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女子大小路 怪異IT相談所  作者: 堀吉 蔵人


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3/5

第3話 404号室はありません


 このビルは三階建てである。


 これは重要な事実だ。

 少なくとも、外から見た限りでは三階建てである。登記上どうなっているかは知らない。知りたくもない。知ると責任が発生する。世の中には、知らないままにしておくことで生活を守れる情報がある。

 だが、外から三階建てに見える建物に、四階の部屋はない。

 ましてや、四〇四号室はない。

 ないはずだった。

 ところが、怪異IT相談所の問い合わせフォームには、こういうメールが届いていた。


 件名:部屋が見つかりません。

 本文:でも、部屋の中にいます。

 差出人:404号室


 私は画面を閉じた。

 もう一度開いた。

 同じメールがあった。

 もう一度閉じた。

 現実は、閉じたくらいでは消えない。大変よくない性質である。

 私は椅子にもたれて、天井を見た。蜘蛛の巣はまだあった。蜘蛛本人もまだいた。昨日より少し中央寄りにいる。こちらの仕事を監視しているようで、たいへん不愉快である。


「四〇四号室はありません」


 私は声に出して言った。

 声に出すと、少しだけ現実が補強される。補強される気がする。実際には何も補強されないが、気分は大事だ。気分が折れると、作業効率が落ちる。

 問い合わせフォームを開き直す。

 メールは残っている。

 受信時刻は、午前三時。

 また午前三時である。

 午前三時という時刻は、このビルとかなり相性が悪い。あるいは良すぎる。どちらにしても私とは合わない。

 私はメールヘッダを確認した。

 送信元IPは空欄だった。空欄というのは、情報として強い。何もない、という情報がある。ないものがあるのは困る。

 User-Agent欄には、こうあった。


 Mozilla/5.0 (Not Found)


 ふざけている。

 私はキーボードに指を置いたまま、しばらく黙った。

 返信するべきではない。

 返信すると、やり取りが成立する。やり取りが成立すると、案件になる。案件になると、対応しなければならない。

 私は対応したくない。

 しかし、問い合わせフォームから来たメールを無視すると、再送される。再送されると、通知が増える。通知が増えると、気が散る。

 気が散るのはよくない。

 仕方なく、私は返信した。


 瀬戸口です。

 当ビルに404号室はありません。

 部屋番号をご確認ください。


 送信。

 三秒後、返信が来た。


 確認しました。

 ありません。

 でも、部屋の中にいます。


 早い。

 早すぎる。

 私は舌打ちしかけてやめた。舌打ちは癖になる。癖になったものは、いつか白河玲子さんの前で出る。そうなったら終わりである。

 私は深く息を吐いた。

 現地確認が必要だった。

 嫌な言葉である。現地確認。四文字の中に、移動、面倒、責任、靴を履く、が全部入っている。

 ただし今回は、現地がビルの中で済む可能性が高い。

 それはまだ救いだった。

 救いにしては湿っているが。


 午前十時すぎ、榊原小夜子が来た。

 ノックはあった。

 返事をする前に扉は開いた。

 文化はあるが、運用されていない。


「おはようございます」

「開けるの早いですね」

「瀬戸口さんのお返事が遅いので」

「待つという選択肢は」

「あります」

「使ってください」

「善処します」

「善処は実装されない言葉です」


 榊原さんは、今日も黒いワンピースに薄い羽織だった。手には小さな包みを持っている。

 私は包みを見た。

 甘い匂いはしない。

 少し安心した。

 差し入れに負けるのは、あまり頻繁だと人間の尊厳に関わる。


「四〇四号室からメールが来ました」

「そうですか」

「驚かないんですか」

「四〇四ですから」

「説明になっていません」

「見つからないんでしょう」

「見つからない部屋からメールが来るのは、見つからないで済む話ではありません」

「でも、届いています」

「届くなと言っています」


 私は管理画面を見せた。

 榊原さんは画面をのぞきこみ、少しだけ目を細めた。


「文面が丁寧ですね」

「そこですか」

「悪い方ではなさそうです」

「部屋の有無と人格は別です」

「人格があるとは限りません」

「ない方が嫌です」


 榊原さんは、包みを机に置いた。

 中から古い鍵が出てきた。

 真鍮色。小さい。番号札がついている。

 番号札には、かすれた文字でこう書かれていた。


 404


「持ってるじゃないですか」

「いま見つかりました」

「どこから」

「鍵箱から」

「鍵箱に四〇四号室の鍵があるのは、ビル管理上どうなんですか」

「使われていない鍵は、よくあります」

「部屋もないのに?」

「鍵の方が先にあることもあります」

「ありません」

「このビルではあります」


 私は鍵を見た。

 持ちたくない。

 しかし、置いたままにもしたくない。

 鍵というものは、あるだけでどこかを開ける。開ける先が分からない鍵は、ほとんど脅迫状である。

 榊原さんは言った。


「今日は廊下、短いですね」

「長短があるんですか」

「あります」

「今日は短い」

「ええ」

「どれくらい」

「三十メートルほど」

「十分長い」


 私は立ち上がった。

 ノートパソコンは置いていく。スマホだけ持つ。鍵も持つ。持ちたくないが持つ。

 榊原さんが扉の外に出た。

 廊下は、たしかに短く見えた。

 短いと言っても、外から見た建物の奥行きよりは長い。基準がおかしくなっている。初日に五十メートルだったものが三十メートルになると、短いと感じる。人間の感覚は簡単に壊れる。

 複合機の横に、ログ語りはいなかった。

 いない。

 いないと困るわけではない。

 ただ、いないと少しだけ不安になる。

 これはよくない。私は妖怪に精神的依存を始めているのかもしれない。最悪である。


 廊下を進む。

 鍵屋、占い、古物商。私の事務所。複合機。そこから先は、少し暗い。

 昼なのに暗い。

 蛍光灯はついている。ついているが、光が奥まで届いていない。光にも職務放棄があるらしい。

 壁には、いくつかの扉がある。

 三〇五。

 三〇六。

 三〇七。

 見た覚えのない部屋番号だ。

 私は立ち止まった。


「榊原さん」

「はい」

「三階に三〇七号室までありましたっけ」

「ある日はあります」

「曜日みたいに言わないでください」

「今日はある日です」

「嫌な日ですね」


 さらに進む。

 三〇八。

 三〇九。

 番号の増え方が嫌だった。数が進むことそのものが、こちらを奥へ誘っている。

 廊下の空気が少し冷えた。

 スマホの電波はある。

 Wi-Fi一覧は見ない。

 見ないつもりだったが、見えた。


 404_ROOM_FREE_WIFI


 私はスマホを伏せた。

 歩きながらスマホを伏せても意味はないが、気持ちの問題である。

 その時、廊下の端から、小さな声がした。


「見つかりません」


 私は足を止めた。

 榊原さんも止まった。

 声は、床の近くから聞こえた。


「見つかりません。見つかりません。見つかりません」


 子どもの声だった。

 ただし、本当に子どもかどうかは分からない。このビルでは、声だけで判断するとだいたい間違う。

 私はゆっくり前へ進んだ。

 廊下の壁際に、小さな影がいた。

 背丈は小学校低学年くらい。古い学生帽のようなものをかぶっている。服は黒っぽい。顔はよく見えない。見えないのに、こちらを見ていることだけは分かる。

 影は両手で紙を持っていた。

 紙には、大きくこう書かれている。


 404 Not Found


 私はしばらく黙った。

 榊原さんが言った。


「四〇四小僧です」

「名前がそのまますぎませんか」

「分かりやすいでしょう」

「分かりやすさと納得感は別です」

「道案内が得意です」

「見つかりませんと言っていますが」

「本人は得意だと思っています」


 四〇四小僧は、紙から顔を上げた。

 顔はやはりよく見えない。

 声だけがはっきりしていた。


「部屋が見つかりません」

「四〇四号室ですか」

「はい」

「このビルにはありません」

「見つかりません」

「ないからです」

「でも、部屋の中にいます」

「では、そこが四〇四号室なのでは」

「見つかりません」

「会話がループしていますね」

「見つかりません」


 私は頭が痛くなった。

 子ども型の怪異は困る。怒りにくい。怒るとこちらが悪く見える。しかも相手は論理を通さない。いや、通しているのかもしれないが、プロトコルが違う。

 榊原さんが鍵を指した。


「瀬戸口さん」

「はい」

「鍵を」

「渡すんですか」

「使うんです」

「どこに」

「見つからないところに」


 私は四〇四小僧の後ろを見た。

 壁がある。

 扉はない。

 ただ、壁紙の継ぎ目が少し歪んでいる。そこだけ、壁が周囲よりも薄く見えた。

 私は鍵を持ち上げた。

 鍵穴はない。

 当たり前である。壁なのだから。

 だが、鍵を近づけると、壁紙の継ぎ目に小さな穴が開いた。

 私は思わず引いた。


「いま作りましたよね」

「見つかりました」

「作ることを見つけると言うな」


 四〇四小僧は嬉しそうに言った。


「見つかりました」


 鍵を差した。

 回した。

 壁が開いた。

 中は暗くなかった。

 むしろ明るかった。

 古い蛍光灯の白い明かり。床には段ボール箱が並び、棚には紙袋、缶、古い端末、鍵束、写真立て、ノート、壊れたゲーム機、充電器、傘、片方だけの手袋、見覚えのないUSBメモリ、見覚えのあるような名刺入れが置かれている。

 部屋というより、なくし物の倉庫だった。

 いや、なくし物というには、少し人間に近すぎるものが多い。


 四〇四小僧は中へ入った。

 私は入口で止まった。


「入るんですか」

「入らないと案件が進みません」

「案件の方が出てくる可能性は」

「あります」

「では待ちます」

「出てくるものを選べません」

「入りましょう」


 私は入った。

 入った瞬間、スマホが震えた。

 通知が出る。


 未送信メッセージが見つかりました。


 私はスマホを見た。

 送信先は、古い電話番号。

 本文は空欄。

 送信日時は、十年前。

 私はその頃、まだ学生だった。いや、学生ではなかったかもしれない。二十九から十を引くと十九である。十九歳の私は、何をしていただろう。あまり思い出したくない。思い出したくないものが見つかる部屋は、非常に困る。

 私は通知を消した。

 消えなかった。

 見なかったことにした。

 こちらは得意である。


 棚の奥から、音がした。

 紙をめくる音。

 四〇四小僧が箱をあさっている。


「探し物は何ですか」

「見つかりません」

「だから何が」

「送れなかったものです」

「誰の」

「依頼人の」

「依頼人がいるんですか」

「います」

「先に言ってください」


 四〇四小僧は、小さな封筒を持って戻ってきた。

 封筒ではなかった。

 スマホの画面だった。

 いや、封筒の形をしたスマホの画面という方が近い。透明で、薄く、指で触れると波紋が出る。

 差出人の名前が表示されていた。


 真島 由香


 私は眉をひそめた。

 真島。

 前日の依頼人、真島珠子と同じ姓である。

 偶然かもしれない。

 このビルでは偶然も信用できない。


「由香さんとは」

「見つかりません」

「人名に見つかりませんで返さないでください」


 その時、背後で声がした。


「その子は、珠子さんの妹さんですね」


 ログ語りだった。

 いつの間にか、入口の外に立っていた。黒い影が、廊下の光を少し吸っている。

 私は少し驚いた。

 少しで済んだ自分に驚いた。


「いたんですか」

「記録には」

「実体は」

「さあ」

「そういう返し、やめてください」


 ログ語りは、四〇四小僧の持つ透明な封筒を見た。


「真島由香。旧女子大の短期課程に在籍。卒業式のあと、真珠の地下店舗に来店。姉の珠子さんに送るはずだったメッセージを未送信のまま端末ごと紛失。端末は後に見つからず、見つからないものは見つからないものの側に寄る。つまりここです」

「詳しいですね」

「記録があります」

「どこに」

「見つからない場所に」

「あなたも四〇四側ですか」

「私はログ側です」


 境界が分からない。

 分からないものが増える一方である。

 私は透明な封筒を見た。


「送ればいいんですか」

「送信先はありません」

「亡くなっている?」

「いいえ。番号がありません」

「番号だけ?」

「番号がないというのは、今の世界ではかなり強い不在です」


 ログ語りが言うと、妙に納得しかける。

 納得しかけてから、私は抵抗した。

 妖怪の講釈に流されると危険である。相手は説明しているようで、自分の側へ少しずつ引き込んでいる。


「珠子さんは」

「存命です」

「なら見せればいい」

「見せると、見つかったことになります」

「いいじゃないですか」

「見つかったものは、四〇四号室には残れません」

「それもいいのでは」

「残したいものもあります」


 私は四〇四小僧を見た。

 小僧は透明な封筒を両手で抱えている。

 顔は見えない。

 見えないが、少し困っているように見えた。


「君は、見つけたいのか、見つけたくないのか」

「見つかりません」

「答えになっていません」

「見つかると、なくなります」

「ここから?」

「はい」

「でも、見つからないままだと、ずっとここにある」

「はい」

「それは保管ですか」

「迷子です」


 少しだけ、言葉が通った気がした。


 私は透明な封筒を受け取った。

 軽かった。

 中身は画面だった。古いメール作成画面。本文欄には、短い文章が入っている。


 お姉ちゃんへ

 卒業式のあと、真珠に行けてよかった。

 窓側の席、本当は窓なんてないのに、なんであんなに明るいんだろうね。

 店を続けてくれてありがとう。

 また行きます。


 下書き保存。


 送信はされていなかった。


 私は画面を見つめた。

 昨日、閉店済みの予約フォームに最後のページを作った。長い間ありがとうございました、と書いた。思い出された方は、そのまま思い出してください、とも書いた。

 その結果、見つからなかったものが出てきた。

 作業には副作用がある。

 暫定対応にも、だいたい副作用がある。

 知っていたはずだ。

 知っていたが、ここまで直接出てくるとは思わない。


「珠子さんに渡しましょう」

「送信先がありません」

「印刷します」

「メールなのに?」

「メールを印刷してはいけない法律はありません」

「ありますか?」

「たぶんありません」


 私は透明な封筒を持って、部屋を出た。

 四〇四小僧はついてきた。

 榊原さんもついてきた。

 ログ語りは、いつの間にかいなくなっていた。いなくなるなら一言ほしい。いや、一言あると長いので、なくてよかったかもしれない。


 事務所に戻り、私は複合機の前に立った。

 複合機は古い。古いが、なぜかよく動く。よく動くものほど信用できない。理由が分からないからだ。

 透明な封筒をスキャナ台に置く。

 置けた。

 私はもう驚かなかった。

 驚かないことに驚いたが、それもやめた。

 コピー開始。

 複合機が唸った。

 紙が一枚、排紙トレイに出てきた。


 お姉ちゃんへ

 卒業式のあと、真珠に行けてよかった。

 窓側の席、本当は窓なんてないのに、なんであんなに明るいんだろうね。

 店を続けてくれてありがとう。

 また行きます。


 私はその紙を見た。

 文字は少しかすれていた。

 けれど読めた。

 四〇四小僧は紙を見て、小さく言った。


「見つかりました」

「はい」

「見つからなくなります」

「たぶん」

「でも、部屋には残ります」

「どこに」

「壁に」


 私は四〇四号室に戻った。

 部屋の壁には、いくつもの紙が貼られていた。未送信のメッセージ、なくしたメモ、送れなかった写真のプリント、宛先不明の封筒。どれも、見つからないまま残ったものだった。

 私は由香さんのメッセージを、壁の空いた場所に貼った。

 その瞬間、部屋の棚から、透明な封筒が消えた。

 紙だけが残った。


「これでいいんですか」

「見つかりました」

「解決ですか」

「見つかりました」


 四〇四小僧は、初めて少し笑ったように見えた。

 顔は見えない。

 それでも、笑ったと思った。


 夕方、真島珠子さんに連絡した。

 真珠の件は一応終わっている。終わった案件の依頼人に、別の怪異の成果物を渡すのは業務範囲としてかなり怪しい。

 だが、私は電話をかけた。

 電話は苦手だ。

 苦手だが、今回はメールではいけない気がした。


「はい、真島です」

「瀬戸口です」

「あら。昨日はありがとう」

「いえ」

「また何か?」

「妹さんのことで」

「……由香?」

「はい」


 沈黙があった。

 電話の向こうで、息を吸う音がした。


「何か、見つかったの?」

「見つかったと言っていいのか分かりません」

「じゃあ、何?」

「見つからない場所にありました」

「そう」


 真島さんは、それ以上聞かなかった。

 この人は、変な説明を受け止めるのがうまい。夜の店をやっていた人は、たぶん人の変さを分類しすぎない。

 私は紙の内容を読むか迷った。

 迷った末に、読まなかった。


「紙があります。お渡ししてもいいですか」

「ええ」

「ただ、メールとして送られたものではありません」

「じゃあ、何として?」

「壁に貼ったものの写しです」

「分かったわ」


 分かったのか。

 私は少し不安になった。

 しかし真島さんは、静かに言った。


「取りに行くわ」


 夜になる前に、真島さんが来た。

 昨日より化粧が薄かった。口紅も少しだけ控えめだった。私は紙を封筒に入れて渡した。

 真島さんは、その場では開けなかった。

 両手で封筒を持ったまま、しばらく廊下を見た。


「由香はね、物をなくす子だったの」

「はい」

「傘も、財布も、学生証も、よくなくした」

「学生証も」

「ええ。卒業式の日もなくしたって騒いでた」

「そうですか」

「最後まで、なくしものばかりしてた」


 真島さんは小さく笑った。

 笑ったが、目は笑っていなかった。


「でも、見つかったのね」

「はい」

「じゃあ、よかった」


 それだけ言って、彼女は帰った。

 私は見送った。

 階段を下りる音がした。少しして、ビルの入口の音がした。それから、遠くで車の音。

 廊下は静かだった。

 四〇四小僧はいない。

 四〇四号室への壁も、ただの壁に戻っていた。

 鍵は私の机の上に残っている。

 残るな。


 私は引き出しを開け、鍵を入れようとした。

 中には、昨日の紙が入っている。


 閉店処理:暫定完了

 備考:店名は残存


 その横に、いつの間にか新しい紙が増えていた。


 404処理:一部検出

 備考:未送信は保管継続


 私は引き出しを閉めた。

 何も入れていないのに増える引き出しは、もはや収納ではない。簡易的な災厄である。


 夕方、広小路のホテルの前を通った。

 通ったというより、また遠回りした。二日続けてとなると、遠回りではなく巡回である。巡回という言葉は業務っぽいので、私は少し安心した。

 ガラス扉の向こうに、白河玲子さんがいた。

 客に何かを案内している。指先が静かで、言葉は聞こえないのに、たぶん分かりやすい説明をしているのだろうと思った。

 私の説明は、だいたい長くなる。長くなって、途中で自分でも嫌になる。

 白河さんの説明は短そうだった。

 それだけで尊い。

 私は立ち止まらなかった。

 立ち止まると不審者になる。

 歩きながら横目で見て、少し回復した。

 その瞬間、白河さんがこちらを見た。

 目が合った。

 私は足を止めかけ、止めず、止めなかったことに失敗し、結果として不自然に速度を落とした。

 白河さんは、小さく会釈した。

 私は会釈を返した。

 たぶん返した。首が変な角度で動いた気がする。

 そのまま歩いた。

 角を曲がってから、私はやっと息を吐いた。

 今日一番怖かったのは、四〇四号室ではなかったかもしれない。


 事務所に戻ると、問い合わせフォームに新しいメールが届いていた。


 件名:本人確認が通りません。

 本文:本人です。

 差出人:鬼


 私はしばらく画面を見た。

 それから、引き出しを開けて、四〇四号室の鍵をしまった。


「順番に来い」


 廊下の奥で、誰かが笑った。

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