、慌ただしく産室を駆け回った。
予定より二〜三ヶ月も早い、出産の兆し。
それだけでも、常識では考えられぬ事態であった。
だが、胎内の命は人の理を嘲笑うかのように、まだ見ぬ外界へと、這い出ようとしていた。
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長い時を経たようにも、ほんの一瞬の出来事のようにも感じられる静寂の後……。
重々しい帳の内側から、一つの産声が響き渡る。
それは、生まれたばかりの赤子のモノとは思えぬほど、低く粘りつくような、不氣味な脈動を帯びた声であった。
「ひっ……。」
産婆達は一様に息を呑み、血の気の失せた顔で後退った。
真っ白な敷布の上に横たえられた赤子の肌は、死人のような青白さを帯び、その小さな身体には黒羅霧の残滓を思わせる、漆黒の紋様が刻まれていたのだ。
しかもその紋様は、まるで生き物のように、小さな身体の上で不氣味に蠢いていた。
さらに恐るべきは、生まれたばかりとは思えぬ黄金色の双眸である。
赤子は、その冷たい眼差しで、居並ぶ者達を静かに見据えた。
その場にいる誰もが、否応なく悟った。
コレは紛れもなく、魔の性を宿す異形の男子であると……。
それでも、紗々だけは恐れる素振りもなく、恍惚とした笑みを浮かべ、産み落とされたばかりの我が子から、一瞬たりとも目を離そうとはしない。
「あぁ……殿下のお世継……。」
その目に宿るのは、母性による慈愛ではなく、未知の神仏を崇める狂氣じみた陶酔であった。
一方、産室の外に設けられた上段の間では……。
正室•澄政所(郁々)が、静かに御子誕生の刻を待っていた。
だが、報を届けに来た者の声色だけで、ただならぬ事態を悟った郁々は、暫し目を伏せた後、静かに立ち上がり、産室へと向かった。
産室の前まで歩みを進めた郁々は、そこで足を止める。
帳越しに漂う禍々しい魂氣が、産室の内に宿る異質な存在を感じさせた。
郁々の表情に僅かな陰りが走るが、その静謐な佇まいは、微塵も揺らぐ事はなかった。
されど、その眼差しだけは、赤子に向けられていた。
「若君をお包みなさい。」
その静かな一声で、震えていた産婆達は我に返った。
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同時刻、藤御城の広間に詰める重臣達は、誰一人として口を開く事もなく、ただ重苦しい静寂の中に身を置いていた。
五大老筆頭•豊川家吉。
五奉行筆頭•磐岐継成。
この二人を始めとする重臣達は、天下の行く末を左右する一報を、固唾を呑んで待ち続けていた。
照羽家の血を継ぐ者が、生まれるか否か。
その一点により、これからの日ノ本の均衡は大きく変わるからである……。
やがて、奥へ続く廊下より、郁々付きの奥女中が駆け込んできた。
「内府様、磐岐様。澄政所様より、お召しにございます。」
二人は無言で顔を見合わせ、促されるまま広間を後にすると、表と奥を隔てる中奥へと向かった。
本来であれば、御子の誕生を祝い、今後の照羽家の行く末について語る場となる。
二人はそう考えていた。
しかし、案内された先で二人を待っていたのは、その思惑とは全く異なる光景であった。
室内には郁々が静かに佇み、その表情には、いつもと変わらぬ静謐な気品を湛えていた。
彼女の傍らには、褥の上に置かれた赤子が、白布に包まれたまま横たえられていた。
家吉と継成の全身に、冷たい氣配が走り抜ける。
「……っ。」
二人の表情が強張った。
この魂氣を忘れるはずもない……。
五ヶ月前の洛耀第の大茶会。あの地獄と化した茶席で、身を裂かれるような恐怖と共に浴びた、黒羅霧の魂氣。
それと酷似した禍々しさが、目の前の小さな命から静かに滲み出ているのだ。
「……澄政所様、これは一体……。」
老練な家吉の声が、僅かに引き攣る。
郁々は何も答えず、静かに赤子を覆う布へ手を伸ばすと、躊躇なく開いた。
二人の視線が、一斉に褥へと吸い寄せられる。
死人を思わせる青白い肌、小さな身体を這う漆黒の紋様、そして禍々しい黄金色の双眸。
その佇まいは人の子とは思えず、生まれながらに天下を恐怖に陥れるような冷たさを宿していた。
「なっ……!」
継成は息を呑み、下唇を血が滲むほど噛んだ。
家吉もまた、言葉を失っていた。
そこにいるのは、照羽家が待ち望んだ唯一の嫡子であると同時に、五ヶ月前に封じられた災厄を思わせる存在でもあった。
沈黙が室内を支配する。
この存在を世に出してよいのか否か、その答えを決めかねていた。
しかし、この命を絶つならば、照羽の天下を繋ぐ最後の希望も、自らの手で断ち切る事となる。
失われるモノもまた、余りにも大き過ぎた。
「……コチラは、若君にございます。」
静寂を破る郁々の声には、迷いも恐れもなかった。
太閤を病と偽り続けてきた理由は、照羽の血を継ぐ後継者の誕生を待つためである。
もし、この赤子が失われれば、照羽の天下は完全に崩壊し、日ノ本は堰を切ったように、再び血で血を洗う戦国の地獄へと逆戻りするであろう。
家吉は異形の若君を、じっと見つめた。
その胸中に去来したのは歓喜ではなく、言い知れぬ不安であった。
〈しかし、この御子では……。〉
この思いは、決して口にしてはならない。
今はまだ照羽の世を守る事こそ、自らに課せられた務めである。
しかし、その胸中には、小さな信念が静かに芽吹いていた。
それがやがて、再び日ノ本を大きく揺らがせる事になる……。
「この御方こそ、太閤様の御血を継ぐ、照羽家唯一の嫡子。」
郁々の言葉に、家吉と継成は黙したまま赤子を見つめた。
「澄政所様……。」
家吉は静かに膝を折り、継成もまた、それに続いて深く平伏した。
「……若君の御誕生、誠に慶賀の至りにございます。」
二人の声が室内に響く。
それを見下ろしながら、郁々は告げた。
「この御方を守る事こそ、今の我等に課された務め。」
「……御意にございます。」
家吉は深く頭を下げた。
その瞬間、照羽の天下は、新たな形へと移り始めた。
最早、戻る道はない。
ならば、この幼き命を旗印として、天下を繋ぎ止めるしかない……。
家吉はゆっくりと顔を上げた。
「これより、太閤様薨去を天下へ布告致す。同時に、照羽家嫡子たる若君の御誕生を朝廷へ奏上致します。」
その言葉に、郁々は静かに目を閉じた。
全ては、この刻のためであった。
その日のうちに、五大老•五奉行は一斉に動き始めた。
朝廷への奏上、諸大名への触れ、諸国へ向けて早馬が駆ける。
伝えられるのは、太閤薨去の訃報だけではなく、照羽の血を継ぐ嫡子が誕生したという事実であった。
天下人は失われた。されど、その血脈までは途絶えていない……。
その既成事実こそ、天下を繋ぎ止める最後の楔であった。
照羽の天下は静かに次なる時代へと舵を切り、最早、引き返せる道など、どこにも存在しなかった。
○☆○☆○☆
景長四年(西暦1599年)、徳臣薨去が天下へ布告されてより一年足らず……。
天下は表面上、未だ静寂を保ってはいた。
照羽家嫡子の存在は、朝廷より正式に認められ、天下の諸大名もまた、幼き主君を戴く形で新たな政の枠組みを受け入れていた。
だが、その裏側では、確実に均衡が崩れ始めている。
五大老筆頭の家吉は、変わらず照羽の天下を支え、忠臣として政を執り仕切った。
しかし、太閤という絶対的存在を欠く今、家吉へと集まる権限と影響力は、日に日に膨れ上がっていく。
東国250万石を束ねる大大名にして、五大老筆頭として天下の政を預かる家吉は、今や誰もがその動向から目を離せぬ存在となっていた。
そんな彼の一挙手一投足は、諸大名の思惑を揺らし、天下の行く末を左右するほどの重みを帯びつつあった。
いつしか天下の重心は、静かに家吉へと傾き始めていたのである。
それが家吉の意志によるモノなのか、それとも時代そのものが彼を押し上げた結果なのか……。
その答えが明らかになるのは、まだ先の事である。
○☆○☆○☆
景長四年(西暦1599年)五月中旬、この時代の転換を象徴するかのように、天下を揺るがす異例の儀が執り行われた。
照羽家若君の元服である。
本来ならば、まだ幼子として扱われる年頃。
しかし、その姿は既に七〜八歳ほどの童に見え、同年代の者とは比べようもない体躯を備えていた。
徳臣の血を継ぐ証として、その異様な急成長さえも、人々は奇跡の瑞祥として受け入れざるを得なかった。
されど、その身に刻まれた漆黒の紋様と、黄金の双眸を知る者達は、決してただの祝福とは受け取らなかった。
元服の儀を終えたその日、天下へ向けて初めて、その諱が示された。
照羽徳幽。
それが照羽家嫡子として、次なる時代を担う者の名であった。
その名が天下に示された時、諸大名の胸中には、各々異なる思惑が芽生え始めた。
照羽の世を支えるのか。それとも、新たなる時代へ備えるのか。
答えを出す秋は、刻一刻と迫っていた。
そして、天下の喧騒とは隔絶された場所で……。
我が子を見つめる紗々だけは、ただ一人、満たされた笑みを浮かべていた。
周囲の人間が恐れ、距離を置くほどに、彼女の愛情は独占欲を深く孕み、そして歪んでいったのである。
○☆○☆○☆
景長四年(西暦1599年)六月末、天下の政を根本から揺るがす報が齎された。
それは五大老の一人、北陸100万石の大大名•金樫利親の訃報である。
この報には、一人の重鎮の死だけに留まらず、照羽政権を支えてきた強固な大黒柱が失われたという、時代の終焉を告げる意味が込められていた。
そんな激動の裏で、家吉は諸大名との縁組を進め、独自の人脈を築き、五奉行との距離を徐々に広げていったのだが……。
それらは全て、照羽家を守るための政であった。
しかし、その動きを見つめる群雄達は、違う見方をしていた。
天下人無き時代において、先んじて動いた者こそが、次なる時代を手にするのだと……。
徳臣が築いた天下は、未だ崩れてはいない。
だが、その足元では、既に新たなる戦の種が芽吹き始めていた。
○☆○☆○☆
景長四年(西暦1599年)七月下旬、藤御城茶室。
この日、家吉は、幾度となく願い続けた一人の人物と、ついに相対する事となった。
「まさか家元御自ら、御下向くださるとは……。」
家吉は深く頭を下げた。
その一礼には、突然の来訪への驚きと、長年望んでいた対面が叶った事への敬意が込められていた。
「このような形で、お目に掛かる事になろうとは、思いも致しませんでした。」
静かな茶室にて家吉と向かい合うのは、墨染の狩衣を纏い、枯木の如く静まり返る老陰陽師であった。
されど、その眼差しだけは、長き年月を経ても衰えず、東国陰陽道の重鎮たる威厳を備えていた。
「いや、内府様……。」
老陰陽師は、穏やかに笑った。
「当方は、家元ではございませぬ。今は隠居名•清鸚を名乗っております。」
「承知致しました。では清鸚殿、まずは一服。」
チリチリと釜の鳴る茶室で、家吉は静かに茶碗を置いた。
かつて、東国陰陽道の頂に立ち、氷御角宗家二十世家元として氷御角清方天奈彦の名を継いだ男。
今は家元の座を退き、世俗からも距離を置き、東国の霊山•日影山の静寂の中に身を置いていた。
家吉が江津へ移って以来、幾度も面会を願いながら、ついに叶わなかった相手。
その人物が今、自ら藤御城へ姿を現している。
それだけで、この対面がいかに異例のモノであるかを物語っていた。
「此度の御来訪、某にとっては何より得難き機会にございます。こうして、お言葉を賜れます事、心より有難く存じます。」
清鸚は、茶の湯気の向こうから家吉を見つめた。
老いて尚、濁りのない双眸。それは相手の胸中を見透かすような鋭さを宿していた。
「内府様、聞けば愚孫が、何かとお世話になっておるとか……。」
「いや、世話など。その才こそ、得難きモノにございます……。」
「左様にございますか。」
清鸚は静かに頷くと、僅かに間を置き口を開いた。
「して、内府様は、当代の天奈彦を差し置き、何故この老骨を……?」
この真っ直ぐな問いを前にした家吉は、すぐに答える事ができなかった。
その問いが、単なる理由を尋ねるモノではないと悟ったからである。
何を求めているのか。何を背負う覚悟があるのか。
そう問われているように感じたのである。
「……太閤殿下無き天下の行く末を、某は見定めねばなりませぬ。」
清鸚は、静かに茶碗へ視線を落とすと、茶を啜った。
「徳臣公が残した天下、幼き若君を戴く照羽の御世、形の上では、何も変わってはおりませぬな。」
清鸚が茶碗を置くと、陶器の音が静まり返った茶室に響いた。
「しかし、内府様。天下とは、形だけで保たれるモノではございませぬ。それを支える者の覚悟が失われた時、初めて崩れ始めるモノにございます。」
釜の湯が静かな音を立て始めるが、家吉は黙って、清鸚の言葉に耳を傾け続ける。
「恐閤という畏怖なる存在が消えた今、諸大名が見ているモノは果たして、若君でございますかな。」
その言葉に、家吉の表情が僅かに動く。
長らく胸底へ封じてきた想いが、静かに水面へ浮かび上がるような感覚であった。
「某は、ただ太閤殿下より託された御世を守るのみ。それこそが務め。」
清鸚は、静かに微笑み、その言葉を否定しなかった。
「……その御言葉こそ、時代の重みを背負う者の証にございます。されど、守る者には守るべきモノだけではなく、その先にあるモノまで背負う覚悟が求められます。」
茶室に沈黙が落ちる。
「我等、氷御角は長きに渡り、人の世の移ろいを見て参りました。天下を欲する者は、いつの世にもおります。されど……。」
清鸚の眼差しが、静かに家吉を射抜く。
「天下を背負わされる者は、決して多くはございませぬぞ。」
その言葉は、静かな茶室の中で、重く家吉の胸へと沈んでいった。
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宵闇が深まり、藤御城の城下から人の気配が消え始めた頃……。
家吉は、清鸚を城内に留まるよう何度も勧めていた。
「夜も更けております。今宵は、どうか城にお留まりくだされ。」
されど、清鸚は静かに首を横へ振った。
「お気遣い、痛み入りまする。されど、老いた身とはいえ、この程度の夜道に難儀するほどではございませぬ。」
家吉は尚も言葉を重ねようとしたが、その穏やかな笑みに、それ以上を求める事ができなかった。
「では、せめて護衛を……。」
「不要にございます。我の歩む道に、我を害するモノなどおりませぬ。」
清鸚は一人、城下の夜道を歩いていった。
城門を離れるにつれ、昼間は人で賑わっていた街道も、次第に静寂へと包まれていく。
聞こえてくるのは、夜風に揺れる木々の騒めきと、遠くで鳴く虫の声のみ。
清鸚の足取りに迷いはなかった。
それは、長き年月を世俗から離れ、人ならざるモノと向き合ってきた者だけが持つ歩みであった。
暫くして……。
道の先には、淡い青白い火が浮かびだす。
一つ、また一つと、闇の奥からコチラを覗き込む氣配が増えていく。
「……。」
清鸚が足を止めると、姿を現したのは、人の世の外に棲まう魑魅魍魎の群れであった。
狐火を纏うモノ、異形の影を揺らすモノが、夜の帳の向こう側から這い出てくる。
しかし、彼等は清鸚に襲い掛かるワケでも、道を塞ぐワケでもなかった。
ただ静かに、道の両脇へと退いていく。
まるで、目の前を歩く老陰陽師が、何者であるかを知っているかのように……。
〈氷御角の御隠居か……。〉
〈祓魔されるぞ。〉
〈くわばら、くわばら。〉
彼等の囁きを背に、清鸚がさらに歩を進めると、やがて街道脇に、かつての宿坊が姿を現す。
今では使われる事もなく、黒ずんだ大屋根だけが夜の闇に重苦しく沈んでいる。
その瓦屋根の上には、先ほどとは明らかに異なる妖幻達が群れていた。
その数は百を超え、夜の闇に浮かぶ無数の眼差しに、獰猛な笑みが宿っていた。
だが、その騒めきが不意に止む。
百の妖幻を従えし主が、ゆるりと口を開いたのだ。
「……おい、久しいのう"清海"。」
その声には僅かな親しみが滲み、月明かりの下、その姿は人ならざる者の氣配を色濃く浮かび上がらせていた。
「朧沙門……。三十年ぶりか?今は隠居して、清鸚を名乗っておる。……それより、ココで何をしておるのだ。」
「フッ。それはコッチの台詞じゃ。どうせ、鈴羅守でも、焚き付けに来たのじゃろう。」
朧沙門の笑みに呼応するように、その背後の妖幻達も一斉に声を上げた。
「鈴羅守?豊川内府様の事か。相変わらず、物事を面白う見る癖は変わらぬな……。されど、あの方はもう、その官にはおられぬぞ。」
清鸚の言葉に、朧沙門は僅か目を細め、鼻で笑った。
「ほ〜う、今は内府とやらになったか。相変わらず人間どもは、目まぐるしく肩書きを変えたがるわ。……まぁよい。どちらにせよ、人の世の中心に座す者と会った帰りに、今度はワシ等の側まで来るとはのう。」
朧沙門は牙を覗かせ、闇の中へ笑い声を響かせた。
「相変わらず、其方は耳が早いのう。」
清鸚は思わず、苦笑いを浮かべる。
「この世の流れが変われば、ワシ等にも届くでのう。……次の天下を動かす者が、決まろうとしておるのじゃろ?」
清鸚は答えず、ただ、夜空を見上げた。
人の世では、家吉が新たな時代の中心へ押し出され始めている。
そして、妖幻の世でも、別の流れが静かに動き始めていた…。




