FILE No.076 終の一席
陽は確かに、洛耀第の庭園へと降り注いでいた。
澄み切る空に雲は無く、真昼そのものの色を浮かべ、石灯籠の白は白のまま、芝の緑も、緋毛氈の赤も、確かに色を保っているにも拘らず、何故か景色の全てが暗い。
影が濃いワケでも、闇に沈んでいるワケでもなく、明るさが失われていなくとも、明るさだけが意味を失い、光が遠く感じられていた。
そう……今、庭園に差し込む陽の光は、昼間でありながら昼間の光として成立していない。
照羽徳臣の眉間には深くシワが刻まれ、その視線の先には、茶席の中央に座す影が見えていた。
だが、見えているその影姿、その氣配さえも、徳臣の記憶のどこにも繋がらない。
「……お主、何者じゃ?」
思わず口から出たこの言葉に、影の内からは呆れたような声が返ってくる。
「ワシの顔を忘れたか?」
影の口元が僅かに歪む。
「天下そのものへとなり果てた結果、昔の記憶をも焼け落ちたか?徳臣、いや……黒羅霧。」
その声と共に、影の輪郭が陽炎のように歪み、その姿が、ゆっくりと定まっていくと、そこに座していたのは……。
「お…お主、何故、その名を……!?」
大妖幻•朧沙門であった。
「よもや、"凶星"の一柱では、あるまいな!?」
徳臣は朧沙門へ鋭い視線を向け、その身から膨大な魂氣を滲ませると、その咒圧は庭園全体へと広がっていく。
だが、その咒圧は茶席の中央だけを避けるように流れ、朧沙門は何事もなく、茶筅を動かし続けていた。
「フッ。あんな者と、ワシを一緒にするでないわ!それよりもじゃ……。」
朧沙門は茶碗を静かに持ち上げると、徳臣へ向け差し出した。
勧めるでも、命じるでもなく、ただ、当然のように……。
この朧沙門の姿を見た徳臣の眉間には、一層深いシワが刻まれた。
大茶会を催した自分を差し置き、まるで己がこの席の主であるかのような振る舞いで、茶を点てている。
その事実だけで、徳臣の口元は不快げに醜く歪み続けた。
「……何の真似じゃ。」
徳徳臣にとって、その茶を受けるという行為は論外であった。
何故なら朧沙門は、徳臣が何者であるかを知りながら、それでも一人の客として扱っている。
そこには敬意も、畏怖も、媚びもない。
徳臣を天下人として見る者でも、怪物として恐れる者でもない。
ただ一服の茶を差し出す者と、それを前にした客がいるだけ……。
己を畏れず、己を敬う事もない、その在り方が何より徳臣の逆鱗に触れていた。
その怒りに呼応するように、徳臣の身体から膨大な魂氣が噴き上がり、庭園全体を覆い尽くしていく。
「真似とは、妙な事を言うのう。茶を点てた者が、茶を差し出す。何も不思議な事ではあるまい。」
朧沙門は眉一つ動かさず、ただ不思議そうに首を傾げた。
「戯言を〜ッ!!」
徳臣の放つ魂氣が、さらに猛然と膨れ上がり、その咒圧に押され、庭園を形作る全てが軋み始める。
石灯籠は小さく震え、砂紋の模様は崩れ、緋毛氈は大きく波打つ。
それは等まるで、庭そのものが異質な力を拒むように揺らいでいた。
だが……。
朧沙門に差し出された茶碗は、何故か微動だにしていない。
立ち昇る湯気の流れすら乱れず、茶面に浮かぶ泡の一つさえ揺れる事はなかった。
「!?」
徳臣は目を細め、朧沙門を睨み付ける。
放たれた魂氣は庭園全体を覆い、居並ぶ者達の身体を震わせるほどの咒圧となって押し寄せていた。
それほどの咒通力でありながら、朧沙門には何の影響も及ぼしていなかった。
それはまるで、そこへ至る概念だけが、最初から存在していないかのようであった。
「……何をした?」
「ワシは何もしておらぬわ。」
「嘘をつくでない!余を愚弄するか!!」
「嘘じゃと?ならば聞くが……。」
朧沙門の視線が、ゆっくりと庭園全体を巡る。
「この世で、一番上に座すに相応しい妖幻は誰じゃ…?お主に、思い出させてやろうか。」
だが、朧沙門の言葉が落ちるよりも早く、茶席の静寂が鋭い怒氣によって引き裂かれた。
「この不届き者めぇ!!」
それは磐岐継成であった。
主君である徳臣の『黒羅霧』という妖号を満座の前で口にされ、側近としての矜持が、彼を突き動かしたのだ。
継成の放つ狂暴な咒通力が、地を這う刃となって、一直線に朧沙門へと襲い掛かる。
だが……。
「な……にっ!?」
朧沙門の鼻先数寸で、届くはずの刃は、その身を掠める事すら叶わず、虚空へと流れていった。
距離が狂っているのか。否。間合いそのものが別次元に転移したかのような、理解を超えた異常となって、継成の前に立ちはだかっていた。
「何故だ!?何故、斬れぬ!!」
「すっこんでおれ、小童が!」
朧沙門は継成に視線を向ける事もせず、ただ小さく息を吐いた。
すると、それだけの事で継成の身体は、見えざる力に弾かれるように、緋毛氈の上を無様に転がっていった。
「ウ…佑助!!」
咄嗟に声を上げた紗々は、牙を剥き出し、反射的に徳臣の前へ己の身を投げ出していた。
だが、朧沙門から放たれる圧倒的な魂氣を受け、その身体は意志よりも先に震え始めていた。
それでも、戦わねばならない……。
そう抗う心とは裏腹に、妖幻としての本能だけは理解していた。
アレには決して敵わない……。
理屈ではなく、抗う事すら許されぬ存在であると、本能が訴えかけていた。
この異常極まる光景を見据える焔橋琥慈郎は、その錫色の眼に静かな殺気を湛え細めていた。
突如現れた朧沙門という怪異は、天下の絶対者たる徳臣でさえ、意識を逸らすほどの異質な存在である。
この怪異によって生まれた僅かな隙を、琥慈郎が見逃すはずもなかった。
破妖導師として、幾多の妖幻を狩ってきた彼は、心を乱す事なく、気配を無へと沈めていく。
狙うは徳臣の首級、ただ一つ。
前触れもなく、音もなく、徳臣の死角へ回り込む琥慈郎は、二津銘煉獄を逆手に握り、刃を首筋へと迫らせる。
だが、琥慈郎の放った一撃は、肉体を断つ手応えを結ぶ事なく、ただ虚しく通り抜けた。
「チッ……。〈また煙か!?〉」
徳臣の肉体は氣化するように、濃密な黒煙へと変じ霧散していく。
これが大妖幻•黒羅霧の本質であり、人の身から放つ物理的な刃では、その煙の肉体を捉える事は叶わない……。
そう悟った琥慈郎は、即座に間合いを切ると、低く身構え次の一手に備える。
だが、黒煙と化した徳臣が、一つ場所に留まる事などなく、朧沙門に対し、魂氣を放ち続けた。
何故なら、人間に命を狙われる事など、彼にとっては羽虫が纏わり付く程度の雑事であったからだ。
油が沸き立つような轟音を立て、爆発的に膨れ上がる禍々しき黒煙。
それが大蛇の如きうねりを上げ、茶席の中央に座す朧沙門の周囲へと殺到していく。
漆黒の煙は、幾重にも渦を巻き、庭園から昼の色を奪い去る。
しかもその渦中、幾十もの不氣味な煙の腕や目が現れ、朧沙門の頭上から圧倒的咒圧で、圧し潰さんばかりに襲い掛かった。
朧沙門の顔前に、不氣味な軋み音が鳴り響き、巨大な貌の輪郭が編み上げられていく。
「これでもまだ、余を愚弄できるか!朧沙門!!」
巨大な徳臣の貌から、地の底を震わせるような声が轟く。
それはまるで、天下そのものを喰らった妖幻が、畏怖という理を纏い顕現したかのようであった。
この威容を前に、紗々は息を呑み、継成は歯を食いしばる。
並の妖幻であるならば膝を折る。
それが今の黒羅霧であった。
だが……。
「終わったか?」
蟠る巨貌を見る事すらしない、朧沙門はポツリと言い放った。
それは余りに素っ氣ない一言であった。
「……何?」
徳臣の巨貌が、思わず不快げに歪む。
「大きく見せれば、器まで大きくなったつもりか?たわけが!!煙を幾ら集めようと、煙は煙じゃわ!!」
朧沙門の指先は、茶碗を差し出した時のまま、微動だにしていない。
まるで、目の前の異変など最初から存在していないかのように……。
朧沙門は、戸惑う徳臣に涼やかな目線を送る一方で、二人の破妖導師をチラリと見やった。
〈チッ、化け物が……。〉
琥慈郎の双眸は、さらに細められる。
〈これで理が通じるか……。〉
清是は懐から霊符を滑らせ、凄まじい密度で咒通力を練り上げた。
無駄のない咒印の結び。肌を刺す咒圧。
一つ一つの所作だけで、並の陰陽師ではない事が知れる。
〈……相当の使い手やな。どこの回し者や?〉
琥慈郎は気配を消したまま、横目で清是を捉えた。
同時に清是もまた、一瞬で間合いを切る忍びの存在を見逃していない。
〈あの身のこなし、あの赤い髪、並の隠密ではないな……。〉
互いに名も知らず、立場も知らず、言葉を交わす暇など、この極限の茶会には存在しない。
それでも、二人は一瞬で理解していた。
目の前にいるのは、自らと同じ領域に立つ、一流の破妖導師であるという事を……。
清是は霊符を指先で弾き、いつでも咒方術を発動できるよう、静かに咒通力を練り上げる。
琥慈郎もまた、二津銘煉獄の刃を低く寝かせ、影へ溶け込むように重心を沈めていった。
言葉はない。それでも互いの動きを妨げぬよう、二人の間合いだけが僅かに組み替えられていく。
だがその時、朧沙門の視線が、ゆっくりと流れた。
「人間どもよ。此奴が日ノ本の太閤を騙る妖幻じゃが……まだ、欺かれる気か?」
この一言は徳臣がこれまで、己の威をもって築き上げたモノを余りに容易く踏みにじった。
「ぐぬぬ…朧沙門……!どこまで、余を虚仮にするか〜ァ!!」
徳臣の巨貌が怒りに歪み、その怒号と共に庭園を覆う黒煙が一斉に蠢く。
コレは、ただの煙ではない。
漆黒の奔流が庭園を舐めるたび、青々と茂っていた芝は黒く朽ち、石灯籠には腐蝕の染みが這っていく。
茶席に座す誰もが、生気を削り取られたかのような息苦しさに顔を歪め、身じろいでいる。
それは生あるモノを侵して喰らう、黒羅霧•徳臣が為せる異能であった。
黒煙は禍々しき千の手と化し、朧沙門を呑み込まんと殺到する。
だが、その暴威が届くよりも早く、二つの影が同時に地を蹴っていた。
「謹み敬って勧請し奉る。東方青龍、木徳の神風。速やかにその気息を縛せ。急急如律令!」
清是の指先から放たれた幾千もの霊符が宙で弾け、烈風が庭園を駆け抜けていく。
「……何ッ!?」
黒煙は揺らぎ、霧散していたその形が一点へ収束され、輪郭を強引に結び始める。
清是は間髪入れずに咒印を結び、練り上げた咒通力を風の中へと流し込み、黒煙を構成する氣の流れを絡め取った。
その刹那、琥慈郎の錫色の双眸は、黒煙の奥に淀む一点を見抜いた。
「そこや!!」
琥慈郎は徳臣の死角へと消え、二津銘煉獄の切っ先が、迷う事なく"霊枢"を貫いた。
*霊枢-----魂氣の心臓に相当する要所
先ほどのような、虚空を裂く感触ではない……。
確かな手応えが刃を伝い、琥慈郎の掌へと返ってきた。
……はずであった。
「……ぐぬふふふっ。違うのう。」
黒煙の奥から響く、徳臣の嘲笑。
それは煙の発する音ではない。
徳臣から放たれる圧倒的な魂氣が、庭園自体を軋ませ、空間の理を裏返す異様な歪みを生じさせていた。
「チッ!〈偽の霊枢か!?〉」
琥慈郎の眉間に、深くシワが刻まれる。
コレは徳臣が破妖導師の目を欺くため、魂氣そのものに偽りを宿した幻影であり、真の霊枢”ではなかった。
「グフフフッ。余の霊枢でも、穿ったつもりか?戒喰〜ッ!!」
徳臣の声は黒煙に乗って庭園を満たし、四方八方から響いてくるかのようであった。
怒りが咒通力の臨界点を越え、黒煙が内側から膨れ上がる。
「下がれッ!!」
だが、清是の叫びよりも早く、漆黒の奔流が風の壁を内側から喰い破り、堰を切った濁流のように庭園の全方向へと奔った。
琥慈郎は二津銘煉獄を盾に、漆黒の衝撃波に呑み込まれ……。
清是もまた、芝に叩きつけられ、口から鮮血を吐いた。
この余波だけで茶席は大きく揺らぎ、庭園は参列者達の悲鳴と響めきに包まれていた。
家吉は息を呑み、郁々もまた肩を震わせながら、その暴威を見つめるしかなかった。
その一方で紗々は、目を見開き、腹をさすり笑っていた。
だが、コレは愉悦で笑っているのではない。
余りにも埒外な存在を前に、理解が追いつかず、笑みの形だけが顔に貼り付いていたのだ。
この混沌の中、庭園の奥で一つの影が蠢く。
その影は継成であった。
折れた刀を手に、それでも一歩も退かず、主君の元へと歩を進めていた。
〈このままでは、殿下の御身が……。〉
その身体は既に限界を越えている。
それでも尚、継成は歩みを止めない……。
その光景を前にしても、朧沙門の眼差しは揺るがなかった。
「おい!煤猩々!お主には、過ぎたる家臣よのう。」
その言葉が響き終えた後、朧沙門の前には、まるで初めからそこに在ったかのように、小さな茶壺が置かれていた。
「そろそろ、終わりにするかのう。」
朧沙門が蓋を静かに開けると、中には茶葉も何も入っておらず、ただ空虚な静けさだけが、壺の底に沈んでいた。
「コレは、茶を収める器ではない。」
朧沙門はココで初めて、徳臣に視線を向けた。
「………!」
その視線に、徳臣の黒煙が大きく揺らぐ。
これまで何者を前にしても揺るがなかった恐閤としての徳臣が、初めて見せる微かな動揺であった。
「茶壺でなければ何じゃ!!?」
怒声と共に、再び漆黒の奔流が庭園を覆い尽くさんと膨れ上がる。
だが、朧沙門は何も答えず、ただ静かに小さな茶壺へ視線を落とすのみであった。
茶壺は、何の変哲もない小さな器にしか見えない。
特別な氣配も、禍々しい力も宿っていない。
ゆえ徳臣は、朧沙門の意図を測りかねていた。
「……何を企んでおる。」
徳臣は、朧沙門を睨み据えたまま、視線だけが茶壺へと縫い止められていた。
その様子に、朧沙門の口元が緩まった。
「分からぬか。散らかしたゴミを片付けるのじゃ。これほど誂え向きの器は、他になかろう。」
「ふざけるなァ〜ッ!!」
徳臣の黒煙が、爆発的に膨れ上がる。
それは最早、煙ではなく、庭園を呑み込む濁流の如き異形の奔流であり、その禍々しさは先ほどまでの比ではなかった。
咆哮と共に、庭園全体が圧し潰されるかのように軋み、黒煙が荒れ狂う。
だが、この猛威の中にあって、満身創痍の清是だけは、朧沙門の真意を悟っていた。
〈……そういうことか。〉
朧沙門が用意したのは、単なる茶壺。
ただ、その器の中は空。
何も満たさぬがゆえ、あらゆるモノを受け入れる余地を持つ。
魔転生によって、生身の身体と黒羅霧の黒煙、その境を無くした徳臣を封じるには、これ以上の器は存在しないのだ。
清是は、静かに琥慈郎へと目を向けた。
「赤髪の。まだ動けるか……。」
琥慈郎は呻き声一つ漏らさず、身体を起こした。
全身から血を滴らせながらも、その双眸だけは尚も鋭い光を宿し続けていた。
「斬れば終いと思うて、伝家の宝刀まで持ち出したんやがな……。」
琥慈郎は、徐に二津銘煉獄を握り直す。
膝をつく清是も、静かに立ち上がって見せた。
「コレは最早、我等が単独で相対するには、過ぎたる妖幻よ……。」
清是の声音には、僅かな苦渋が滲んでいる。
「フッ……ほな、どないするんや?」
清是は黒煙から目を逸らさぬまま、言葉を落とした。
「悔しいが……今の我らに残された最上の策は一つだけ…。あの茶壺に恐閤を封じる事のみだ。」
「あの壺にか……。ほな、二人分で咒通力重ねて、術式でも組むか?」
「いや……。」
清是は即座に否定した。
「今、其方と急拵えで術式を合わせても、成就は百分百には至らぬ。十全と言い切れぬ以上、賭けに出るのは愚策。なれば……。」
「……どないする?」
清是は視線を黒煙へ向けたまま、言葉を続けた。
「今、この機を逃す訳にはいかぬ。ゆえに私が、一人で恐閤を封ずる咒方術を組む。」
「はぁ?一人で、やて?」
「だが、それを成すには刻が要る。」
「……刻?どれほどや?」
「……三十ほどだ。」
「さ…三十?」
琥慈郎の眉が、僅かに跳ね上がった。
「長過ぎひんか?」
「ならば二十五……いや、二十でよい。その間だけ、刻を稼いではくれぬか?」
清是は琥慈郎を、何も言わずに見つめた。
「二十か……。」
琥慈郎は、僅かに下唇を噛み締めた。
「ええやろ。その代わり……。」
この時、二津銘煉獄の刃が、ゆっくりと黒煙へ向けられた。
「二十越えたら、お前ごとたたっ斬る!それでええな、陰陽師!!」
影が黒煙の奔流の中へ跳び、琥慈郎の姿が消える。
〜二十〜
二津銘煉獄の紅蓮の斬撃が黒煙を裂き、幾筋もの軌跡を刻む。
だが、荒れ狂う徳臣の黒煙は、一筋裂かれれば十の爪となって狂い咲いた。
全ての反撃が、刻を稼がんとする琥慈郎ただ一人へと集中していく。
〈チッ!この質量、まともに受けるんは骨が折れる……!!〉
〜十五〜
黒煙の爪は、次第に琥慈郎の黒装束を引き裂き、肉を削ぐ。
だが、それでも琥慈郎は一歩も退かない。
退けば後ろで、術式を構築する清是が危ういからだ。
琥慈郎は迫り来る黒煙に呑まれ、全身から血を散らしながらも獰猛な獣の如く、ただ一太刀を返し続けた。
〜十〜
呼吸が血の味に染まり、肉体が悲鳴を上げる凄絶な嵐の中。
琥慈郎は命の灯火を燃やし尽くすように、刻一刻と、黒煙を貪り喰うように刻を繋いでいく。
〜五〜
琥慈郎の刃が黒煙の真芯を捉え、徳臣の本体へと肉薄する……その時だった。
「殿下ッ!!」
引き裂かれた黒煙の隙間から、折れた刀を杖としていた継成が、強引に割り込んできたのだ。
その身体は、とうに限界を越えていた。
全身の傷口から血を流しながらも、その双眸だけは昏い狂氣を宿し、死の淵からコチラを睨み据えていた。
キィイーンッ!!
徳臣へ及ばんとした琥慈郎の斬撃の余波を、継成は身を挺して受け止めていた。
凄まじい衝撃。ただでさえ折れている継成の刀は、ココで完全に砕け散る。
鉄の破片が頬を掠めようとも、継成は一歩も退かない……。
「この身体の命が尽きようとも、殿下のお側は通さぬ!!」
最早、柄だけとなった刀を握りしめ、満身創痍の身でありながら、尚も琥慈郎の前に絶対の盾として立ち塞がる。
この継成の命懸けの抵抗が、琥慈郎の猛攻を一瞬だけ押し留めた。
だがこの時、徳臣の魂氣には一瞬の綻びが生じていた。
その僅かな乱れを察した紗々は、指を絡めるように両手を重ね、徳臣を包む黒煙の揺らぎへと己の意識を滑り込ませていった。
庭園を満たしていた轟音が、一瞬だけ……シン、と遠のいたような錯覚に襲われる。
彼女の眼に宿る妖しい光が、徳臣の黒煙と深く呼応し、一度は衰えかけていた奔流が、内側からドクンと不氣味な脈動を始めた。
「殿下……!!」
紗々の声に応じるように、黒煙は限界を越え、再び蠢き始める。
抑え込まれていた奔流が、まるで新たな命を得たかのように膨れ上がっていく。
〜零〜
刻限を迎え、目の前で荒れ狂う黒煙の奔流を前に、琥慈郎は口元から滴る血を吐き捨て、尚も愉悦に歪んだ笑みを浮かべた。
だが、この凄絶な攻防の陰で、清是は一歩も動かなかった。
口元を伝う血を拭う事すらせず、ただ指先へ意識を研ぎ澄ませ、空間の至る所へ幾重もの術式を構築していた。
「天地の理を以て、境を定む。逃れし者、その在るべき器へと還れ──
最後の一音が、庭園の空氣を震わせる。
──謹み敬い封界を定め奉る咒縛……急急如律令!!」
茶壺を中心とした空間そのものが、ギチギチと軋み始める。
逃げ場という概念そのものが潰され、徳臣の黒煙は最早、留まる場所をも失い、逃れ得ぬ力で壺の口へと引き寄せられていった。
「な、何じゃ……コレは!!?」
徳臣は抗うように黒煙をうねらせ、虚空へと爪を伸ばす。
だが、その指先は境界に触れる事すら叶わず、虚しく弾かれていった。
「余が…余の身体が……吸い込まれるだと!?」
徳臣は抵抗し続け、巨大な黒煙の爪で茶壺の吸引に抗おうとする。
だが、黒羅霧のいかなる理をもってしても、歪んだ空間の境界を越える事は叶わない。
正に世界の理そのものを歪めるかの如く、理不尽な封印の咒方術が、荒れ狂う黒煙の奔流を逆巻かせ、抗う余地すら与えぬまま、茶壺の奥へと呑み込んでいった。
「おのれェ〜ッ!人間どもォォォ〜ッ!!」
天下を騙った恐閤の絶叫が、壺の底へと引き絞られていく。
その絶叫の余波は庭園そのものを激しく軋ませ、継成と紗々に纏わり憑く黒き氣配すらも、根こそぎ引き剥がし、茶壺の奥へと沈めていった。
朧沙門は、漆黒の煙が最後の一片に至るまで、壺の奥へと沈みゆくのを見届けると、平然と蓋を閉じる。
「おい。仕上げじゃ。蓋を霊符で封じるんじゃ。」
清是は静かに頷くと、力の抜けかけた指先で、それでも確実に霊符を壺へと貼り重ねていった。
一枚、また一枚と……。
壺は淡い光を放ちながら静かに鎮まり、中から漏れ出ていた禍々しい氣配も、やがて完全に絶えていった。
ピタリと風が止み、庭園を覆っていた黒煙が消え失せる。
耳を裂いた咆哮も、空間を軋ませていた異様な咒圧も、全てが嘘のように途絶えていた。
同時に、継成と紗々は力なくその場に崩れ落ちる。
二人に纏わり憑いていた黒き氣配も、既に塵一つ残っていない。
その変化は徳臣に操られていた者達も、例外ではなかった。
皆、憑き物が落ち、力なくその場へ崩れ落ちていた。
帝族、公家衆、そして諸大名も、漸く息を継ぐ事を思い出したかのように呆然と座していた。
郁々と家吉もまた、目の前で起きた結末を受け止めきれず、ただ言葉を失っていた。
この嵐が過ぎ去ったかのような、静寂に包まれた庭園には、砕け散った庭石と、血に染まった白砂、そして生き残った者達の荒い息遣いだけが残されていた。
朧沙門は壺を抱えると、表情を微塵も変えずに呟いた。
「これにて一席、終いじゃ。」
景長三年(西暦1598年)三月某日。この大茶会の真実を知る者は、この場に居合わせた者達だけに限られた。
しかし、世には太閤は病に伏したとだけ伝えられ、洛耀第で交わされた最後の一席も、歴史の闇へと埋もれていく事となる…。




