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第八話 休みの日に仕事なんかするもんじゃない

 土曜日の朝。糸岡の携帯に着信があった。上司の井本からだ。

「はい、糸岡です。おはようございます」

『ああ、おはよ。休みの日に悪いんだけど、今日出勤してくれないか。おれの当番の日なんだけど、ちょっと体調が悪くてさ』

 糸岡は、返事をためらった。昨夜から妻が風邪で寝込んでおり、今日はそばにいてやろうと思っていたのだ。

『あれ、なんか予定入ってるの?』

「あ、いえ、予定はないんですけど」

『そう、良かった。じゃ、頼んだよ』

 切れた。糸岡は思わず「あ!」と叫んだが、今さら掛け直すことはできなかった。

(行くしかないか)

 糸岡の声に気づいたらしい妻が、ガウンを羽織ってリビングに来た。

「あなた、何かあったの?」

「うーん、井本部長から、今日代わりに出勤してくれって」

「そう。じゃあ、行かなきゃね。せっかく本社に戻れたんだから、がんばらないと」

「ごめんな」

「ううん、あたしは大丈夫よ」

「さっき、おかゆは作ったから、食べるといい」

「ありがとう。もう少ししたら食べてみるわ」

「無理するなよ。何かあったら、おふくろを呼んでいいからさ」

 妻は苦笑して首を振った。糸岡の母が近所に住んでいるのだが、それはイヤらしい。

「大丈夫よ。いってらっしゃい」

「なるべく早く帰るよ」


 会社に向かって車を走らせながら、糸岡は井本に腹を立てていた。

(どうせ朝まで飲んでたか、あるいは徹夜マージャンをやってたか、またはその両方だろう。月に一度の土曜当番の日だってわかってるくせに)

 糸岡の新しい配属先は日祭日が休日で、土曜日は一部の役職者だけが交代で出勤し、電話番をしている。業者からの急な連絡に備えてだが、ほとんどかかってくることはない。終業時間の五時まで、ボーっと過ごすだけだ。

(それすらできないほど体調の悪い人間が、あんなに元気な声で電話してくるもんか。眠たいだけだろう。だったら、電話の前で寝ればいいじゃないか)

 会社に着くと、総務の樋口に会った。

「あれ、糸岡じゃないか。今日当番だっけ?」

「いや、例によって、井本部長のドタキャンさ。それより、そっちこそ休みじゃないのか」

「ああ。総務課は土曜日休みなんだけど、株主総会の準備が間に合わなくてさ」

「それって、サービス出勤じゃないか」

「まあね。でも、ナイショにしてくれよ。ホントは無届けの休日出勤は禁止だからさ」

「了解。今日は透明人間だな」

「って言うより、ゾンビだな」

「おまえはすでに死んでいる」

「そういうこと。じゃあな」

 樋口以外にも、何人もゾンビ社員が来ていた。仕事がまっていて、やむを得ず出勤している人間ばかりではない。何のために休日出勤しているのか、わけのわからない人間も数名いる。おそらく、家庭に居場所がないのであろう。

(こりゃ、ゾンビ会社だな。まあ、おれもそうか)

 ガランとした事務所に入り、糸岡は自分のデスクの電話を、直通外線がつながるよう切り替えた。

「さて、と」

 そうつぶやいたものの、することがない。今日は休みのつもりだったから、昨日は残業して今週分の仕事を終わらせてしまっていた。

(こんな不合理なことはないな。やることのない人間が、給料をもらって一日中デスクに座るだけとは。樋口に申し訳ない。交代できるものなら、交代してやりたいよ)

 結局、ネットで芸能ゴシップなどを検索して時間をつぶした。


 終業間際、電話が鳴った。内線の方だ。

「はい、資材購入課糸岡」

『あ、すまん、樋口だ。ちょっと聞きたいんだけど』

「どうした。総会のことなら、おれに聞かれてもわからんぞ」

『いや、もしかして、外線切ってないか?』

「え、そんなこと」

 あり得ない、と言おうとして、外線のランプが消えていることに気が付いた。昨日、切り替えるのを忘れて帰ったらしく、今朝入れるつもりで、逆に切ってしまったのだ。

「しまった、切れてる。どうしてわかった?」

『業者から、何度電話してもつながらないから、月曜日に掛け直すと代表番号の方にかかってきた』

「そうなのか」

 月曜日に烈火のごとく怒るであろう、井本の顔が浮かんだ。おまえを信用して任せたのにどういうことだ、というセリフすら予想できた。

『しょうがないよ。元はと言えば、井本さんのせいだろう。情状酌量じょうじょうしゃくりょうしてくれるさ』

「だと、いいけど」

 そんな理屈のとおる相手ではない。

(ああ、無駄な出勤をさせられた上に、大目玉か)

 糸岡はガックリ肩を落として退社した。


 家に着き、ドアを開けた瞬間、懐かしいニオイがした。

「ああ、お帰り、史郎。水くさいじゃないか、すぐそばに住んでるのに。ささ、今日はおまえの好きな肉ジャガを作ってやったよ。たんとお食べ」

 そう言って出迎えた母親の後ろに、ひきつった笑顔の妻が立っていた。

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