第2話 閉店済み店舗の予約フォーム
スナック真珠は閉店している。
これは私が決めたことではない。店の入口には、手書きの貼り紙があった。長い間ありがとうございました、とある。文字は丸く、少し右肩上がりで、最後の「ました」のところだけ滲んでいた。泣いたのか、雨に濡れたのか、ペンが悪かったのかは分からない。分からないことは、できるだけ分からないままにしておいた方がよい。特に夜の店ではそうである。
ところが、その閉店済みの店の予約フォームは、本日も営業していた。
いや、営業しているという言い方はおかしい。予約フォームは営業しない。入力欄を表示し、送信ボタンを置き、確認メールを飛ばすだけである。だが、スナック真珠のフォームには妙な気配があった。画面の向こうで、誰かが席を拭き、グラスを並べ、古い歌謡曲を小さく流しているような気配である。
私はそういう気配を信用しない。
信用しないが、ログは取る。
前夜、私は管理画面にログインしてしまった。
してしまった、という言い方が正しい。ID欄には最初から「旧女子大 学生課」と入っていた。パスワードも伏せ字で埋まっていた。私は考えた。考えたうえでEnterを押した。押してから、押すべきではなかったと思った。
画面にはこう表示された。
ようこそ、瀬戸口連平さん。初回登録が完了しました。
私の同意なく登録するシステムを、私は信用しない。しかも解除ボタンがない。ヘルプもない。利用規約は開かなかった。開いたところで読まないが、開かないのは問題である。読まない自由と読めない状態は、まったく違う。
翌朝、私は管理画面を再確認した。
予約件数は、昨夜より増えていた。
本日二十七件。
席数は、六席。
計算が合わない。
予約者名は、相変わらずすべて同じだった。
旧女子大 学生課/旧女子大 学生課/旧女子大 学生課/旧女子大 学生課/旧女子大 学生課/旧女子大 学生課/旧女子大 学生課
七件目で読むのをやめた。
人間は、同じ文字列を何度も読むようにはできていない。同じ文字列は祈りになる。あるいは呪いになる。どちらにしても、業務時間中に浴びるものではない。
私は管理画面のログを落とした。アクセス元IP、時刻、User-Agent、リファラ。そこには一応、情報らしきものがあった。
ただし、アクセス元IPは全部同じだった。
0.0.0.0
ふざけている。
私は椅子にもたれ、天井を見た。天井の隅に蜘蛛の巣がある。昨日見た蜘蛛の巣だ。蜘蛛本人はいない。退去済みだと思っていたが、よく見ると巣の端に小さな脚のようなものが見えた。まだいた。退去していなかった。私より居住権が強そうである。
黒電話は棚の上にあった。昨日は鳴った。今は黙っている。線はつながっていない。線がつながっていない電話が黙っているのは当然だが、当然であることが安心材料にならないのは困る。
私は管理画面に戻り、予約詳細を開いた。
予約時間はすべて同じだった。
午前三時。
嫌な時間である。
午前三時というのは、人間が判断を誤るためにある。寝るには遅すぎ、起きるには早すぎ、反省するには暗すぎる。サーバ障害が起きるにも、だいたいそのあたりが多い。機械も人間も、夜中に余計なことをする。
ノックがあった。
私は返事をしなかった。
もう一度、ノックがあった。
返事をしないでいると、扉が開いた。榊原小夜子だった。
「おはようございます」
「開ける前に返事を待つ文化は、このビルにはないんですか」
「あります」
「ではなぜ」
「待ちました」
「短い」
「瀬戸口さんのお返事も短いです」
「返事してません」
「それも一種の返事です」
榊原さんは、昨日と同じ黒いワンピースに薄い羽織をかけていた。手には紙袋を持っている。紙袋から、少し甘い匂いがした。
私は匂いに負けそうになった。
榊原さんは折りたたみ机の上に紙袋を置いた。
「差し入れです」
「何ですか」
「鬼まんじゅうです」
「怪異案件の直後に鬼を差し入れないでください」
「普通の鬼まんじゅうです」
「普通の鬼ならいいわけでもないですが」
「召し上がりますか」
「いただきます」
私は負けた。
鬼まんじゅうは温かかった。芋が入っていた。甘い。うまい。人間の警戒心は、温かい芋の前でかなり弱くなる。
榊原さんは管理画面をのぞきこんだ。
「増えましたね」
「増えましたね、ではなく」
「現地に行かれますか」
「行きません」
「なぜ」
「現地に行かなくてもできることがあります」
「たとえば」
「ログを見る。DNSを見る。キャッシュを見る。管理者権限を見る。サーバの生死を見る。所有者情報を見る。問い合わせフォームを閉じる。問い合わせフォームから問い合わせが来る。腹が立つ。以上です」
「もう半分、行っていますね」
「心だけです」
「心が行ったなら、体も行った方が早いです」
「早いのと良いのは違う、と昨日あなたが言いました」
榊原さんは少し嬉しそうに頷いた。
自分の言葉を返されて喜ぶ人間は危険である。こちらの抵抗まで会話の一部として回収してくる。
「真珠さんの元ママが、午後にいらっしゃいます」
「私の予定は」
「空いています」
「確認したんですか」
「予約表に」
「どの予約表ですか」
「このビルの」
「見せてください」
「奥にあります」
「じゃあいいです」
私は鬼まんじゅうを食べ終えた。
少し落ち着いた。
落ち着くと、余計に嫌なことが見える。予約フォームの更新時刻が、また増えていた。午前十時三十二分。いまこの瞬間にも、閉店済みの店がネット上で暖簾を出し続けている。
私は深く息を吐いた。
「現地はどこですか」
「同じビルの一階です」
「一階?」
「はい」
「スナック真珠って、このビルなんですか」
「そうです」
「先に言ってください」
「言いましたよ」
「いつ」
「昨日、紙に」
「読んでません」
「それは私の責任ではありません」
私は紙を見直した。
たしかに住所があった。
同じビルの一階。
私はしばらく黙った。
現地確認のために外へ出る必要がなくなった。これは朗報である。だが、同じビルの一階で怪異が起きているということは、逃げ場が近いようで近くない。むしろ同居である。
同居は困る。
距離があるから人は他人でいられる。
午後一時すぎ、スナック真珠の元ママが来た。
名前は真島珠子。六十代くらい。髪は短く、薄い紫に染めている。化粧は薄いが、口紅だけはきれいに引かれていた。閉店した店の人というより、いつでも店を開けられる人に見えた。
彼女は事務所に入るなり、廊下の奥を見た。
「あら、少し伸びた?」
「伸びるんですか」
「雨の前はね」
「廊下が?」
「そう」
「気圧で?」
「さあ」
真島さんは、当たり前のように椅子に座った。
このビルの住人は、説明を嫌う。嫌うというより、説明しなくても済む側にいる。私はいつも説明を求める側であり、求めた瞬間に少し負けている。
榊原さんがお茶を出した。
私はお茶を出す側のはずだったが、湯呑みの場所を知らない。自分の事務所で湯呑みの場所を知らないのは、なかなか厳しい。
真島さんは湯呑みを両手で包んだ。
「お店は、先月で閉めたの」
「貼り紙は確認しました」
「見た?」
「はい」
「字、曲がってたでしょう」
「少し」
「あれね、最後に常連さんが泣きながら書いたの。字が曲がるくらいなら私が書けばよかったわ」
真島さんは、少し笑った。
笑い方が店の人だった。こちらに向かってではなく、空いた席に向かって笑うような感じがある。
「予約フォームは誰が作ったんですか」
「甥っ子」
「今も連絡は取れますか」
「取れるけど、東京に行ったわ」
「管理者情報は」
「知らない」
「サーバ会社は」
「知らない」
「ドメインの契約は」
「知らない」
「甥っ子さんは、かなり重要なものを置いて東京に行きましたね」
「若い子はみんな、何か置いていくものよ」
妙にいいことを言われて、私は困った。
いいことを言われても、管理者権限は戻ってこない。
「予約フォームが動き始めたのは、いつですか」
「閉めた次の日」
「早いですね」
「ええ。私より働き者」
「笑いごとでは」
「分かってるわ」
真島さんは湯呑みを置いた。
「最初はね、懐かしいと思ったの。閉めたのに予約が来るなんて、ありがたいじゃない。まだ誰かが思い出してくれてるみたいで」
「はい」
「でも、毎晩なの。毎晩、午前三時に予約が入る。朝になると、カウンターに水滴が残ってる。グラスを使ったあとみたいに」
「鍵は」
「閉めてる」
「誰かが入った形跡は」
「ない。お酒も減ってない。椅子だけ、少し引かれてる」
「監視カメラは」
「ないわ。あったら嫌じゃない」
「店としてはそうかもしれませんが、調査としては困ります」
「ごめんなさいね。閉店前に怪異対応のことまで考えてなかったから」
「普通は考えません」
私はノートパソコンを開いた。
真島さんにフォームの画面を見せる。彼女は画面を見ると、顔を少しだけしかめた。
「これ、星が増えてる」
「星?」
「前はこんなに点滅してなかった」
「そこですか」
「気になるじゃない」
「気にはなります」
フォームの背景で、星マークが点滅している。昨日より多い気がする。気がするだけかもしれない。私はスクリーンショットを撮った。
怪異対応では、気がする、を記録に落とすのが大事である。気がする、のままだとただの不安だが、スクリーンショットにすると証拠の顔をする。証拠になるとは限らない。顔だけである。
管理画面を開く。
新規予約が入っていた。
予約者名は、また同じ。
旧女子大 学生課
ただし、今回は備考欄があった。
五名。窓側。灰皿あり。卒業式のあと。
真島さんが息を止めた。
私はそれを見た。
「心当たりがありますか」
「窓側の席なんて、うちにはないの」
「ない?」
「地下だったから」
私は画面を見た。
スナック真珠は、このビルの一階ではなかったのか。
真島さんは少し困った顔をした。
「今は一階なのよ」
「今は」
「昔は地下にあったの。改装の前。ビルの入口も違った。今のバーの奥に、階段があったの」
「地下はまだありますか」
「ないと思うわ」
「思う」
「塞いだって聞いたから」
「誰に」
「前の大家さん」
「榊原さん」
「小夜子さんのお父さん」
「なるほど」
なるほど、ではない。
閉店済み店舗の予約フォームが、閉店前の店ではなく、さらに昔の地下店舗の記憶を拾っている。しかも備考欄は卒業式のあと。女子大小路に女子大があった頃の話かもしれない。
いや、かもしれない、で済ませたい。
済ませたいが、済まない。
私は榊原さんを見た。
「地下、あります?」
「あります」
「あるんですか」
「塞いであります」
「塞いだものは、ないものに含めてください」
「塞いであるものは、塞いであるものです」
「開きますか」
「鍵はあります」
「なぜ」
「大家なので」
大家なので、は便利すぎる。
私たちは一階へ降りた。
夜の営業前で、ビルの中はまだ静かだった。看板の消えかけたバーのシャッターは半分だけ上がっている。小料理屋からは出汁の匂いがした。出汁は信頼できる。少なくとも、出汁のある場所では人間が何かを煮ている。
真珠の入口は、バーの横にあった。
小さな扉。貼り紙。長い間ありがとうございました。
鍵を開けると、空気が少し変わった。
店内は狭かった。カウンター六席。奥に小さな棚。グラスは伏せられ、ボトルは片づけられている。椅子はきちんと入っている。閉店した店の匂いがした。埃ではない。使われなくなった布と、抜けきらない酒と、片づけても残る人の声のようなもの。
真島さんはカウンターを指で撫でた。
「水滴は、朝ここに」
「昨日も?」
「ええ」
カウンターの端に、丸い跡があった。
乾いている。
私は写真を撮った。
榊原さんは店の奥へ進み、棚の横の壁を軽く押した。壁が少し鳴った。もう一度押す。古い板がずれ、奥に細い扉が現れた。
私は見なかったことにしたかった。
「瀬戸口さん」
「はい」
「開けますか」
「開けないという選択肢は」
「あります」
「では開けません」
「ですが依頼は進みません」
「依頼の方が開くのを待つ可能性は」
「午前三時には」
私は時計を見た。
午後二時。
まだ時間はある。
時間があるということは、逃げる時間もあるということだが、たいてい逃げない。人間は本当に追いつめられるまで逃げない。だから人間なのだと思う。
榊原さんが鍵を差した。
扉が開いた。
湿った空気が出てきた。
階段があった。下へ降りている。
「地下、塞いであるんですよね」
「塞いだはずです」
「はず」
「工事の書類では」
書類は信用できる。
書類しか信用できない。
しかし、書類だけが間違っていることもある。
私はスマホのライトを点けた。階段の下は暗い。電波はある。モバイル回線は弱い。Wi-Fi一覧は見ない。見ないつもりだったが、また見えた。
SHINJU-B1-STAFF
私は声に出して言った。
「やめてほしい」
階段を降りた。
真島さんは降りなかった。榊原さんは降りた。降り方が慣れていた。私はそれを指摘しようとしてやめた。階段で大家を怒らせるのは得策ではない。
地下には、店があった。
古いカウンター。窓のない壁。低い天井。赤い椅子。棚にはボトルが並んでいる。埃はない。少なくとも、見える範囲には。
閉店した店ではない。
営業前の店だった。
ただし、客はいない。
時計だけがあった。壁掛け時計。針は午前三時で止まっている。
私はノートパソコンを開けなかった。地下のスナックでノートパソコンを開くほど、私は強くない。スマホで管理画面を見る。
予約一覧が更新されていた。
現在受付中。
席数五。
予約者名。
旧女子大 学生課
備考。
卒業式のあと。窓側。灰皿あり。いつもの席。
窓側はない。
地下だからだ。
ない席を予約している。
私はカウンターを見た。端の席に、グラスが五つ並んでいた。さっきまでなかった。私はたぶんなかったと思う。いや、あったかもしれない。地下に入った時点で、記憶の信用度は下がっている。
グラスの底に、水が少しだけ残っていた。
「榊原さん」
「はい」
「帰っていいですか」
「二度目です」
「回数の問題ではありません」
「もう少しです」
「何が」
「たぶん、来ます」
その時、階段の上から、真島さんの声がした。
「ねえ、誰かいるの?」
私は見上げた。
「真島さん、降りないでください」
「音がしたの」
「こちらでもしました」
「歌が」
「歌?」
耳を澄ます。
聞こえた。
古い歌だった。どこかで聞いたことがあるような、ないような、歌詞の切れ端だけが残る歌。カウンターの奥からではない。階段の上でもない。予約フォームの画面から聞こえていた。
スマホが鳴っている。
いや、再生されている。
管理画面に、音声ファイルが添付されていた。
sotsugyou_after_last.mp3
「ファイル名が嫌すぎる」
私は再生を止めようとした。
止まらない。
ミュートにした。
小さくなったが、止まらない。
榊原さんが言った。
「消さない方がいいです」
「分かっています」
「本当に?」
「分かってるんですが、消したい」
その時、カウンターの端に、煙が立った。
灰皿がある。
さっきまではなかった。
煙草の火が、誰も持っていないのに赤くなっている。
五つのグラスの向こうに、影が座っているように見えた。薄い。顔は分からない。髪型も服も曖昧で、ただ、若い女たちが卒業式のあとに並んで座っている、という形だけがあった。
私は息を止めた。
恐怖というより、場違いなものを見てしまった感じがした。
ひとつの影が言った。
「窓側、空いてますか」
私は地下の壁を見た。
窓はない。
だが、カウンターの端だけ、少し明るかった。壁に四角い光がある。外の光ではない。昔の昼のような光だった。
榊原さんは何も言わない。
私は言った。
「申し訳ありません。現在、窓側席はご用意できません」
「どうして」
「閉店しています」
「閉店?」
「はい」
「真珠さんが?」
「はい」
「いつ」
「先月です」
影たちは、少しざわめいた。
その声は、悲しそうでも怒っているようでもなかった。ただ、知らなかったことを知らされた時の空気だった。
「じゃあ、卒業式のあと、どこに行けばいいんですか」
私は黙った。
それは私に聞かれても困る。
困るが、予約フォームに聞かせるよりはましだった。
「真珠さんは閉店しました」
「そう」
「ただ、最後のページを作ります」
「最後のページ?」
「店が閉まったことを書きます。長い間ありがとうございました、と」
「誰が読むの」
「呼ばれた人が」
「私たちも?」
「たぶん」
たぶん、で仕事をするのはよくない。
しかし、この場で確実なことは何もなかった。
影のひとつが、小さく笑った。
「じゃあ、灰皿も片づけないとね」
煙が消えた。
グラスの水滴だけが残った。
歌が止まった。
地下は、ただの古い地下になった。いや、ただの、というには少し無理があるが、少なくとも営業中ではなくなった。
私は階段を上がった。
真島さんが入口で待っていた。顔色が少し悪い。
「……誰か、いた?」
「予約客が」
「そう」
真島さんはカウンターを見た。
地上の店のカウンターではなく、その奥にある見えない地下の方を見ていた。
「卒業式のあと、よく来てくれた子たちがいたの。あの頃は、まだ地下でね。窓なんかなかったのに、端の席を窓側って呼んでた」
「なぜ」
「そこだけ、昼間にちょっと明るかったの。外の光じゃないんだけど」
「外の光じゃない明るさを、窓側と呼んでいた」
「そう」
真島さんは笑った。
「変ね」
「このビルでは、まだ普通の方です」
言ってから、私は自分の発言に少し驚いた。
慣れ始めている。
よくない。
事務所に戻り、私は作業に入った。
予約フォームは消さない。削除は再生成を呼ぶ。ドメインも捨てない。拾われる。電話にはできるだけ出ない。出ると出席になるらしいので。
私はトップページを差し替えた。
文面は真島さんに確認した。
スナック真珠は閉店しました。
長い間ありがとうございました。
この場所で過ごした時間は、今も店の名前に残っています。
ご予約は承っておりません。
ただし、思い出された方は、どうぞそのまま思い出してください。
「最後の一行、変じゃない?」
「変ですね」
「直す?」
「いえ、このままで」
「なぜ」
「たぶん、必要です」
真島さんは少しだけ黙って、それから頷いた。
公開ボタンを押す。
画面が切り替わった。
黒背景にピンクの星は消えた。代わりに、白地に小さな文字で閉店のお知らせが出る。簡素すぎる気もしたが、今はそれでいい。
管理画面の予約件数が減った。
二十七件。
十八件。
九件。
一件。
ゼロ。
私は肩の力を抜いた。
その瞬間、黒電話が鳴った。
りりりりん。
りりりりん。
私は榊原さんを見た。
「出ない方がいいんですよね」
「今回は」
「今回は?」
「出てもよいかと」
私は受話器を取った。
「……はい、瀬戸口です」
ノイズはなかった。
女の声がした。
「閉店、見ました」
「はい」
「じゃあ、今日は帰ります」
「はい」
「灰皿、片づけておいてください」
「分かりました」
少し間があった。
「あと、窓側」
「はい」
「いい席でした」
電話が切れた。
私は受話器を戻した。
部屋は静かだった。廊下の奥も、しばらく鳴らなかった。
翌朝、真島さんからメッセージが届いた。
カウンターに水滴はなかったらしい。
ただ、灰皿がひとつだけ、地下の階段前に置かれていたという。
私は「処分してください」と返信しかけて、やめた。
代わりに、こう返した。
店に置いておいてください。
ただし、予約フォームには載せないでください。
すぐに既読がついた。
返信はなかった。
それでよかった。
午後、私は廊下の複合機の横を通った。
ログ語りはいなかった。
いないならいないで少し気になる。いたらいたで困る。妖怪とは、そういう存在なのかもしれない。
代わりに、複合機の排紙トレイに一枚の紙が出ていた。
私は触りたくなかったが、触った。
紙には、短く印字されていた。
閉店処理:暫定完了
備考:店名は残存
私は紙を折り、机の引き出しに入れた。
捨てると、たぶん拾われる。
この仕事を始めて二日目で、私はすでにいくつかのことを学んでいた。
たとえば、消せば終わるとは限らないこと。
閉じたものが、閉じたことを理解するには時間がかかること。
そして、女子大小路では、名前の方が中身より長生きすること。
夕方、広小路のホテルの前を通った。
通ったというより、わざわざ遠回りした。私は栄へ出ないが、広小路のホテル前までは出る。これは栄ではない。女子大小路の延長である。私の中ではそういうことになっている。
ガラス扉の向こうに、白河玲子さんがいた。
姿勢のよい人だった。黒髪をきちんとまとめ、ホテルの制服を着て、客に小さく頭を下げている。夜の街の看板やタクシーや声の中で、その人だけが少し静かだった。
私は立ち止まらなかった。
立ち止まると不審者になる。
歩きながら、横目で見ただけである。
それでも少し回復した。
人間には信仰が必要である。私の場合、覚王山のカツ丼と、熱田のひつまぶしと、遠くから見る白河玲子さんだった。最後のひとつは、本人に知られてはいけない。
その夜、怪異IT相談所の問い合わせフォームに、新しいメールが届いた。
件名:部屋が見つかりません。
本文:でも、部屋の中にいます。
差出人:404号室
私はしばらく画面を見つめた。
このビルは三階建てである。
「増えるな」
廊下の奥で、何かが小さく笑った。




