第十一話 遠い家路
思いがけぬ大雪となった日に、糸岡は……
糸岡が残業を終えて会社を出ると、そこは雪国だった。
これだけまとまって降るのは何年ぶりだろう、などと感心していたが、すぐに「ああーっ!」と呻いた。
(しまった、車用のチェーンを用意してこなかったぞ)
数日前から天気予報でやかましく言っていたのに、忙しさに紛れて忘れていたのだ。
(だって、今朝までそんなに降ってなかったもんなあ)
ちょうど糸岡の目の前を、一台の車がチェーンをじゃらじゃら鳴らしながら、這うようなスピードで通り過ぎて行った。
一度に大量に降った上に、気温が氷点下まで下がったため、まさにアイスバーン状態になっている。この状態の道路を、チェーンやスタッドレスタイヤなしで車を走らせるなど、自殺行為以外の何物でもない。
(仕方がない、車は置いていこう。となると、電車か)
電車に乗るのは数年ぶりである。幸い駅はそれほど遠くない。
糸岡は、ツルツルの歩道を慎重に歩きながら、運賃はいくらだったか思い出そうとして、また、「あっ」と呻いた。
(どうしよう。今日に限って、財布にわずかな小銭しかないぞ。会社に戻って、残っている誰かに借りるか。いや、それも面倒だ。なんとか足りるだろう)
駅に着き、運賃を見ると、ギリギリ手持ちの小銭で足りた。だが、残りは十円しかない。
(この切符をなくしたりしたら、大変だ。気を付けなきゃ)
駅の構内では、ダイヤが大幅に乱れているとのアナウンスが流れていた。当然、ホームには人があふれている。
(こりゃ、乗れるかな。そうだ、今のうちに家にメールしとこう)
スマホを取り出して、三度目の「あ」が出た。電池の残量が二十パーセントを切っている。とりあえず、簡単に事情を送り、すぐに電源を切った。
(節約しないと、途中で切れたら大変だ)
横殴りの雪が吹き付ける中、なかなか電車は来ない。時間つぶしにスマホを見ようとしては、真っ暗な画面に舌打ちした。
ようやくアナウンスがあり、快速が前の駅を出たらしい。
(どうしよう。とりあえず快速に乗るか)
糸岡の降りる駅は快速が止まらない。最寄りの停車駅で、普通に乗り換えることになる。だが、これ以上ホームの寒さに耐えられそうになかった。
だが、当然のことだが、到着した快速は満員だった。
(まあ、もう少し待つか)
ところが、無理にでも快速に乗ろうとする人の波に呑まれ、糸岡も乗らざるを得なかった。車内は立錐の余地もない。
(これじゃ、降りられないぞ)
糸岡が体をねじろうとすると、隣に立っていた女性が「ちょっとお!」と言いながら睨んだ。
「すみません。あ、でも、違いますよ」
冷汗が出た。じっとしているしかない。
(まあ、通り越して大きな駅から折り返すか。あ、いや、だめだ。乗り越し運賃が払えない。絶対に次で降りなきゃ)
電車が止まると、必死に「降ります! 降ります!」と叫びながら人波を掻き分けた。大汗をかいてホームに出ると、再び極寒の世界である。
(ううっ、このままじゃ死ぬ。なんとかしなきゃ)
ホームの自動販売機には、温かそうな飲み物が並んでいる。だが、それを買う金がない。必死で足踏みしたり、手をこすり合わせたりした。
糸岡は、このまま駅のホームでの凍死すら覚悟したが、ようやく普通電車が来た。やれやれ助かったと思ったものの、体が温まる間もなく、すぐに降りるべき駅に着いた。
ここから家まで、市内を循環するコミュニティバスに乗らなくてはならない。路線バスにはたまに乗るので、不幸中の幸い、こちらでも使えるバスカードを持っていた。
だが、バス停に人影がなく、横のタクシー乗り場に長蛇の列ができている。
(循環バスは運休かあ。そりゃそうか。だが、タクシーに乗るような金はないぞ)
方法は一つしかなかった。
(なあに、急ぎ足で歩けば、三十分だ。ここで待ってたって、どうにもならない)
ガタガタと震える体に鞭打って、糸岡は歩き始めた。
最初は辛かったが、歩くほどに体が温まり、ポカポカしてきた。周囲は一面の銀世界。あるのは街灯の明かりくらいで、人も車も通っていない。
(ふん、ロマンチックでいいじゃないか。よっしゃあ、もう少しの辛抱だ。がんばれ、おれ)
ひばりヒルズという響きが気に入って、少し小高いところに家を建てたため、後半はほとんど上り坂ばかりである。次第に、糸岡の息が上がってきた。
(ころぶなよ、おれ。こんなところで、骨折なんかしたら、凍死確実だぞ)
家の明かりが見えた時には、思わず涙がこぼれそうになった。
「ただいま! ようやく、たどり着いたぞ!」
すると、玄関に出迎えた妻が、呆れたようにこう言った。
「まあ、あなたメールの返信見なかったの? 今朝、わたしが車のトランクにチェーンを入れといたわよ、って送ったのに」




